『第三章』カフェ・コンセール
パリの町は眠らない。
並木大通りは深夜も十二時を回ってから吐き出された劇場の観客たちにより、放流された水門のようにざわめく。
しかしこれらの人間の泡立ちも間もなく力が弱まり、ついで都心から一握りのところ、バスティーユ、マドレーヌ、シャトレ広場、ストラスブール駅でも消えうせ、大通りのカフェでもガス燈が消され、ようやくこの眠らぬ町にも宵闇が訪れる。
しかし……夜の徘徊者は、まさにこのときになって息を吹き返す。
石畳の上には朱色の絨毯が敷き詰められていた。
殺戮の女神の前に立ち塞がった者には尽く死が訪れた。既に十数の死体が石畳の上に無造作にうち棄てられている。いずれも、手首、こめかみ、頸動脈という人体の中で最も死にやすい急所を斬られ、一刀の下に絶命していた。彼らには死を感じる暇さえもなかった筈だ。むせぶような濃厚な血の香りが周囲に立ちこめていた。
殺戮の女神の被る奇怪な黄金の四つ目の仮面も、血の斑で染め上げられてしまっている。
「……退け! 私が狩るべきは貴様らなどではない!」
石畳の舞台の上で舞い踊るかのように殺戮を続けていた鮮血の女神が、何度目かのその言葉を発する。だが、仲間であるはず男たちの死など何ら目に映っておらぬかのように、彼らは機械的な動きで少女との間合いを詰めてくる。彼らの口は壊れたオルゴールのように、何の感情も籠もらぬ言葉を、醒めない悪夢のように繰り返し繰り返し、漏らし続ける。
「我らが
「女神の使徒にして《無限の観測者》たる我らが《導師》を害し《波動》を収斂せしめんとする《不確定性の悪魔》を滅すべし!」
「……チッ。《イリーウ・メートラン》の人形どもか」
そう吐き捨てながら、仮面の下の素顔を歪めた少女は、しかし繰り出される男たちの斬撃を縫って、その傍らを駆け抜ける。
降り注ぐ生暖かい返り血を浴びながら、女神の輪舞の第二幕は切って落とされた。
パリの朝は早い。たとえそれが隣国との戦争の最中であっても、だ。
午前三時を回った頃には、早くも郊外の野菜売りたちが中央市場や周辺の敷石の上に荷物を下ろしにやってくる。ついで魚介類の荷車が、アナゴやニシンなど庶民向けの魚を、舌ビラメやテュルボ、オマールなどの上流階級向けの荷を大量に運び込んでくる。
セーヌ右岸、ボーブール地区に位置するレ・アール。パリ市民の胃袋を支えるこの中央市場に商品を搬送する馬車、荷車、そして仕入れに来る商人とで、セーヌ川にかかる橋は何処も大渋滞を引き起こしている。橋の絶対数が少ないからだ。
とりわけシテ島と、その背後に寄り添うサン・ルイ島を経由し、セーヌ川の両岸を繋ぐ橋の渋滞は、パリの心臓部だけあって凄まじい。
だが、そこから一歩外れたシテ島の内側に入ると、その喧噪が嘘のようにピタリと消えうせる。ほんの数年前までパリで最も人口密度が高く、犯罪者の巣窟である安宿と酒場が溢れていたシテ島も、ノートルダムの北側街区の一角を除き、尽くオスマンの鶴嘴に掛かり、清潔な、しかし活気のない町へと変えられてしまったからだ。
唯一残された北側街区もその人口は激減し、やってくる物売りたちも激減した。だからこそ、だ。空が薄紅に染まり始めた頃、ようやくアパルトマンに戻ってきた青年紳士が、黒いワンピース型のドレスを纏った人影を見つけたときに一瞬不審な表情を浮かべたのは。
「こんなに朝早くから何をしているんだい、マドモアゼル?」
一分の隙もなく黒の燕尾服を着込み、鮮やかな白のネクタイを締め、ぴかぴかに磨かれたブーツを履いた伊達男が、アパルトマンの方をしきりに伺う少女に声を掛ける。
「貴様こそ随分と早い御帰還だな。こんな時間まで一体何をしていた、セオドア・バード?」
振り返った少女の、漆黒より深い色をした髪が朝日に映え、濡れ羽のように光り輝く。
「こいつは光栄だ。君のように美しく華麗な御婦人に心配して頂けるとは。されど私は愛を求め彷徨い続ける永遠の狩人。ああ、一時と云えども同じ港に留まることの赦されぬ星の下に生まれた我が身が憎い」
「そのくせ、律儀に毎日このおんぼろアパルトマンに戻ってくるのはどういう寸法だ?」
どこまでも醒めきったナナに向かい、セオドアは何の衒いもなく、人好きのする笑顔を浮かべて言い切る。「それは勿論、愛しい愛しいジュヌヴィエーヴ嬢とナナ嬢の麗しきかんばせを拝するために決まっているじゃないか!」
ナナの、まさに凶眼とでも称すべき眼光が真っ直ぐにセオドアの身体を貫き通す。だが、この青年はどこ吹く風とばかりにそれを受け流す。まるっきり暖簾に腕押しだ。
巫山戯た風を装っているが、この男がただ者ではないことくらい最初に出会ったその瞬間からナナは気が付いているし、恐らく逆もまたそうに違いない。
問題はこの男の目的であり、背後関係であり、策動のための本拠地を何故こんな場末のアパルトマンに据えたか、である。
「おやおや。なんだ、あの子犬君に無断で夜歩きかい? そいつは感心しないな」
アパルトマンの前を、テオドールが繰り返し行ったり来たりしているのを認め、セオドアが愉快そうに云う。彼の眼の下の隈から察するに、昨晩ナナが無断で外出したのに早々に気付いたようだ。恐らく殆ど一睡もしていないに違いない。
