ピアノとお月様

pinokopapa

第1話

ある日、ショッピングモールから駅に向かう通路の途中に、ピアノが置かれました。そのピアノを置いたのは、この通路の両側に並んだ専門店の一つであるピアノ屋さんでした。でも、そのお店をピアノ屋さんと呼んでいいのでしょうか。そもそも、そのお店はこの専門店街で一番目立つ場所にありながら、一番地味なお店でありました。といいますのも、元々あった地元のお店が、ショッピングモール建設に協力して立ち退いた際の約束で、それらのお店の為の専門店街がこの通路に作られました。そして、そのお店の場所を専門店街のどこにするか決める段になって、ああだこうだともめたのですが、いっそ恨みっこなしのくじ引きにしようということになって皆でくじを引いたのです。ところが、そんなことを望んでもいなかったおじいさんにたまたまこの場所があたってしまったと、こういうわけだったんです。最初、ピアノ屋のおじいさんは頑として断りました。しかし、おじいさんがそれを言い出すと、またもめるもとになるからと説得され、仕方なくここに店を開きました。ところが、それが二年経ち、三年になってみれば、これはこれで落ち着いてしまって、誰も気に止めなくなりました。今しも、そのお店に鎮座しているのは、古びたピアノが二台に何やらわからない工具と机、それに電話と、そんなもんです。店主はもう月もあがったこんな時間に、まだ眼鏡を押し下げて鼻眼鏡にし、ピアノの中を覗き込んでいます。ですから、このちょっと髪の淋しくなった店主のやっているお店は、ピアノ工房と言った方がいいのかもしれません。店主はお客さんの様々な要望に応えて、ピアノの欲しい人にはピアノを、治してほしい人には修理を、調律するのも仕事、何処かへ運んでほしければ、これは一人では出来ないので他の人も頼んで運んだりしてきました。しかし、こうも子供が少なくなった昨今、ピアノを買ってくれる人は殆どいなくなり、だから本業の調律を依頼してくれる人がめっきり減って、さびしく仕事を続けているのでした。

 通路に置かれたピアノは、ごく普通のアップライトピアノで、色も定番の黒の漆塗りでしたから、ピアノが置かれたその日から早やさほど目立たず、振り返って見たり気付いたりした人は殆どいませんでした。そこで店主は、どなたでもどうぞご自由にお弾きくださいと、看板でも立てようかと考えました。しかしそれではかえって誰も弾かないかもしれないと思い返し、様子を見ることにしました。

 ところが、そのピアノにいち早く気づいたものがありました。それは、通路の明り窓から金色の光りを投げかけるお月さまでした。

 おや、おめずらしい新人さんだこと。

そう独り言のようにお月さまは囁きました。でも、それにはだあれも答えません。お月さまは、他の景色と同様に、その新入りピアノさんも明るく照らして、やがて西に傾いて行きました。



  小さな淑女



 髪に可愛いおリボンを付けた、まだ小さな女の子が手にレッスンバックを下げて、もう片一方の手をおばあさまに引かれ、この通路を歩いて来ました。いつもよりだいぶおそくなっていましたので、通路を歩く人影は殆どありませんでした。女の子は少しべそをかいていました。

おばあさま、わたし、もうピアノはいや。

おばあさまを見上げて、女の子は言いました。

 そう・・・。

と答えたおばあさまの顔は曇っていました。女の子がもういやというのも無理はありません。この子は先日のピアノの発表会で大失敗を演じてしまったのです。それを思うと、おばあさまもこれ以上言えませんでした。

 この子が発表会でなぜ失敗したのかといいますと、それは実は、この子はまだ幼くて十分に楽譜が読めなかったからです。それでもこの子は、耳でちゃあんと覚えられました。つまりこの子は、ここまでのメロディーはこう弾けばいいと、先生の演奏を聴けば覚えられたのです。右手も左手も、両方ともです。ですから反対に、これはこれで特別な才能と言えるかもしれません。しかし、周りはそんなこととはつゆ知らず、楽譜が読めるようになっていると思い込んでいましたから、今回の発表会も、年齢のわりには難曲が課題曲にされました。時間はかかりましたが、女の子はそれをほぼ完ぺきに弾けるようになっていました。

さて発表会当日になって、女の子は自分の順番が近づいてくると、胸がドキドキして緊張で一杯になりました。そして、名前がアナウンスされ、女の子はステージに上がりました。客席は暗く、ステージだけにライトが当たり、その光の中で女の子の演奏が始まりました。順調な滑り出しでした。おかあさまもおばあさまも、まるで我がことのようにドキドキ緊張して聞いておりました。ところがその曲の、本当に何でもない、些細なところで、女の子の指が止まりました。おかあさまもおばあさまも、多分緊張で指が動かなくなったのだと思いました。おかあさまもおばあさまも、そして先生も、楽譜を見て!楽譜を見て!と心の中で叫んだと思います。でも女の子は鍵盤を見つめたまま、必死に次の音を思い出そうとしておりました。本当はほんの一瞬だったかもしれません。でも、ホール全体にとっては、永遠より長い沈黙でした。ポンと、音が鳴りました。そして、曲が流れ始めました。聞いていたすべての人がほっとしたのでした。

 曲が終わり、女の子は椅子を立ち、礼をしてステージを降りました。盛大な拍手が鳴り響きました。でも、女の子には聞こえませんでした。そして、先生やママのもとへ泣きそうになりながら帰りました。そうです、女の子の小さな肩には、心が潰れそうなほどの悲しみがのしかかっておりました。それを多分絶望と言うのだと思います。女の子は初めてその絶望を知ったのでした。女の子はおかあさまに縋り、頬に大粒の涙を流しながら声を殺して泣いてしまいました。

 

通路を歩いていると、女の子は発表会の前の晩に見た夢に似た光景を見つけました。夢というのはこうです。

 黄金の月明かりが波に砕け散って、海は一面に輝いておりました。暗い空にはお月さま、海面にはお月さまに照らされた女の子とピアノ。すると、ピアノがあぶくと共に沈んでいきます。女の子も一緒に海の底へ沈んでいきます。鍵盤蓋が開き、ピアノは曲を奏で始めました。でも音は聞こえません。女の子は懸命に泳ぎました。女の子がやっとピアノに追いすがると、音がもっとたくさんのあぶくになって登ってゆき、明るい海面に出て、順番に弾けてお月さままで旋律になって響きました。すてき!と女の子は思いました。

