没落貴族

 モンテロの失脚から数日後。

 今日もヴェネツィアは晴天に恵まれ、人々は普段どおりの日々を送っていた。


「アントニオ」

「……お嬢様。これが欲しいと言われましても、お金がなければなんともなりません」


 リアルト橋にほど近い市場。

 魚を並べた露店の前に、フランチェスカと執事のアントニオはいた。


 今日は日差しが良い。

 美しい街は、光で鮮やかに彩られている。

 フランチェスカも、他の婦人のようにつば広のキャプリンをかぶっていた。

 その貴族的な帽子を頭にのせて、フランチェスカは、新鮮な魚をみつめてあごを持つ。


「……こまったものですわ。そろそろお買い物もままならなくなってきたのですね」


 フランチェスカが形のいい眉を寄せていると、


「なんだ、フランチェスカか。その魚が欲しいのか?」


 通りすがりの男が、フランチェスカの肩を抱きながら言う。

 彼はフランチェスカの気に入っていた魚を指差すと、これをくんな、と店主に代金を払い、受け取った魚の包みをフランチェスカに手渡した。


「いつもお前には楽しませて貰ってるぜ。特にこないだのカードじゃちょっといじめすぎちまったからな。気にせずに持っていってくれ」 

「ありがとう。今度は負けませんわ」


 男は、フランチェスカの賭博仲間だったようだ。

 フランチェスカが礼を言うと、彼は、豪胆な笑い声を残して去っていった。

 粗野な男だったが、身に着けているものは上等な品物ばかりだった。

 上品な執事は下げていた頭を上げると、恭しく、


「……お嬢様。そろそろ放蕩生活などはお止めになって、身を固められてはいかがでしょう。それか、もしくは……」

「アントニオ。わたしはまだまだ誰かのモノになるつもりはありません」


 フランチェスカは執事の提案をはっきりと否定し、続けて、


「それに……わたしには生涯をかける目的だってありますわ。あなただって知っているでしょう?」

「目的……」


 主人の言いたいことを理解して、執事は頭を抱える。

 可愛らしいこの少女には、困った癖が一つも二つもあった。


 一つは、彼女が乱れた生活にはばからないこと。

 そもそもがこの華やかなヴェネツィアの風俗は野放しになっている。修道女ですら貞操を保っているものは稀であり、フランチェスカの修道院通いはそれに一役買っていた。フランチェスカには節操はあったが、見境はなかった。


 そしてもう一つ。フランチェスカはどんなギャンブルも愛してやまない、大のばくち打ちなのである。浪費家で、彼女が持っている資産の浮き沈みは激しい。


 現在は大口のパトロンだったモンテロ伯爵を失い、先日のギャンブルでの大敗しもあって困窮した日暮らしを送っていた。


 市場を離れ、フランチェスカと執事は街を練り歩く。


「アントニオ。伯爵の馬にもちょうど飽きていたことですし……こうなったら、新しいパトロンを見つけなければね?」


 ふわふわのひだのついたスカートを揺らしながら、フランチェスカが言う。


「パブリッツィオ卿などは如何でしょう。絵画をよくお楽しみになられますお方です。そこでお嬢様が一つ習作などをお持ちになられて、勉学への援助をと申し出せばご助力頂けるかと」

「絵は嫌ですわ。疲れますもの」


 フランチェスカは口を尖らせて言うと、はああ、と甘い吐息を吐いて、


「ああ、いっそのこと、これからは女の子たちの間を渡り歩いて生きていこうかしら? その日そのときの食事を別の女の子と過ごし、そして夜は甘美な宴をベッドの上で……んふ、ジゴロも悪くはないかなぁ?」


 体にしなをつくりながら言っていたが、傍らで静かにたたずんでいる執事に気づくと、さっと姿勢を正す。


「……ただの冗談ですわ。なんと言ったって、あなたがわたしの唯一の財産だと言ってもいいのですから。わたしがどんな生き方をしようと、そこにアントニオの姿がないようなことはありません」