「子犬、か。なるほど、言い得て妙だな……って、なんでこの私があいつに遠慮して行動を控える必要があるんだ!?」思わず頷きそうになってから、その言葉の意味を悟り、ナナは不機嫌この上なく云い捨てる。
「それは捨て猫だと思って拾ってきた子猫ちゃんが実は強く麗しい雌豹で、狼の巣窟たるあのアパルトマンの住人中、彼だけが全くの無防備で全てを曝け出して暮らしていることに、あの子犬君だけは気付いてもいないし、気付く気配すらないからさ」
セオドアは、あっさりと、限りなく薄い皮膜で覆った物言いながら《真相》をぶち撒ける。青年の、ある種の投げやりなその雰囲気を裏打ちしているのは、貴族的な無頓着さだ。流石のナナも男の真意を図りかね、警戒心と不信感の入り混じった微妙な表情を浮かべる。
「ま、そんな難しい話はこちらに置いておいて……」そんな軽い言葉で魔法のように、気怠げだった青年の表情が一変する。
ナナの、一足一見の間合いに、静かに、しかし秘めた圧倒的な力を感じさせながら踏み込んでくる。二人の間に走る緊張の意図が極限まで張り詰め……る間もなく、セオドアは少女の間合いに真っ向から飛び込んでくる。「!?」
「それよりどうだい? そんなに子犬君に叱られるのが嫌なら、これからでも盛り場に繰り出して二人の親交を温めるというのは? ああ、心配しなくても良い。太陽が宵闇を薙ぎ払っても熱情の覚めやらぬカップルのために昼過ぎまで開けている店を知っているんだ」
だが、ナナの肩に親しげに置こうとしたセオドアの右手は空しく虚空を切る。
セオドアが気付いたときには、ナナはアパルトマンの玄関へと既に歩き出していた。
忙しなく行き来を繰り返していたテオドールの身体が、その人影を見つけると棒のように一瞬硬直した。その人影が間違いなくナナであることを認めると、顔の強張りがみるみる弛みだし、そのまま泣き出しそうな表情になってしまう。
テオドールのそんな反応に、ナナは思いっきり顔を歪め、一瞬踵を返そうとするが、突如背中をびくんと震わせた。次いで何かを堪えるかのように背中を丸め、顔を俯けてしまう。
何事かと駆け寄ったテオドールを撥ね付けようとして……ナナの顔が再び大きく歪む。顔の表情筋を一杯に伸ばし、叫ぶように開いた少女の可憐な口から漏れ出たのは…………特大の大欠伸だ。
耐え難い沈黙がその場を覆いつくす。うら若き少女の大欠伸を、しかも間近で見てしまったテオドールはバツが悪そうにそのまま固まってしまう。
そんな青年にきつい一瞥をくれたナナは、怒ったような足取りのまま、アパルトマンの中へと姿を消し、扉が乱暴に閉まる音でようやく我に返ったテオが慌ててその後を追った。
空を切った己が右の掌を暫し呆然と見つめていたセオドアは「‥ああ、残念。振られてしまったということか」と大仰な溜息と共に吐き出すと、そのまま二人の後を追い、狼の巣窟へと戻っていった。
空が白み始めると牛乳売りの女たちが正門角や食品店の前などに立ち始める。オルレアンやメダン等、パリ郊外からやって来る牛乳車を待っているのだ。
パン屋の従業員たちはパンを竈から抱えて出し、パリジャンの朝餉に備える。
六時半を過ぎると新聞配達が《印刷所のキスでまだ濡れている》新聞をドアの下に滑り込ませ、朝の本格的な到来を告げる。
午前七時、お告げの祈りの時刻を告げる鐘の音とともに中央市場が開かれ、パリの町は本格的な稼動を始める。
門番女のテレーズ・タリオーニは、毎朝鐘の音と共に市場へ突撃していく。
そしてめぼしい肉屋、野菜屋、魚屋、果物屋に突進すると、最も上質と思われる品を信じられぬほど値切り倒した価格で買い漁る。その値切り方は悪辣極まりなく、最上級の品の、しかしほんの些細な瑕疵を信じられぬ眼力で見抜き、店主に畳みかける。
最初は店主たちも抗弁したものの、彼女の攻撃の矛先がその品物だけでなく、別の商品、果ては店全体にまで及ぶともうお手上げだった。彼女は相手の一分の隙を決して見逃さず、その隙を巨大な裂け目にしてしまう達人だった。
一度彼女に目を付けられたが最後、最早売り手に勝ち目はない。かくして店主たちは毎朝予め彼女専用の商品を提供する羽目となるのだ。
一日の最初の戦闘に勝利した彼女は、ナポレオン三世が開いたこの巨大なガラス造りのレ・アールの一角に腰を下ろす。
ロンドン万博に出展されたクリスタル・パレスに似せて造られたこの建物は、ガラス屋根で覆われ、荒天の日も雨風に晒される心配はない。天気の良い日には格好のひなたぼっこの場所となるここが、彼女の一番のお気に入りの場所であり、常に彼女とともにある《世界》という名の劇場の特等席であった。
そこで彼女は復讐心とこれから迎え来る輝かしい栄光に思いを致している。
世界は一つの劇場であり、人々の織りなす歴史はその舞台に掛けられた壮大な歌劇だ。
かつては花形女優であった彼女が門番女にまで身を堕したたのを知り冷笑した人間ども。彼らへの復讐となる演目の開演は目前にまで迫っていた。
傲慢と虚栄の悪魔に取り憑かれた連中に、パリの社交界なんてちっぽけな世界での成功に酔いしれている連中に、世界という舞台における彼らの卑小さを存分に味あわせてやる! 今更這いつくばって許しを請うたとしても決して許しはしない!