今、あの夢のように、黄金の月の光りがピアノを照らし出しています。ピアノなんか、もう嫌だとダダをこねたことも忘れ、女の子はピアに駆け寄り、椅子に腰掛け、鍵盤蓋をあけました。月明かりの下で黒鍵と白鍵がはっきり見えます。女の子は鍵盤に指を置き、ポジションを取りました。どこかで指揮者のタクトが振り降ろされました。女の子は、おかあさまが作ってくれた発表会の衣裳になっておりました。真っ白なフリルの衣裳に、真紅のバラのコサージュ、髪はリボンで括ってもらい、靴までお揃いの真紅でした。シンフォニーの始まりです。海の底の夢のように、音が旋律になって登っていきます。暗い通路でそれを聞いているのはおばあさま。いえいえ、お月さまも耳を澄ませて聞いておりました。

おばあさま、私、ずうっとピアノを弾いていたい。

小さい淑女はおばあさまに言いました。



おじさんのレコード



あの小さな淑女がこのピアノを弾いたのを、誰かが見ていたわけではありません。しかし、それがきっかけのようになって、時々誰かがピアノを弾くようになりました。そうと気付いた専門店街の有志たちは、ピアノの前にベンチを置いたり観葉植物を置いて、いつでも人が座って休んで憩うことができるように準備しました。こうしてピアノの広場が出来ました。


その日は夕方から雨でした。そして夜更けて人通りがまばらになったころ、おじさんが眼鏡に滴をしたたらせて、急ぎ足で通路を歩いてきました。手に薄くて四角な包みを大事そうに持っています。その人はピアノの広場を見ると足を止め、ベンチに腰掛けました。彼は一休みして、顔と眼鏡をぬぐいたかったのです。外はそれほど冷たい雨でした。彼は顔と髪を拭き、ほっとして脇に置いていた包みを取り上げ、中身を取り出して眺め入りました。それは角の擦れた一枚の中古レコードでした。彼はそのレコードを、まるで宝物を見るようにまじまじと見直しました。彼はそれを何年も捜して、やっと手に入れたのでした。

CDなんかとちがって、レコードジャケットはそれだけでアートだと彼は思っていました。いま取り出したレコードジャケットには、金髪の美女がプリントされています。彼はそれにじっと見入っていました。すると、彼は、くすっと笑う声と誰かの視線を感じました。広場の向こう側のベンチに、ご婦人が休んでおりました。

いやあ、すみません、おかしかったですか。家に帰るまで待てなくて、つい子供じみた真似をしてしまいました。

そう言って、レコードをご婦人に見せ、

あまり派手に人気のあった歌手じゃありませんが、私はずうっとこれを捜していたんです。

と話しかけました。するとご婦人から、

 綺麗なお人ですね。

と答が返ってきました。

そうです。私はこの歌手に三度も憧れました。それも、その憧れたスターが同一人物だったとはまったく知らずにです。

と彼は語り出しました。彼は何故このご婦人にこうも気安く話せたのでしょう。彼はそんなことも意識せず、話を続けました。

わたしが学生だった頃に、古い映画を二本立て、三本立てで安くみられる二番館、三番館が出来てきました。安いといっても私のような貧乏学生には、一回の入館料が一日の食費より高いのですから、めったに観には行けませんでした。ところがその日は、悪友がどうしても付き合えと言い張って、無理やり連れて行かれました。映画は三本立てで入れ替えなし、しかも土曜の夜のオールナイトでした。悪友のお目当てはソフィア・ローレンの「島の女」でした。もっとも今は、原題の「いるかに乗った少年」の方でよく知られていますが。  

この映画は、ソフィア・ローレンのデビュー作で、友人もそのソフィア・ローレンの野性的な容姿に憧れたようです。ところが、私はそもそもソフィア・ローレンという女優さんさえ、あまりよくしりませんでした。ですから、映画のオープニングに流れたテーマ曲も、最初はあまりまともに聞いておりませんでした。しかし、歌声が流れ始めた途端、ふいに魅せられてしまい、心臓が鷲掴みにされました。なんというか、気品に満ちて、優雅で、大人の女性、貴婦人の歌声でした。私はその後も、眠り込んだ悪友の横で、この歌声をもう一度聞きなおしました。

あの当時のことですから、その映画のテーマ曲を歌っているのが誰かなんて、調べようもありません。そしてそのうち時間がたって、そのことは次第に忘れてしまいました。ところが或る時、本屋の店先に置かれたスイング・ジャーナルの表紙に載っている、もの凄い美人の女性歌手に気が付きました。私は思わず雑誌を手に取って、まじまじと見ました。そして、表紙の人という記事を探して読んでみると、その人はジュリー・ロンドンと言う名のジャズシンガーで、余りの美貌から歌手としてだけでなく、女優として映画にも出演しているとありました。本当に美しいと思いました。しかし、その人のレコードを買う余裕もなくて、私に出来たことは頭の中に表紙の写真を仕舞い込むことだけでした。

以来、私はジャズ好きになり、FMラジオでジャズを聞いたり、友人のところでレコードを聞かせてもらったり、雑誌を読みあさったりするようになりました。そして、いつの間にやら、いっぱしのジャズ通気取りになって、隣町のジャズ喫茶に行ってみようということになり、友人と出かけました。そりゃあもう、一人でそんなところに行く勇気なんてありません。それでも友人と一緒に、恐る恐る店のドアを開けて入っていくと、もはやそこは見たこともない雰囲気で、薄暗くて、足元も危なっかしくて、帰ろうか、来なけりゃよかったなんて思うほど気圧されました。それでもなんとか席に着いたのですが、注文を聞きに来たボーイさんと友人が、何やら親しげに話をはじめたのにはびっくりしました。訊いてみると、ボーイさんは友人の高校時代の同級生で、ここでアルバイトしてるんだと解り、それでなにやらほっとしました。しかし、