 執事はかしこまって一礼する。

 そしてフランチェスカに顔をあげ、


「現在、かろうじてお屋敷の方は維持できておりますが……状況は日増しに切迫しております」

「わかっています。あんなに美味しそうなお魚だって買えないくらいだものね。早急に次なる方策を考えなければなりません」


 フランチェスカは腕を組んで歩いていたが、急に自分の口元に指先をやると、


「まあ……その前に、今晩のことを考えなければならないのだけれど?」

「ご夕食でしたら手配は整っております」

「アントニオ。そうではなくて、ね?」


 デザートのことだろうか。

 ……などとは思わなかった。


 どうせ今日もまた、だれかの寝所に赴くつもりだろう。

 主人の将来を案じ、老執事は軽くため息をつくのだった。

 心配する執事もよそに、フランチェスカはいじらしい笑みを浮かべる。


「んふふ。今日こそあの生意気な生娘を陥落してみせますわ。どうやってあのお堅い娘の懐に這入りこもうかなあ?」

「……あまりお戯れのなきように」


 執事は頭を抱える。

 そんなときだった。

 道端に出来ている人垣に気づき、二人は足を止める。


「――そこに現れたゾロ! 彼は伯爵の悪巧みに気づき、襲い来る数多の警備の中から見事に彼の資金を奪っていったのだ……」


 街角で催されていたのは、ゾロの活躍の人形劇だった。

 題目は、先日のモンテロ伯の事件。

 こうやってゾロの事件が劇になるのはいつものことだが……


「アントニオ?」

「なんでしょう」

「――今日はいつにも増してご婦人が多いですわね。どうしたのかしら?」

「私にもわかりかねます。彼女たちはとても熱中されているようですが――」


 ふうん、とフランチェスカは人ごみを見る。


 唐突に観客から大きな嬌声があがった。


 人形劇に姿を現したのは、仮面と赤いマントの人形。

 語り手が仮面の人形を動かすたび、婦人たちから黄色い声があがる。


 もちろん、この人形の正体はフランチェスカだ。

 そして――不思議と、その人気がやけに高い。

 フランチェスカは、語り部の口上に耳をすます。


「……民衆の味方ゾロに相対する謎の仮面! 彼は政府にも民衆にも属さずに己の欲求のままに行動し、ゾロと同じように腐敗した貴族や役人に鉄槌を下す! しかし奪った銀貨は自分のものにし、そして婦人を助け出したとあらばその魅惑的な瞳でどんな女をも魅了してしまうという! ゆえに彼が助けるのは女に限られ、助けた後は二人で甘い一夜を過ごすのだ……」


 実際のフランチェスカと比べると、デマのようでデマにはならないような脚色がすっかりつけられてしまっていた。 


「ふうん?」


 どうやら、ゾロの敵役の存在が、大衆の想像を駆り立てているようだ。


「お嬢様はやけにご婦人に人気のようですね」


 女好きとされている仮面の男に熱をあげる婦人たちを見ながら、執事のアントニオがまじめな顔で冗談を言う。


「そうですわね――そうね。これは……」


 フランチェスカはなにやら考える。

 しかし……人だかりに知った顔を見つけると、その顔がぱっと輝やいた。


「――ロリタ! つかまえたっ!」


 フランチェスカに飛びつかれた娘は、突然の衝撃に慌てて振り向く。


「な、フランチェスカ! 下品な……放しなさい!」

「あら、つれないんですわね? わたしを探しに仕事をサボってまでここまできたというのに?」


 ロリタと呼ばれた女はフランチェスカを引き離すと、


「あ、あたしはこれから仕事なんです!」

「あら。サボりは午前中だけかしら?」

「……ベルナルドさんがご体調を崩されたので、ちょっと様子をみてきたんですよ。というか、なんであたしが貴女に会いに外に出なくちゃならないんですか」


 ちょっかいを出されているのは、化粧っけのないブルネットの娘だった。


 だが、化粧など、彼女の美貌にはもとより必要ないもののように思われた。


 お堅い地味な服を纏っている彼女は図書館の司書で、年はフランチェスカの三つ上の十七歳。

 身長は高めで、骨格は細く、しなやかでおしとやかな体の線をしていた。


 このロリタこそ、フランチェスカが狙っている娘だった。


 フランチェスカは視線でロリタの身体をなぞると、カエルを見つけた蛇のように唇をぺろりと舐める。 

 ロリタは衣服の乱れを手で直すと、ふうと溜息をつき、


「……あなたには言いたいことだってあります。そのうち一度しっかりお話を」 

「あら、やっとわたしの誘いを受けてくれるのかしら?」

「……とぼけないで下さい。あれのことですよ」


 ロリタはすらりと美しい指先を人形劇に向ける。

 指差されていたのは、ゾロと剣を交える仮面の闖入者の姿だ。

 フランチェスカは視線を外し、指でくるくると髪を弄った。


「なんのことだかわかりませんわ」

「だからとぼけたって無駄ですってば。あれ、貴女なんじゃないですか。まったく……貴女のわけの分からない生活には、そろそろ強く苦言を呈させていただきます」

「ふん。あいにく、わたしは聞く耳なんて持ち合わせてはいませんけれど」


 フランチェスカはそっぽを向く。

 そこにまた飛び込む、観客の歓声。

 ゾロと仮面との戦いは、袋が破れて銀貨が散らばった混乱で決着がうやむやになってしまったという締めくくりになっていた。事実からはだいぶ離れているが、それは、次もまた仮面の怪傑が現れるのを予感させるように狙ったのが明らかであった。


 人形劇は幕を閉じる。


 観客たちは、興奮冷めやらぬ様子で語り合いながら散り散りになっていく。


「所詮はゾロの活躍も、皆にとってはたんなる娯楽なのですわね」


 フランチェスカが言うと、ロリタは沈黙した。

 そんなロリタをちらちらと伺いながら、フランチェスカはごきげんに腕を組んで、


「つまり、ここヴェニスでは、義憤に燃える男よりも、お金と淑女にしか興味のない妖艶な人物の方が求められているってことよね? 暑苦しい夜なんかより、みんなは香りたつ一夜を届けてくれる者の方を望むのですわ」

「……別に、ゾロは娯楽を提供するために戦っているわけじゃありませんよ」


 ロリタは素っ気なく言う。

 それを見たフランチェスカは、


「あら? あなたは色恋などに興味はないなんて言うけれど、やはりいっぱしの女ではあるのね」

「いっぱしの女?」

「あなた……ゾロが好きなのでしょう? 劇を見たり、彼を擁護してみたり。意外と少女な面もあるのね」

「だれが。ここで見学していたのは、久々の外出が楽しかったからですよ」


 と、ロリタは心底下らなそうに息を小さく吐きつつ言い、


「それでは、今日のところは失礼します。貴女もあまり無茶をしないように」


 ロリタは踵を返してその場を離れる。

 フランチェスカはロリタを見送りながら、


「……やっぱり、今夜は行く先を変えましょう」

「行き先……どこへでしょうか?」

「もちろん、ベルナルド候のお見舞いですわ」

「はあ……」

「いいお見舞いの品もあることですし。これ、お料理にしてお持ちしたほうがいいかしら?」


 フランチェスカは微笑みを浮かべつつ、魚の包みを持ち上げてみせる。


 アントニオは、これはたんにお見舞いをしたいだけではないな……と思ったのであった。

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