世界という劇場でスポットライトを浴びるのは《神》の創られし芝居に出演することを赦されし《我ら》だけなのだから。
そう、歴史の
若き日に舞台上で味わった快感と似た充足感に満たされていたテレーズの表情が、雷にでも打たれたように一変する。
耳元に飛び込んできた指向性のある言葉が、彼女の一切の動きを止めた。
それは……世界を律する女神の啓示。
午前八時になるとパリ中の街頭の水道栓が開かれ、車道の脇を水が流れ始める。これは陽光で温められた舗装道路を冷やすための処置であると同時に、もう一つの意味がある。
清掃夫が竹箒で歩道のゴミや犬の糞をこの水の流れに掃き落とす。汚物を運んだ水はしばらく流れた後、歩道下の溝に吸い込まれ、忽然と姿を消してしまう。地下の下水道にそのまま流れ込んだのだ。
原始的であると同時に、非常に便利なこの街路清掃方式もまたオスマンのパリ改造により産み出されたものだ。
だが《古いパリ》の残された、或いは《新しいパリ》に素通りされたこの街区では、ごく一部の区域しかその恩恵は受けられない。
アパルトマンからジュヌヴィエーヴが竹箒を片手に出てきて、朝の清掃を始める。
ジュヌヴィエーヴの清潔好きは病的なほど徹底している。多少なりとも以前より改善された今だからこそ、このじめじめした街区での生活にも耐えているが、オスマン改造以前の本物の《腐臭都市》パリに投げ込まれたら、あっという間に卒倒してしまうだろう。
ともあれジュヌヴィエーヴは誰に頼まれたでもなく、アパルトマンの内も外も掃除を欠かさない。最初ナナが寝かされていた無人の屋根裏部屋がさほど埃っぽくなかったのも、彼女が絶えず清掃していたからだ。
だが今日に限ってその手許は普段と違って雑この上ない。つい先程まで、そして朝食の間中もずっと、一晩中ナナの帰りを待っていた兄に対する小言を延々と吐き出し続けていたからだ。
一番の糾弾対象であるナナは大欠伸とともに、とっとと屋根裏の自分の部屋――暫く前からナナはこの部屋の正式な住人になっている――のベットに潜り込んでしまったため、ジュヌヴィエーヴの兄に対する責めは容赦ないものとなった。
ジュヌヴィエーヴにしてみれば『人殺しと一つ屋根の下に住むなんてとんでもない!』と兄のみならず、アパルトマン中に叫びたいところなのだが、考えてみれば証拠など何処にもない。いつぞやの百貨店でナナはそれを認めるような発言をしたが、それにしても口先だけのことだ。真正面から糾弾したところで「あれは冗談だ」と言い切られればそれ以上追求する手段は今のところない。
それでも声高に叫び続ければ、あのナナという女は恐らくこのアパルトマンから出ていくだろう、という奇妙な確信が彼女にはある。
だけど、その手段に踏み切るふんぎりがつかないのだ。
百貨店で垣間見たナナの本性を恐れてのことではない。ナナの正体をぶち撒けた場合の、そしてナナが姿を消した場合の、兄の悲しい表情が脳裏に確実に思い浮かぶからだ。
何処をどう気に入ったのか分からないけれど、兄がナナをモデル以上の存在として見ていること、そして恐らく恋をしているのだということは、誰よりも兄との付き合いが長いジュヌヴィエーヴにとっては一目瞭然だった。他のアパルトマンの住人たちもまた、そろそろ気が付き始めているだろう。知らぬは鈍感この上ないあの恐るべき東洋女と、当の本人だけというわけだ……
「ああ、おはよう、ジュヌヴィエーヴさん」筋骨隆々のその身体に似合わぬ、とても優しい声がフレンチドアを潜ったところから掛けられる。
「おはようございます、ウージェーヌさん」少女は内心の怒りや不満を一瞬で胸の裡にしまい込み、身支度を整え外出しようとしているウージェーヌ・シリトーに優しい笑顔を向ける。
ウージェーヌが彼女たちの住むアパルトマンに引っ越してきたのは半年ほど前のことだ。ナナに対する程のものではないが、ジュヌヴィエーヴはこの四十絡みの男に対しても胡散臭さを感じている。
まず身体つきが尋常ではない。発達した上腕筋は丸太のように太く、ズボンからはち切れんばかりの太股は、小柄な女性の胴体ほど太い。
次にその物腰だ。ジュヌヴィエーヴが見る限り、粗野を装ってはいるがこの男の振る舞いには洗練されたものが、生まれつき何かしらの義務を背負った者のみが纏いうる優雅さと高貴さがある。
第三にその言葉だ。普段ウージェーヌが喋る言葉には、この界隈でしか通用しない隠語がごく自然に使われていて、一見、いや一聴しただけでは気が付かないし、実際彼女自身も身近にその言葉を操る人間がいなければ気が付かなかったろう。
ウージェーヌが喋る言葉には、早くに亡くなった母の親友――彼女こそがジュヌヴィエーヴの医学から呪術、占いに至る様々な術の先生なのだが――と同じ訛りがあるのだ。そう、いま帝国と戦いを繰り広げているプロイセン軍の、その南部地方のドイツ語の訛りが。
「今日はどちらかにお出かけですか?」こんな時間から仕事に向かう労働者などいはしない。通勤のピークはとっくに過ぎている。
「うむ、前に君にだけは話したことがあると思うが、今日は例の《探し人》をもう少し本格的に探してみようと思ってね」