何かおかけしましょうか。

と訊かれると、誰それのこれこれをと、すらすら言えるほどの知識はなく、

 女性ボーカルを何か・・・。

としか言えませんでした。

先にリクエストされていた何曲かが流れた後、レコードが架け替えられたようで、それが私のリクエストだとは知らずにコーヒーを飲んでいますと、ピアノが曲を奏で始め、女性の声が歌い始めました。ミスティという曲でした。私はその歌声にはっとしました。あの「いるかに乗った少年」を歌っていた声とわかったからです。それで友人に、これ、誰が歌ってるの、と訊くと、友人は黙ってカウンターの方を指さしました。そこに飾られていたレコードジャケットがこれでした。そして、その歌手がスイング・ジャーナルの表紙を飾っていたのと同一人物だとも気が付きました。それでやっと私の中で、映画の歌声と、雑誌の表紙の歌手が同じ人だと結びついたんです。こうして私は、ジャズ喫茶の時と合わせて三度、同じ人に憧れました。

 とは言っても、もう大学を出て就職し、結婚して子育てをしてと、ごく普通の人生を送っている間はそんなことは忘れてしまっていました。それでもこうして子供も独立し、妻にも先立たれ、かつ定年になってみると、突然そんなことを思い出しましてね、このレコードを探し回り、やっと今日、手に入れたんです。それでつい、子供のような振舞いをしてしまいました。早く持って帰って聞いてみようとおもっています。どうも、長話をお聞かせして申し訳ありません。有難うございました。

そういって、おじさんは頭を下げ、濡れた髪をもう一度掻き上げ、足早に去りました。残ったご婦人がふっと立ち上がり、おじさんを見送りながら言いました。

 そんな話、一度も聞かしてくれませんでしたね。でも、良いわ、何も彼もなくなっても、そうやって泣かずに遊んでいてくれたら私は安心。

 月の光の差し込む所には、そんな異空間が出現しているかもしれません。



 少年の秘密



少年は、本当はギターが少しだけ得意でした。でも、誰とはなく通路のピアノを演奏しているのを見て、あんな風にピアノが弾けたらと思うようになりました。しかし、手近かにピアノはないし、教えてくれる人もいません。ですから、無理とあきらめていました。

それでも少年はこの通路を通るたびに、ああピアノが弾けたらと、そんな思いを繰り返しました。その彼のもとに、電子ピアノが現れました。勤め先の社長が電子ピアノを持ってきて、倉庫に放りこんだのです。

娘が出て行ってしまったら、ピアノが邪魔でね。

と言います。娘さんは出て行きました。親の賛成しない結婚でした。社長はさみしそうでした。ですからピアノも見たくなかったのかもしれません。本物のピアノなんか高くて買えないので、それでも娘さんの為と無理して買った電子ピアノでした。その電子ピアノを買って来た時の、弾けるように笑って喜んだ娘さんの顔を、どうしても思い出します。

いいんだ!

社長はそう一人言って、電子ピアノを倉庫に仕舞いこみました。

 少年は社長に、そのピアノで練習してもいいかと恐る恐る訊いてみました。すると、いいよ、と一言で許してくれました。

いいんだ!

その時も社長は、心の中でそう繰り返しました。

 倉庫は、行き倒れた少年が、結局この会社に雇われることになるまで臨時に寝泊まりしていた所でしたので、少年にはなじみ深いところでした。休み時間、少年は、今でもここで一人、ギターの練習もしていました。しかし、事がピアノです。もちろん教えてくれる人はいませんから、困り果てました。自己流だっていいじゃないかと少年は思いました。彼には弾いてみたい曲がありました。ジョン・レノンのイマジンでした。ギターではこの曲をよく弾いていましたから、ピアノも独学で大丈夫とおもったのですが、そう上手くはいきません。指をどこに置いて、どう動かせばいいのか、まったくわかりませんでした。彼は頑張りました。そして彼を応援してくれたのは、実はこのピアノの持ち主である社長の娘さんでした。彼女は社長のいない時を見計らって会社にやって来て、社長の様子を聞いたりしていたのでした。少年はその時、ピアノを教えてくださいと頼みました。いいわよ、そういって、娘さんは倉庫のピアノで弾き方を教えてくれることになりました。その娘さんも、最初倉庫のピアノを見た時は、そっとピアノを撫でて涙ぐんでおりました。

 娘さんは、彼に打鍵の仕方から教えました。そして、運指からちょっと難しい黒鍵の弾き方まで進みました。おかげでたどたどしくはありますが、彼は次第に一人でも練習できるまでになりました。

 なんでイマジンが弾きたいの?

そう訊かれて彼は、ある人がこの曲を教えてくれたからと答え、それ以上のことはいいませんでした。実は、そのある人とは養護施設の児童指導員でした。少年は小学生の低学年からそこで育ちました。しかし、養護施設では高校受験に失敗すると、義務教育は終わったからと、退所しなければならない規則です。それゆえ指導員は、彼に懸命に勉強を教えてくれました。その指導員がギターを弾きながらイマジンをよく歌っていたのです。ですから、少年にとっては一番懐かしく、また幸せな思いを思い出させる曲でした。

 イマジンって、反戦の曲だったよね。

と娘さんが言いました。

 ハンセン?

少年にはよく分かりませんでした。少年は、この曲は人々が幸せに暮らしていると想像してごらんと歌っているのだと思っていました。彼自身、施設の中でいつも安心して暮らせることを夢見ていました。ですから彼は、

I`m a dreamer

でした。

 仕事の合間にピアノを練習するようになって、三カ月が経ちました。彼は漸く弾けるようになりました。彼はいつもより遅い、誰もいなさそうな時間を見計らってピアノの広場に行きました。そして人影がないのを確かめて鍵盤蓋を開け、練習の通り弾いてみました。アーコスティックピアノの鍵盤は電子ピアノに比べて格段に重く、決していつも通りには弾けませんでした。でも、引っかかりながらもなんとか弾き終えると、後ろのベンチから拍手が起こりました。一人のご婦人でした。少年は恥ずかしくて居たたまれず、席を立って逃げ出しました。

 有難う、また聞かせてね。

ご婦人はそう少年の背に声を掛けました。

ところが、少年を見ていたのは、このご婦人だけではありませんでした。その影は、少年の後を気付かれないように付いて行き、彼のアパートを確かめると、帰っていきました。

 それから数日経って、少年は社長の娘さんにピアノの広場へ連れて行かれました。偶然先日のご婦人もベンチにおりました。

 こんにちは、また、この前の曲、聞かしてくれるの?

微笑みながら、ご婦人が言いました。少年は娘さんに背中を押され、ピアノの前に座ってイマジンを弾き出しました。小さな子供を連れたお母さんがベンチに座り、その横にご主人も座りました。年配の男の人も立ったまま聞いています。社長さんまで来ていました。少年は夢中で、そんな事には気が付きませんでした。だから、社長さんの横に二つの影が寄り添っているのも知りませんでした。今日は少年の発表会になりました。

 少年はイマジンを何とか弾き終えました。すると、ご婦人が拍手しながら、

 何か、他の曲も聞かせて。

と言いました。実は、少年は違った曲も練習していました。これもジョン・レノンのハッピークリスマスでした。皆で飾ったクリスマスツリーとちっぽけなケーキ、少年の一番楽しかった施設でのクリスマスでした。

 少年が曲を弾き終えると、影が動きました。一人は地元の警察官、もう一人は少年を追って来た警察官。そしてその警察官は、少年を母親の虐待から保護してくれた警察官でもありました。少年はその警察官を認め、社長さんと娘さんがここへ連れて来てくれた意味も分かりました。少年は聴衆に頭を下げ、自分を見つめている警察官のもとへ近づきました。警察官は少年に頷きながら肩に手を置いて寄り添い、社長さんたちに無言で挨拶をして少年を連れて行きました。

 

後日、社長さん宅に施設の指導員が訪ねて来て、少年がご迷惑をかけたと謝りました。

 いやあ、真面目によく働く、素直で良い子でしたよ。

そういうと、指導員は急に涙ぐみ、

良い子なんです。悪い事なんかしたくなかったはずなんです。

と、話し始めました。

 少年の母親は、夫の暴力から少年と共に逃げました。そして最初の頃は懸命に働いて、少年と暮らしていたのですが、心の傷からか、いつの間にかお酒とパチンコにのめり込み、生活保護で暮らすようになりました。ところが、それまでの自堕落が身に染まってしまったのか、役所から支給される生活保護のお金の大半をパチンコとお酒につぎ込むようになりました。そして、食べるものにも事欠くようになると、母親は少年にスーパーで万引きをやらせました。少年はそれで何度か捕まったりしましたが、母親が何とか言いのがれ、警察沙汰には成らずに済んできました。

 そんな荒れた生活をしていた母親でしたが、少年に優しくなることもありました。それはパチンコに勝って小金を手に入れた時でした。そんな時、母親は少年をスーパーに連れて行き、上機嫌で何か好きなものを買ってやるといいました。少年の好きなものは、たまに母が買ってくれるジャムパンでした。彼はそれしか知りませんでした。しかし少年は、ジャムパンを買ってくれることより、スーパーで悪いことをしなくて済むことの方がうれしかったのでした。ですから、母親を見上げながら、

僕はいいから、母ちゃんの好きなお酒を買いなよ。

と答えたのでした。

 しかし、そんなことが続くはずがありません。親子は警察に捕まり、母親は実刑、少年は保護され、養護施設にいくことになりました。父親は少年を引き取りませんでした。少年はもう一人でした。そして、月日が経っても、誰も養護施設で暮らす少年に連絡してくる人はいませんでした。

 少年の学力は、小学校低学年まで碌に通学していなかったことが祟って、ずうっと低迷したままでした。それでも少年が中学三年生になると、係だった私は懸命に勉強を見てやりました。私は少年をこのまま退所させて世間に放り出すのは忍びなかったのです。少年もそんな現実は分かっていました。ですから、勉強にも懸命に付いてきましたし、受験校も近郊の高校では偏差値の一番低い高校を選びました。合格発表の日、彼は一人で見に行きました。彼の受験番号はありませんでした。彼は、合格して喜ぶ人たちと同じように、入学案内の入った封筒をもらって帰りました。これが本当になることが彼の願いであったからでした。

 満十五才なった年の三月末に、彼は退所になりました。そして施設の世話で、住み込みの仕事に就きました。彼は黙って仕事を覚えて日々を過ごすようになりました。そんな少年の不幸は、とうに出所していた母が、彼の居場所を知ったことでした。そして母親は、半ば強引に少年の勤め先に申し入れ、彼と一緒に暮らすようにしました。

 母親と少年は、クーラーもない安アパートで暮らし始めました。その当初こそ、母親も、以前のように働きに行きましたが、また昼間から飲んだくれて過ごすようになりました。そんな或る日、母親が少年に、お酒がないんだよぉと、しなだれかかっていったそうです。少年は体の奥底から怒りがこみあげてきて、母を強く突き飛ばしました。母は壁に頭をぶつけて、動かなくなりました。少年は部屋を飛び出ていきました。母を殺したかもしれないと思ったそうです。逃げなきゃ、そう思い込んだ一心で、少年は勤め先の事務所へ行き、社長がお給料を出してくるロッカーをこじ開け、そこにあったお金を全部握って街を出ました。そして、その逃亡先で急に発熱し、行倒れてしまった所を、こちらの社長さんに助けてもらったのだといっておりました。

 彼は、待っていたんです。

指導員は社長と娘さんにそういいました。

 私か、以前彼を保護した児童係の警察官をここで待っていたと、面会に行ったときに言ってました。

指導員は、そう言い残して帰りました。



 若い人


 

 そんなことがあったからでしょうか。悪い噂が立って、ピタッとピアノを弾く人が居なくなりました。ピアノの広場のベンチに座って休んでいたご婦人は、ちょっと淋しそうでした。そのご婦人が帰った後、少しやつれた中年女性が、ベンチに倒れ込むように腰かけました。手には少し大きめのバッグと四角い箱を持っていました。そして彼女がちょっと目をつぶると、向こうの方で若い男が、