ナナが転がり込む直前、スペインの王位継承問題がヨーロッパ全土を騒がし始めたある夜、珍しく泥酔しアパルトマンの食堂で倒れ込んだウージェーヌを、彼女は介抱した。
彼女にしてみれば汚い吐瀉物で食堂を汚されては堪らないという想いからだけだったのだが、彼はそれを素直に善意から発するものととったようだ。聴きもしないことまで壊れたオルゴールのように繰り返し繰り返し、譫言のように呟く。
支離滅裂なウージェーヌの話を総合すると、その探し人は彼の若い頃の過ち故に生き別れた、いや生まれる前から別れざるを得なかったのだと云う。後に届けられた手紙によると、その探し人は濃い褐色の瞳に美しい黒髪をしていて、彼が贈った証となる物を絶えず身につけている筈だ、ということらしい。
「そうですか、探し人、見つかると良いですね」酒精で現実と小説の境界を見失った者の戯言にジュヌヴィエーヴは微塵の興味を持ちはしなかったが、それでもにこやかに男を送り出した。
この戦時下で一番考えられる男の正体は、プロイセン軍の密偵だ。その体つきと隙のない身のこなしみに加えて、ドイツ語訛りとくれば最早疑う余地はないように思われた。例の探し人と云うのも、周囲の人間を信用させるための方便に違いない。
ジェヌヴィエーヴにしてみれば、この戦争の勝敗などどうなろうが構わない。
戦争の相手は、中世ヨーロッパを恐怖と混乱のどん底に突き落としたモンゴル帝国軍でもなければ、《異教徒》を殺すことこそが天国への近道と信ずる狂信に支えられた十字軍でもないのだ。お互いの国民が全員死に絶えるまで闘い続ける戦争に発展する余地などはどこにも存在しないからだ。
ただ、彼女にも絶対に譲れぬ一線があった。それは命を賭しての覚悟だ。
兄を危機に陥れるような事態を招く人間は……たとえ神様だって赦さない、と。
「ああ、ジェヌヴィエーヴさん、一つ言い忘れていたことがありました」
立ち去った筈のウージェーヌに、突然後ろから声を掛けられ飛び上がってしまう。
「君の生まれ故郷はこのパリですか?」
ええ、そうですけど? 特に疑問もなく応えると、ウージェーヌはほんの僅かに表情を曇らせて云う。
「どうも君のような娘さんにはこの街は相応しいとは思えない。早いうちにパリ以外の何処かに転居することを、君と君のお兄さんのためにも考えてみるとよいと思うよ」
午前十時になり、リシュリー通り沿いにある帝国図書館の戸が蝶番の上で重々しく廻ると《図書館のネズミたち》が喜び勇んで入っていく。彼らは他人の書いた本を餌にして生きる知的な囓り屋だ。知識を全て囓り尽くした後に何が残るかを考えることもない。
閲覧席はあっと言う間に押し寄せる人波に呑み込まれた。書棚延長二四〇キロメートル、総蔵書数は一千万冊を超えるこの図書館の閲覧室は、後に第二帝政期の代表的鋼鉄建築物と称されるようになる。
「やあ、ナナ君。御機嫌麗しゅう」
眦の鋭い、黒髪の少女が物憂げに本の頁を捲っているのを見つけ、ニコライ・スパファリィは静かに響く声で呼びかける。少女はほんの刹那、鶴のように痩身の、生けるキリストといった風貌の男に一瞥をくれるが、再び本に視線を戻す。彼女の向かい側の席に座ったニコライは、その前に積み上げられた書物を軽く覗き込む。
そこには古今東西選りすぐりの歴史家たちの著作が並んでいた。
古代ギリシアのトゥキュディデス、中世北アフリカのイヴン・ハルドゥーン、ルネッサン期イタリアのフランチェスコ・グイッチャルディニなど、何れも後世その真価を認められることになった人々の著作だ。
そしていま彼女が頁を捲っているのは、人類史上最初にして最大の体系的歴史書、モンゴル帝国最高の文化遺産と云われるラシード・アッディーンの筆による「集史」のラテン語写本だ。ニコライはそれを確認すると、何故だか満足したように一つ頷いて、自分の目当ての本に視線を落とした。
差し向かう二人の間の物理的距離は一メートル足らず。しかし二人の間の時間は数百年、いやそれ以上の年月の壁となり、城塞を築き上げている。そこにあるのは決して埋められぬ、二人の世界に対する認識そのもののように思われた。
二時間後。目当ての本を読み終えた少女が静かにその本を閉じるのを確認してからニコライは静かに問いかける。
「こう云っては失礼だろうが、意外なところで会うものだね。一体どんな調べ物だね?」
「私から云わせれば貴様がこうして平穏無事に図書館に通っていること方が余程意外だと思うがな。ここ数日来ロシア内務省の密偵たちが界隈を徘徊しているのに気付かぬ貴様でもあるまい……レフ・イリイッチ・メーチニコフ?」
彼女は瞑目したまま、静かに、しかし揺るぎない断定の口調で男の本名を告げた。
「……流石だね。もう私の身許を突き止めたわけだ」
ニコライ・スパファリィの、いやレフ・イリイッチ・メーチニコフの顔に浮かんだのは驚きの表情ではない。むしろ喜色と云っていい。
「偽名ともいえぬ偽名を名乗っておきながらよく云う。まして貴様の義足は《この世界》では有名すぎるだろうが」