 腹減った、飯食いに行こうぜ。

と大きな声でいうのがきこえました。その後ろを若いお嬢さんが小走りでついて来ておりました。ところが、その後ろからついてきたお嬢さんがピアノの広場のピアノに気が付きました。そして、

 ちょっと待って。

と、彼女の先を、モンシロチョウのようにひらひら行く若い男に言い、ピアノの椅子におずおずと座って、ちょっと試しに弾きはじめました。指は覚えていたようです。彼女は座り直して、昔習った曲を弾き始めました。ベンチで休んでいた中年女性から見ると、彼女は若いけど少しお化粧の濃い、ニュースでいうなら飲食業と紹介されるお仕事の女性のようでした。

 彼女が曲に詰まって、ピアノから手を放したとき、中年女性が声を掛けました。

 お上手ね。

すると、彼女はまた鍵盤から急いで手を放し、恥ずかしそうに俯きました。その濃いルージュに似ず、どこか育ちのよさそうな、そして幼さの残った瞳が涙で光りました。

 この曲は母とよく練習した曲だったんです。母は私が一生懸命弾くと、上手ねじょうずね、と褒めてくれました。だから、もっと上手になりたくて、もっともっと練習しました。その母が亡くなって、もう五年になります。その五年の間に、私は夢を失くし、夢の見方さえ忘れてしまいました。

 ご苦労されたのね。

と頷きながら中年女性が答えました。すると、若い人の連れが、

 なにやってるんだ、腹減った、飯食いにいこうぜ。

と遠くから声を掛けてきました。

 可愛いあなたにはちょっと不釣り合いなお連れさまのようね。

と言うと、

 いいんです。あの人は私を、私が知らないところへ連れて行ってくれるんです。だから私、あいつに付いて行ってるんです。

そう言って、頬を一筋濡らして立ちあがり、

 今行くから待って。

と言い、軽く会釈をして立ち去りました。そこで中年女性は夢から醒めました。ああ、あの子は私、あの男の子はあなた、と思いました。

 あなたの口癖だったわね。腹減った、何か食いに行こうぜって。同級生だったあなたとお店で初めて出くわした時も、付いたのが私と知ってびっくりして、急にしどろもどろになって、突然、おい、この店は何時に終わるんだと訊いてきて、何時と答えると、俺、出口で待ってるから、そのあと、飯食いに行こうぜって言いましたね。そして私の返事も聞かずに席を立って、するとフロアーマネージャが、何かお気を悪くされましたでしょうかって、跳んできた。いや、急用を思い出して、飲んでる場合じゃなくなったんで帰るとこだわ。でも只で出て行くわけにはいかねぇよなと、ポケットから一万円札を出してマネージャーに握らせてお店をでてった。私はもうあっけにとられるしかなかった。だからそのことは、お店が終わるまで頭の片すみから離れなかったけれど、本当にあなたが出口で待ってるなんて思わなかった。ところが、おつかれさまあって同僚と声かけあって店を出たら貴方が待ってて、待ちくたびれて腹減った、飯食いに行こうぜといって、私が付いてきてるかどうかも確かめないで、さっさとあっち向いて行ってしまう。私はもう小走りで付いて行くしかなかった。角を曲がると、俺、良い店知ってるんだ、任しときな。安くて旨くていい店に連れて行ってやるから。そう言って、またさっさと歩いて行く。私はまた追いかけるしかなかった。

 お店に入ると、店主が、おっ、いい子連れてきたね、お前の彼女か、って言いましたよね。するとあなたは得意そうに、そうだよ、俺の彼女だって言った。学校を卒業して以来、初めて会ったのに、彼女ってなによって、私、怒ってた。でもその後も、私の知らないところに連れて行ってくれるあなたにずうっと付いて行った。

 あの時の事は、今でも覚えてる。どっか行きたいと言うと、隣の県の温泉に日帰りで連れて行かれた。こんなんじゃないってダダを捏ねて怒ると、すまない、俺は修学旅行も碌にいけなかったから、何処へ行けばいいか、全然見当がつかないんだって、横向いて言いましたよね。

でも、もっと驚かされたのは、翌日突然、中古のオートバイをローンで買って来て、私にヘルメットをかぶせて、これでどこへでもつれて行ってやる、って言ってくれたことでした。私、泣き笑いに笑って、貴方の背中にしがみついて、市内を一周してもらった。

 私、幸せでした。好きとは一度も言われなかったけれど、私の知らないところへ沢山つれていってくれました。楽しかった。

 そういって、彼女は傍らの遺骨の入った箱を胸に抱いて立ち上がりました。彼女はご主人が息を引き取ったとき、そっとご主人の唇に接吻してお別れしたのでした。そしていま、誰も待っていない家に帰ってゆきます。それをお月さまが、明かり窓から照らしていました。



 ピアノの広場にて



 中年の男性が、すっかり疲れた様子でベンチに座り込みました。ここにも、かつて人生に迷い、あげくに何かを諦めなければならなかった男性がいました。男は旅行鞄を前に抱き、上半身を持たせかけて、ふうっと息を吐きました。何年ぶりでこの地へきたのでしょう。彼はこの地を誰に見送られることもなく去りました。ここでの仕事を捨て、ただ生活するためだけの生き甲斐のない職に赴きました。それ以来、この地を訪れることはありませんでした。

 彼の子供二人の親権は当然のように分かれた妻に行き、彼とは養育費のみの繋がりになって、会うこともありませんでした。それは元妻と子供が嫌がったからではなく、その後元妻が再婚し、義理の父となった男が連れ子まで養子にしたからでした。元妻から子供を新しい父親の養子にすることに同意せよと迫られたとき、もうどうでもいいと男は同意書に署名して、その代わり養育費を半減すると言い渡しました。それに怒って半狂乱になってののしる元妻を尻目に、男はこの地を離れました。