レフ・イリイッチ・メーチニコフは亡命ロシア人であり、ロシア内務省からその行方を追われている筋金入りの戦闘的革命家だ。男が偽名とし使用している《スパファリィ》とは、彼の先祖の苗字であり、ルーマニア語で《剣を持つ男》を意味する。彼の遠き先祖は故国モルダビアで王位簒奪を企みロシアに追放された後、その外国語の異能の才により外交官として、そして若き日のピョートル大帝の教師役として活躍することになる。
彼の兄は一族の伝統通り官僚として立身の道を探ることになるが、彼は両親の期待とは裏腹に革命家の道を辿る。そんな彼に世間の眼は冷たく、彼の兄イワンをモデルにした小説を描いたロシアの文豪トルストイは、男の事を作中で「失敗者」と断言している。
だが十数ヶ国語を自在に操るこの語学の天才の本領が発揮されるのは、ガリバルディが指揮したイタリア統一戦争においてだ。多国籍軍といった風の赤シャツに身を固めた千人隊と呼ばれるその軍隊において、この男の真価はその調停術とともに発揮され、寄せ集めの軍隊は遂にイタリア統一に成功するのだ。
もっともその戦争の最中、彼は炸裂弾により片足を失ってしまう。戦線を離脱し療養中の男の下に、彼をモデルにした小説を執筆するために『三銃士』を生んだかのアレクサンドル・デュマが訪れることになるのだが、彼はその申し出を一蹴する。
その結果、文学史に残るべき一つの可能性が潰えた。実の兄弟の、それぞれ全く違う人生が、全く違う文化圏の、しかし共に世界的作家の小説のモデルとなるという可能性が。
そして彼らには生物学者の弟イリアがおり、その弟の人生もまた後の伝記作家たちに生活の糧を与えることになる……。
「それで今回貴様の背後にいるのはガリバルディか、それともバクーニンか? 老将はカプレラ島に隠棲中だろうが、バクーニンはいま確かリヨンにいる筈だな?」
ガリバルディとは歴史に名を轟かせる赤シャツ隊を率いたイタリア統一戦争の英雄であり、バクーニンはスラブ連邦樹立を謀り、後にポーランド反乱を支援。イタリア、スペインの革命運動にも強い影響を与えた最も戦闘的な無政府主義革命家だ。そのあまりの過激さ故に、マルクスと激烈な対立に陥り、遂にはインターナショナルを追放されている。
メーチニコフはイタリア統一戦争の際にこの二大人物と知己となり、ポーランド反乱の際には二人の間の連絡役を務めるほど、両者から絶大な信頼を獲得していた。
そんな男が隣国との戦争のただ中に突入している国の首都にいるという時点で、何かしらの目的が存在することは疑う余地はなかった。
「君は……この戦争の行く末はどうなると思っている?」
彼女の問いに直接には応えず、メーチニコフは逆に問い返す。
「愚問だな」彼女の答えはこの上なく素っ気なかったが、メーチニコフにはそれで通じた。
面白そうに表情のない彼女の顔を観察しながら、席から腰を上げる。そして去り際に、この濃厚な時間の謝礼がわりに、彼にとっての真実の一端を告げる。
「誤解されては困るが、私の目的はこの国の転覆などと云う大それたものではない。今回この地に来たのは、ささやかな捜し物を見つけるために過ぎないのだよ」
パレ・ロワイヤルの大砲がパリの町に正午を告げる。
真面目なブルジョワは毎日ブレゲ製の大時計に腕時計を合わせるべく忠実にやってくる。その奥方たちはと云えばこの頃になって起きる気になり、のろのろと身支度を始める。弁護士は法服を纏いサント・シャペル通りを横切り、レストランルイへと食事に向かう。
屋台の鶏のモツ入りパイで申し訳程度の腹ごしらえをしたナナは、林立する風車を目印にモンマルトルの丘の方へとその足を向けた。
パリの北東部にあるモンマルトルの丘は盛り場であると同時に、純軍事的に見れば重要な戦略的拠点でもある。海抜一三〇メートルのこの小高い丘から、パリ中心部をほぼ一望できるからだ。
モンマルトルの語源は三世紀半ばに遡る。この丘で異教徒により斬首され殉教したパリ初代司教聖ドニが、斬り落とされた自分の首を自らパリ北方のサン・ドニ付近まで抱え運んだという奇跡。そこから「殉教の丘」レ・モン・マルトルと名付けられる事になる。
奇跡と云うより、怪談の類としか思えぬがな。ナナは心の裡で呆れ気味に呟く。
他国に入り込み、その地の民になりきることは《草》としての任務の最たるものだが、聖なる御業というより、どこからどう考えても百物語でしかないこのような奇譚を《聖なる物語》として語り継ぐキリスト教徒の考えは未だに理解に困難が伴ってしまう。
ピガール広場の方から石畳の坂を抜け、丘の上に立つ風車を目指す。もう数年すると、この丘にはビザンチンスタイルの白亜の教会が建てられ、そこには巨大な鐘楼が据えられることになるのだが、この時点ではその建立の予定すらない。何故なら、その教会は……
早足でテルトル広場を通り抜けようとしたところで、ナナを呼び止める者がいる。
「ああ、ナナ。丁度いいところで会ったね」
「………………」
朝の騒動などなかったような、いつもの人懐っこい声で呼びかけに、ナナが嫌々視線をやる。丁度スケッチブックの一枚を切り取ったテオドールは、いかにも田舎から出てきたばかりと思しき風体の若い娘にそれを手渡している。どうやら観光客相手に似顔絵書きをしたいたらしい。
「なんだ、ちゃんとしたデッサンの絵も描けるんじゃないか」
客に手渡した似顔絵を横から覗き込んだナナは、その出来映えに意外そうに云う。
「心外だなぁ、そういう云われ方をすると」
そう云いながらも絵を誉められたのが嬉しいのだろう、テオドールの顔に得意の色が浮かぶ。だがその笑顔に言いしれぬ戦慄を覚えたナナは、じゃあな、と軽く言い残してそのまま踵を返そうとする。
「待った!」
柔らかいながら、どこか有無を云わせといった風の叫びがナナの背中を叩く。
振り返る必要なぞ、どこを探してもありはしない筈だった。だが不可思議な力に吸い寄せられるように、ナナの瞳はお預けを喰らった子犬のような表情を浮かべるテオドールとまともにかちあってしまう。
「以前お願いしていた件、そろそろお願いできるかな? 丁度この間選んでもらった服を着ているみたいだし」
「…………なんのことだ?」
ナナはそっぽを向いて惚けてみせる。
ここまで来たのは軍事偵察であり、このセーラー服とか云う恥ずかしい服を纏う羽目になったのは、替えの服が汚れてしまったからに過ぎない。
そもそもこの男に負い目を感じる必要なぞどこにもないのだ。助けてくれと頼んだ覚えもなければ、世話をしてくれと頼んだ覚えもない。
だがテオドールの、捨てられた子犬のように悲しげな、つぶらな瞳が、ナナの身体に見えない鎖を巻き付け、締め上げる。
この三千世界の何物をも一刀両断してみせる。
そう自負するナナにも、この鎖だけはそう簡単には断ち切れそうになかった。
「ああ、分かったよ、約束だからな。だがこれっきりだぞ!」
遂に根負けしたナナは忌々しげにそう吐き捨てた。
モンマルトルの丘もまた、パリ大改造により大変革がもたらされた場所のひとつだ。
かつては風車小屋が点在するブドウ園と畑だけの村に、市内から立ち退きを余儀なくされた人々が大量に移り住んだ。
とりわけ生活費の安さと、丘からの素晴らしい風景に惹かれて、数多くの芸術家たちがここに集ったことにより、この地は一箇の芸術家村的様相を呈するに至った。
夏の陽射しはまだまだ強い。決して大きくも美しくもない、古びた風車を背景に、丘の上に立ったナナは白い日傘を差している。
象牙製の握り部分に東洋の神獣である竜が躍動的に彫り込まれた傘。その骨の部分に張られているのは飾り気はないが、純潔そのもののような白い絹で、可愛らしい透かしの入ったレースで縁取られている。
明るい陽射しと爽やかな風が丘の上を吹き抜ける。
眩しいほどの白い傘、セーラー服の青、緑の丘、重ねた歳月の長さを想起させる焦げ茶の風車、そして背景となった、どこまでも抜けるような、夏のパリの薄青。
ナナは手にした傘を、ゆっくりと風車の羽根に合わせるように、くるくると廻す。
くるり、くるりと静かに廻る二つの輪は重なり、溶け合い、あわさり、一つの歯車に、時の歯車となって時間と空間を律するように思われた。
「なあ、お前」
四半刻ほども彫像のように微動だにせずポーズをとっていたナナが唐突に口を開く。
「ん、なんだい?」
生返事だけして、テオドールは手を止めることなく素描を続けている。
「どうして貴様は……私の素性について何も聞かない?」
ナナがアパルトマンに運び込まれてから、はや一ヶ月半が経とうとしていた。
なし崩し的に彼女はあのアパルトマンの――モン・レーヴ《私の夢》荘の――正式な住人に収まっている。勿論、無償ではない。以前の隠れ家を引き払い、蓄えておいた軍資金を門番女のテレーズに先般の迷惑料と共に叩きつけたのだ。
その破格の金額に一も二もなく、門番女はナナが仮初めの住処としていた屋根裏部屋に、彼女を正式な住人として迎えた。
冷静に判断してみても《私の夢》荘はナナにとって絶好の立地条件を揃えていた。
パリの始まりの地であり、パリ警視庁、最高裁判所、市立病院、そしてパリ市民の心の拠り所であるノートルダム寺院をその懐に抱え、今なおその中心であり続けるシテ島。
ノートルダムの尖塔に登れば、パリの町を一望の下に見渡せ、かつパリの南北、何処へも迅速に駆けつけることができる。情報収集の場として、そして戦略的な見地からも、これ以上の場所は考えられなかった。
そう、私は冷静に状況を分析している。
ナナは繰り返し繰り返し、呪文のように自分自身に言い聞かせている。だが、その判断が幾つものマイナスの側面を包含していることを彼女は敢えて無視していた。
追儺衆が叩くべき、根こそぐべきフランス政府の首脳部はパリから遠き地で決戦に挑んでいることも、かのアパルトマンが追儺衆最凶の刺客との決戦の場に近いことも、同じアパルトマンの住人が何れもただ者ではないことも、全てを承知しながらも、ナナはそれに目を瞑ってる。
その理由が……鈍いのだか鋭いのだか全然分からない、この下手糞な絵描きにあるということを認めたくなかったし、彼女自身信じていなかった。
ただ、正体の知れぬ《何か》がどうしても頭の片隅に引っ掛かって離れないのだ。
いつまで経っても戻ってこない返事に堪えかね、ナナは語気を荒げ、改めて問い直す。
「ごめんごめん。で、なんだっけ?」
テオドールはようやく顔を上げ、不思議そうにナナの顔を覗き込む。
「だから、普通なら不思議に思う筈だろう、極東の島国の小娘がわざわざパリまでやってきて行き倒れになっているのを見つければ、って云っているんだ!」