しかしもう来ることもないとおもっていたこの地を、彼は業務命令で来訪しました。長い間離れていても、JRの駅を出て地下鉄に乗り換える時、かつてそうしてきたように体が動きました。彼は地下鉄に乗りこむと、座席には座らず、まだ動き出さない地下鉄の窓から外を見ていました。彼の視線の先に、反対車線のプラットホームがありました。そこには多くの人が電車の来るのを待って並んでいます。そしてその中を、頭に三角巾を巻き、菜っ葉服の制服を着て掃除をして回っているおばさんがおりました。彼は顔をぶつけるように窓に近づけ、その姿に見入りました。再婚相手が亡くなったとは聞いていましたが、それを機会に、元妻は実家に帰ったと風の便りで聞いていました。ところが彼の視線の先には、元妻の老けた顔がありました。彼はふいに目頭が熱くなり、涙が流れるのを覚えました。ドアが閉まり、動き出した車窓からその姿を見詰めながら、次の駅で引っ返そう、そして、元気だったかと声を掛けようと衝動的に思いました。しかし、それが出来るかとも思い返しました。あの離婚までの日々は地獄でした。そう思って見ているうちに次第にスピードを増す窓の向こうで、髪を金色に染めて高いヒールのサンダルをはいた若い娘が彼女の側に立ち、何か言っています。元妻は菜っ葉服のポケットから財布を出して中からお金を渡しました。背中を向けた若い娘の顔は分かりません。ああどうなんだ、私は彼女たちの前に立てるのか、何か言えるのか、そう思うと、嗚咽が漏れました。電車は駅を離れて行きます。中年男が声を殺して泣いているなんて、なんてみっともないんだと思いました。迷いました。それでも彼は電車を降り、帰る電車に乗って彼女のいたプラットホームに戻りました。しかしもう彼女たちの姿は見えず、探しようもありません。彼は暫くこのプラットホームにたたずみ、諦めて、改めて電車を乗り直して、このピアノの広場に行き合わせたのでした。人生はやり直しなどできない。私は何を得て、なにを失ったのかと、彼は思いました。彼は明日も駅で誰かを探すでしょう。しかし、彼は誰も見つけられますまい。お月さまはそんな彼を照らしていました。



雨の日のシンデレラ



そんな話は、この大都会では掃いて捨てるほどあることです。今しもピアノの広場の観葉樹の影にそっと隠れた女性がいます。その彼女が目で追っている雑踏の先には、少しくたびれたレインコートの男がうつむき加減で歩いて行きます。二年前に別れた人でした。あの人は結局妻子の元に返り、私は一人で生きてゆくことを選んだ、それだけのことと彼女は思いました。二年間で彼の横顔は相応にくすみ、私は髪を切って変わってしまった、そう思いながら、彼女は男を見送りました。

その彼女の視線の先を、女が走ります。何もかも、夫と子供さえ振り捨てて、男のもとへと裏切りの女が走ります。まわりの人は誰もそんなことなど知りません。

そしてさらにその前を、傘を二本、胸に抱えて駅の方に向かって歩く女の人がおりました。彼女は、雨の日は必ず、もう帰らない夫を迎えに行きます。そして出札口の混雑する人混みの中で、じっと立って夫を待ちます。彼女の事を知っている駅員は、彼女を雨の日のシンデレラと呼んでおりました。その彼女の後をそっとつけてきていた母親が、頃合いを見計らって彼女の夫が入れ違いで家に帰って来たから、急いで帰ろうと言います。心を病んだ雨の日のシンデレラは、それで納得して帰ります。それが雨の日の毎回の事でした。



女学生とボタン



月の光に誘われて、酔って外界に出てみたら、女学生のけたたましい声の多重奏が気に障りました。振り返ると、その一人がショパンの別れの曲を弾いています。女学生のリーダーらしき子が、

そうだよね、蛍の光なんかより、こっちの方がいいよね。

と言って。おります

 むかしはさあ、校歌と君が代と蛍の光が卒業式の時の定番だったらしいじゃない。でも、蛍の光って、なんかダサいよね。なに歌ってるのか全然分かんないしぃ。

 そうよ、こっちの方がいいよ。でも、ピアノ上手ね。

そう言いながら、取り囲んでいる一人が、演奏している子の肩に手を置きます。そして、

 ねえ、今日はどうだった?

と、さもさりげなさを装った物言いで、ついでのように訊ねてました。本当はそっちの方こそ訊きたくてたまらなかった筈なのにです。

 あいつったら、ホントにはっきりしないね。こんなかわいい子を振ったら、只じゃ置かないんだから。

 そうよ、昨日だって、みんなで取り囲んで、この子に第二ボタン、やってくれる?っていったら、ポカンとしてた。ああいうのを、ハトに豆鉄砲って言うのよね。

 よっ、ことわざ少女!

それはことわざじゃない、慣用句っていうんだと老女は思いました。老女は酔いもあって、ピアノ広場のベンチに座り込みました。喉が無性に渇いていたこともありましたが、彼女たちのお喋りを本当は聞きたかったのです。

 なんか、思いっ切り引いてたよね。

 そうよ、だから鋏を渡して、さっさとしなさいよって脅したのよ。そしたら大慌てでボタンを切って渡してきた。

女の子の方からコクってるんだから、ちゃあんと答えなさいよ。どおすんのっていった時の顔ったらなかった。

そしたら、何を血迷ったのか、残りのボタン全部切って渡してきたのよね。これにはもう吹き出しちゃったわよ。

ピアノを弾いていた子が俯いてしまいました。

有難う、みんな。昨日、皆が言ってくれて約束させたから、あいつもちゃあんと駅に来てくれて、それで、デイトしてきた。

そう!で、どこ行ったの?

女の子は、三駅先のショッピングモールへいって、そこで映画を見て、ゲームセンターで遊んで、海の見える公園を一緒に歩いてから帰って来たと答えました。でも、その顔はなにか冴えませんでした。

そうだよね、そんなとこしかないよね。でもあいつにしては上出来じゃない。

うん。でも、映画はマカロニウエスタンで、楽しくなかった。私は或る愛の詩の方がみたかった。

そんなもんよ、最初は。で、これから先は?