やっと筆を止め、暫し考え込んでいたテオドールは、はたと何かに気付いたような驚きの表情を見せた。それから何か納得したように重々しく何度も頷いてから、とんでもないことを云う。
「そ、そうだったんだ。聞いて貰いたかったんだ、ナナは。ごめん、君が僕に悩み事を相談したいって思ってなんて夢にも思わなくって」
「誰がそんなことを云ったんだ、誰が!?」
激昂するナナを「えっ、違うのかい!?」とまじまじと見つめるテオドールのその瞳には一点の曇りもない。ナナの手許から軋むような、奇妙な音が聞こえてくる。手にした日傘の象牙の柄をきりきりと強く握りしめる音だ。
「……そうだよね、女の子の悩みだもんね。やっぱり男には相談しづらいよね」
その追い打ちに、ナナの頭の中の何処かで何かが切れた音がした。
無意識のまま手にした傘を折り畳み、この脳天気な頭蓋を砕かんとゆっくりとゆっくりと振り上げていく。そして傘の先端が天を指し示し、今まさに振り下ろさん……というところでナナの動きが止まる。テオの左手が思いがけぬ鋭さでナナを制したからだ。
「ナナ。悪いけれど、もう少しだけ動かないでいてくれないかな?」
穏やかで優しく、ちっとも高圧的ではないけれど、しかし侵しがたい意志の籠もったその物言いに気圧されるように、ナナは再び傘を差して姿勢を正した。
……こんなところで私は何をしているんだろう? かつての仲間は尽く無惨な最期を遂げたというのに。太陽の照り返しで、夏特有の白っぽい光を放つパリの中心部をぼんやりと眺めながら、ナナは思う。
彼女に命を下した幕府は崩壊し、今はもう存在しない。いや、既にあの出航の夜の時点で、追儺衆に対する使命は撤回されている筈なのだ。
ならば何故、追儺衆の他の面々は、その使命を放棄しなかったのであろうか?
彼らが愚かだったから? それは違うと断言できる。むしろ逆だ。
彼らは己が託された任務が、我が国の未来にとって、それどころか世界全体の歴史にとって、いかなる意味を持つものなのか、更にはっきり断言すれば、時代を逆行させるものでしかないということを、口にこそ出さなかったが理解し、それ故に苦悩していた。
ただ私だけは、いや恐らくいま私をつけ狙う、もう一人の、そして唯一人の生き残りである《追儺の者》にとってもまたそれは不可解な反応だった。
理由の如何問わず、与えられた使命は万難を排しても、我らの歩み去った後に無数の死骸を転がすこととなっても、完遂する。
それが私たち追儺衆の魂の最奥にまで刻み込まれた使命の筈だ。
難しいことは何も考える必要はなく、目的さえ果たせれば我々は満足感と幸福感に包まれたまま、何の未練もなくこの薄汚い現世を離れることが出来る筈なのだ。
私は心の奥底でその日が来るのを心待ちにしている自分がいることを知っていたし、それは今も変わらない。
でも心の何処かで、いまこの瞬間の、こんな時間も悪くない、と思っている自分がいることにも彼女は気付いていた。いま自分を充たしている感情の正体は依然として曖昧模糊として、分からない。でももう少しだけ……この自称画家の卵という青年のお遊びにつきあってみるのもいいかもしれない。
だがその直後、ナナはそんな幻想に酔った自分を責め立てることになる。
テオドールの「もう少しだけ」という言葉の真の意味するところをナナが理解したのは、彼女がポーズを取り始めてゆうに五時間を経過した後のことであり、その間、ナナは指の一本ですら、動かすことを許されなかったからである。
夕べのアンジェラスの鐘が鳴り響く。
この時期のパリは午後六時を過ぎてもなお、まだ陽は高い。
建築関係の職人、石工、大工、錠前屋が都合十二時間にも及ぶ重労働を終えてようやく作業場から離れる一方、パリの東端にあるヴァンセンヌの森や西端のブローニュの森に遊びに出掛けていた女たちは遊び疲れ戻ってくる。
恐るべき地獄のような喧噪が町に満ち始める。通りという通りが人と馬車で溢れ、ある者は人気の劇場の前で行列を為すために、ある者は郊外へと散策に、ある者はカフェの一角を陣取りに向かう。
昼から入り浸りでアプサントを煽っていた者たちも、ようやくその淫靡な楽しみを切り上げ、食事へと向かう。
その人並みが最も激しくなるのは、パリ中心を東西に貫くシャンゼリゼ大通りだ。
ナポレオン三世は、シャンゼリゼを世界に二つとない遊歩道にしようと決心し、事実それを成し遂げた。ギリシア神話で《極楽浄土》を意味するこの大通りはセーヌ川を右手に、エトワールの凱旋門からコンコルド広場まで緩やかな下り坂になって真っ直ぐに伸び、その通りの両側には遊歩道を巧みに利用した、ありとあらゆる種類の店が立ち並ぶ。
この大通りを、モンマルトルの丘から戻ってきたテオドールとナナが歩いている。
満足げな表情のテオドールとは対照的に、ナナはげっそりとその頬をやつれさせ、力なく彼の後をついて歩くだけだ。まるでテオドールの描く絵に魂を吸い取られたように消耗しきっている。
「おっと。ここ、かな?」立ち並ぶ飲食店の一角で足を止めたテオドールが自信なさげにそこに掛かる店の看板を覗き込む。それに釣られて視線を送ったナナの眼に飛び込んできたのは《歌謡喫茶 カヴゥアーヌ》という金文字だ。