わかんない。あいつは明日から大学の下宿先を決めに行っちゃうらしいし。私も一週間先には行かなくちゃならないから。そしたら、もう離れ離れで、連絡先もわかんなくなっちゃう。

そっか、そうなるか。

そう言って、一瞬沈黙がありました。

 いいじゃないの、いい恋をしたじゃない。

恋せよ乙女よ。

と、つい口ばしを突っ込んできたのは老女でした。その声に振り返った少女たちは、一様にギョッとなって口を噤んでしまいました。老女は目尻に深いしわが刻まれ、目やにが付いて、白髪交じりの髪は乱れ、針金の様でした。それでも赤く塗られた唇がポッカリ開いて、欠けた前歯を見せながら言葉をしゃべります。

 いい?時は待っちゃあくれない。誰一人も見逃さず、容赦なく連れ去っていってしまう。女も私ほどの年になると、みんなこうさ。今はどうでも、昔は美しいといろんな男が言い寄ってきたんだ。それが今じゃあ、目をそらして横を向く。それでも、生れて死ぬまで、女は一生女。

でもね、恋なんて、ごくありきたりもの。見てごらん、あそこを歩いてる男も女も皆、それぞれ自分の恋物語を定めのように抱いている。男は知らず、女はそれだけで生きていける。私はそれが成就できなくて、こうして千年酔いしれているのさ。

昔、男が居た。男は九十九日間通って、あと一日で百日という日に死んでしまった。その男の怨みが私にとりついて、今でも私は九十九年待たされてる。私は男を試したりしたんじゃない。百日目を心待ちに待ち続けていた。だから、恨みを残してとりつくほど私を愛してくれたのなら、私もあの人を千年待ち続ける。たとえそれが夢まぼろしでも。

 ほら、見てごらん、昔の私はこんなに綺麗だったんだ。

老女はふらりと立ち上がり、曲がった腰で両手を広げ、ふわりと回って見せました。少女たちは何かを見たのでした。だが一回りした老女は酔いのせいでふらふらっとよろめき、ベンチに寄り縋りました。少女たちはいま一瞬見えたものと、ベンチに縋る老女の有様に声も出ませんでした。

 おばあさん、誰?

 わたし?私は、またの名を卒塔婆小町。

 えっ?ソトヤマ、マチコ?

 それでいいよ。ソトヤマ、マチコ。

立ちながらそう答え、老女は向こうに歩き出しました。

 違うよ。卒塔婆小町って言ったのよ。

 だれ?それ。

 小野小町よ。花の色は うつりにけりな いたづらに わが身よにふる ながめせしまにって、百人一首の和歌を詠んだ人。

 いよっ、ことわざ少女!

 ああ、おばあさん、消えちゃった。

 



ピアノ工房のおじいさん



 季節は移り、クリスマスシーズンを迎えました。専門店街の人々も暮れの書き入れ時と店を飾り、通りも飾って景気よくクリスマスソングを流しました。もちろん、ピアノの広場もクリスマスツリーを飾り、店主の娘さんでピアノの弾ける人を駆り出して、クリスマスソングを弾かせました。やはり生演奏は違いました。ジングルベルや赤鼻のトナカイさんの曲が演奏されはじめると、子供が喜びました。人が足をとめ、子供もはしゃぎます。それで少しは店の売り上げも増えたようでした。

 しかし、昼間にぎやかだった分、夜は余計にさみしくなります。ピアノ工房のおじいさんは夜なべをしてピアノの修理をしておりました。すると、少し白髪まじりの男が工房を覗きました。そして、ピアノの方に戻って、それは見事に枯葉を弾き始めました。工房のおじいさんは鼻眼鏡越しにピアノの方を見ました。そこには、かつて共に闘ったピアニストがおりました。

 今、ピアノの生産台数は矢張り中国が一番で、年間三十二万台以上を作っております。しかし、その以前、昭和四十二年ごろは日本が世界一でした。ピアノ工房のおじいさんは、日本のピアノがそこに達するまでの苦しい時代を、メーカーの第一線調律師として闘ってきました。そして欧米にも輸出されるまでになりましたが、当初は安かろう悪かろう、西洋音楽の伝統のない国で作られたピアノは信用できないと、見向きもされませんでした、しかし、値段の安さと塗り仕上げの丁寧さ、品質にばらつきがなく、かつキータッチの心地よさと軽やかな音が次第に認められるようになり、ピアノコンテストの演奏ピアノとして採用されるまでになりました。

しかし、おじいさんはそうなる前に引退しました。そんなおじいさんには、心残りがありました。調律師として応援してきた有望なピアニストを、コンテストで入賞させられなかったことでした。

それは突然、ピアニストがおじいさんにコンテスト会場のピアノの調律をやってもらいたいと言い出したことから始まりました。しかし、会場専属の調律師が居る限り、それは無理なことです。おじいさんはそっと首を横に振り、引き下がりました。

調律師は黒子です。コンテストが始まる前に会場から去るのが通例です。しかし、おじいさんはそのことが何故か気になり、翌日まで留まっていました。そして、それまで会場に姿を見せないようにしていたのですが、あのピアニストの番になったので会場に入り、演奏を聴きました。すると、一音だけ、音が微妙に揺れるのがわかりました。それも一番重要な音が微妙に揺らぎます。おじいさんの耳は、その微妙な揺らぎを捉えました。ピアニストがおじいさんに調律をと言ったわけが解りました。ピアニストは、彼ほどの音感の持ち主でなければ解らない音の揺らぎを聞き取り、おじいさんに調律してもらいたいといったのでした。会場内に専属の調律師が見えました。おじいさんが彼を見詰めると、彼もおじいさんを見返し、ふっと目を逸らせました。ああっと思わず声がおじいさんの口から洩れました。どうすることもできなかったとはいえ、これは私の責任だとおじいさんは思いました。果たしてピアニストはそのキーを弾くことに躊躇い、ありようもなく崩れて曲はボロボロになり、入賞を果たせませんでした。おじいさんはこの出来事の後、辞表を出して会社を辞めました。

今、あの時のピアニストがおじいさんの店の前のピアノを弾いています。彼は、店のドアを開けておじいさんが出てくると椅子から立って深々と頭を下げました。

先生、おひさしゅうございます。

彼は今、本来志したクラッシックから離れ、ジャズピアニストに転向して世界的に有名になっておりました。おじいさんもただ黙って頭を下げるしかありませんでした。何年ぶりだったでしょう。しかし、ジャズアレンジの枯葉は見事でした。

 先生のお仕事でしょうか。鍵盤を一つ弾いただけで解ります。

 新しい分野でのご成功、おめでとうございます。

とおじいさんは答えました。ピアニストはまるでビル・エバンスのようにソフィスティケイトされた、しかしビル・エバンスとは全く違った洗練のされ方で高く評価されておりました。やはり、共にクラッシックの基礎が身に付いたジャズでありました。ピアニストは今度、この地でコンサートを行うことになってやってきていたのです。そして、たまたまこのピアノの広場に通りかかりました。彼はこのピアノの広場の事は聞いておりました。しかし、そのピアノを置いたのが、かつてお世話になっていたおじいさんとは知りませんでした。それでも、彼の絶対音感とキーのタッチを知る指は、その仕事をしたのがおじいさんだとわからせました。彼はおじいさんに、コンサートの終わった後、ここでミニコンサートをやらせてくださいと申し出ました。おじいさんは、広場のベンチに座っているおばあさんをみました。おばあさんは頷きました。おじいさんは、お願いしますと深々と頭を下げました。

 ミニコンサートの宣伝も準備も、専門店組合の方でしてくれました。しかし、準備不足は否めません。果たしてどれだけ人が集まってくれるのか、危惧しておりました。しかし実際始まってみると、準備の段階から既に何人かが席に座り、それにつられて早くから通りがかりの人も足を止め、合わせると大人数の人になっていました。

ミニコンサートは変わった形で行われました。それはジャズコンサートと言うより現代音楽のアートパーフォーマンスといった具合でした。演奏の構成は、ピアノとベースとドラムのごく普通のトリオでした。そして、後から女性ボーカルが加わりました。元々ジャズなんて余りポピュラーなものではありませんから、いきなり本格的なジャズをやっても受けないので、先日のジャズアレンジの枯葉、ワルツ・フォア・デイビー、いつか王子様が、スターダストなどスタンダードナンバーから演奏は始まりました。そして、アドリブの部分は出来るだけカットされて、メロディアスに演奏されました。なかでも一番反響が大きかったのは、千と千尋の神隠しをジャズアレンジにした演奏でした。これには、ママと一緒に来ていた子供がいち早く反応し、立ち上がって体を揺らしながらリズムを取って踊っておりました。

ところで、お月さまのお顔の色って、日によってとか、昇る高さによって違ってくるって、知ってましたか。お月さまが昇り始めの低い高さでは赤い顔、次第に昇って金色の顔、そして頂点近くでは銀色の顔に代わります。それが満月であったなら、この銀色に輝く月は明るく美しい。今まさに、ミニコンサートがたけなわになって、お月さまの顔色が、金から銀に変わろうとしていました。ここで、ピアノの横から天の羽衣のような絹のスカーフを巻いて女性歌手が登場しました。しかし、彼女が歌い出したのは、ジャズナンバーではありませんでした。


君を待つ 宵待ち月に

空は輝き

萱はさやさや 風はさやさや


闇の中

衣擦れの音 さわさらり 


君がのこせし筆のあと

言葉のあやに染められて

胸のほむらの紫に

群れて舞い跳ぶ

闇蛍


恋の道行き 通い路は

君待つ空に さやさやと

風は音たて 踏み迷い 

夢の浮橋  たそ渡る

 

 赤糸威大鎧 茜の色も美しく

頬宛ての下 幼げな

唇に紅差し

頬にけわいする公達の

黄金に輝く前立ては

きみのいさおの比類なく

思いは切れぬ 

世々語られし姿なり


と、絹のスカーフが天女の羽衣のように舞います。それはまるで、宙に浮かんでいるようでした。今宵の月とアートパーフォーマンスが、そんな時空を生んだのでしょうか。それとも、ただ重なっただけでしょうか。今日は金色の滲んだ血の色の月でした。通路に、なにか荒んだ空気が立ち込め、悲しみに満ち満ちました。昭和十八年、神宮外苑競技場の学徒出陣壮行会で行進した学生たちが、申し訳程度の訓練を経て、某年某月そして今日のこの日、またもこの大通りを行進し、外地に送り出されました。国威発揚がこの行進の目的でした。しかし、見送られる者は先に死に行く者、見送る者は後に死んで行く者、そうおもって見送る者の人垣が崩れ、学生たちの隊列に迫って、涙を流しながらなぜか万歳万歳と叫んでおりました。今しも、赤い月の月明かりの下、学生たちが隊列を組んで行進していきます。月が金色に変わって、学生たちの荷なった銃の銃剣がキラリキラリと煌めきました。そして月が銀色に変わり、彼らの影が軍靴の音と共に次第に薄れて、やがて消えてゆきました。

ピアノの広場にいつも来ているおばあさんが立ち上がりました。天女の舞いと今様風のアートパーフォーマンスは祈りのように続いておりました。隊列の去った向こうから、帯剣を手で押さえた予備少尉が彼女の前に立ち、敬礼しました。乙女が彼を抱きしめます。少年が彼女の手を取ります。彼らは生まれた時からの許嫁者でした。それとは知らず、彼らはいつも一緒で、無邪気に遊んでおりました。それはまるで、ひとつがいの蝶のようでした。時期がきて、彼らは夫婦となる定めを告げられました。それを戦争が引き離し、彼は骨さえ帰らず、彼女は妻になれませんでした。

いま演奏されているピアノは、おばあさんの嫁入り道具の一つでした。おばあさんは一生どこにも嫁がず、ピアノは家に残されたままになりました。戦後、家は没落し、おばあさんは戦火を潜るよりも辛い日々を生きてきました。そして、もうこの世にとどまる日々が尽きようとしている年齢になり、おばあさんはピアノ工房のおじいさんにそのピアノを託しました。そして今、おばあさんはここで許嫁者と再会したのでした。


私はピアノ。おばあさんの側でこの人の一生を見守ってきました。ピアニストがドビッシーの月の光を弾き始めています。それはまるで月の滴のようで、銀色のお月さままでが、のぞき込んで聞いています。もう私の役目も終わったようです。




















      

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ピアノとお月様 pinokopapa @pinokopapa

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