歌謡喫茶とは、元々はコーヒーを飲みに来る客を楽しませるために楽師を雇い、楽器を演奏させていた店のことだ。後に食事も出来るのが普通となり、貧しい階級の人々が奮発して訪れることのできる唯一の娯楽場と云うこともあって第二帝政下で爆発的に流行した。
一概に歌謡喫茶と云ってもその種類は様々で、ちょっとした管弦楽が演奏される店、歌姫が喜歌劇のアリアを歌う店のみならず、手品を披露する店やちょっとした寸劇を演じる店まである。だが目の前の店がどういった類の店なのか詮索する余裕すら、今のナナにはない。死んだ魚のような眼で傍らのテオドールを見ると、青年は大きく深呼吸を繰り返している。そして何か一大決心をするように大きく頷くと、店の扉を潜った。
「兄さん! ようやくわたしの演奏を聴きに来る気になってくれたんですね!」
その弾むような声は一段高くなった壇上から降ってきた。
ヴァイオリンを片手にしたジュヌヴィエーヴは兄の姿を目聡く見つけると、壇上から降りて喜色満面で近づいてくる。
が……その傍らにいる少女を見つけると、瞬時に修羅の表情へと一変する。
「な、な、なんでナナまで兄さんの隣にいるんですか!?」
朝方の口論の続きとばかりに、突き上げんばかりの勢いで叫ぶが……やつれきったナナの姿を認めると、どうやら事情を察したらしい。自分も同じように精も魂も尽き果てんばかりにされた経験があるだけあって、幾ばくかの同情を禁じ得ず、ナナに対する追求は別の機会に持ち越すことにしたようだ。
「わたしは演奏がありますから、兄さんとナナは適当にその辺のテーブルに座っていて下さい。食事はわたしの方から頼んでおきますから」
戦争の最中であるにもかかわらず、パリにおいては食料統制は行われていない。ただでさえ急降下している帝政の評判をこれ以上悪化させないためには、前線の兵士よりもパリ市民の胃袋を充たすことが優先事項だったからだ。
アスパラガスのピュレ・デリニャック風コンソメに若鳥の蒸し焼き、デザートの蜜柑のシャーベットを食べ終わり、申し訳程度に赤ワインを一杯だけ飲み干すと、魂まで消耗しきっていたナナもようやく一心地つくことができた。
壇上では金管楽器の楽団の演奏が続いている。他の楽団のメンバーと較べジュヌヴィエーヴの腕が飛び抜けていることは、音楽に興味のないナナにもすぐに分かった。技術云々もさることながら、その場の空気を読みとることに彼女は長けていた。彼女の演奏は客全員に対するものと同時に、様々な想いを秘めてここにやってきた一人一人の客の想いを汲んでの演奏だった。当然彼女目当ての客も随分いるらしく、盛んに歓声が飛んでいる。
しばし面白そうにジュヌヴィエーヴを観察していたナナは、何故か照れたような表情を浮かべて妹の演奏を見つめている青年に、皮肉っぽく言い放つ。
「あの小娘にばかり働かせて、自分はひがな一日、売れない絵を描き続けているとは、とんだ穀潰しの兄上様もいたもんだな」
「いや、それは……そういうわけじゃないんだけれど……」
困ったように頭を掻きながら、テオドールは言い訳をする。
「実を云えばあのアパルトマンの家賃だけなら数年先まで前払いしてあるんだ。ちょっと大きな臨時収入があった時に何年分か纏めてね。だから生活費とは全く別口なんだよ、ジュヌヴィエーヴが働いているのは」
「なんだ、その別口って云うのは?」
不審げにナナが問い返す。あの小娘は格段自分を飾り立てるような服装をしていたり、贅沢な品物に埋もれた生活しているわけでもないからだ。
暫く躊躇っていたテオドールだったが、誰にも話したことはないけれど、君になら話してもアイツも怒らないだろう、と自分を納得させるように呟いてから口を開く。
「……ジュヌヴィエーヴは母親のお墓を建てるために、その形見を質入しているんだよ。いま働いているのはその返済のためなんだ。アイツ、いくら説得してもこれだけは決して僕に払わせようとしないんだ。《私の母の墓です。私が自分で稼いだお金で払わなくてドウするというのです?》ってね」
その髪の色以外はあまり似ているところもなく、それ以上に兄に対する殆ど崇拝にも似たその感情で、ナナがある程度予想していた通りの言葉が返ってくる。言葉のニュアンスからシテ、二人の間には血の繋がりそのものがないのだろう。
少しだけ寂しそうに力ない笑みを浮かべるテオドール。だが青年のその瞳に深い悲しみと、しかしそれを圧倒する《妹》に対する底知れぬ愛情を読み取ったナナは……なんとなく面白くなくて席から立ち上がってしまう。
「ちょ、ちょっとナナ!?」
「……帰る」短くそう云って踵を返そうとしたナナに、周囲の視線が一斉に集まった。
ただでさえこの子供服を着た、黒髪のエキゾチックな細身の少女はこの場ではとても目立つのだ。しかもその少女がとびっきり美しければ注目を集めないわけはない。
しかも一時パリで東洋風の踊り子が大いに持ち上げられたこともあって、客たちは無責任にナナに舞台に上がるよう囃したてる。
「……ナナ、一緒に出よう」
袖を引っ張りながら外に出ようと小声で誘うテオドールの腕を、しかしナナは振り切る。
そして「ああ、いいぜ」と誰にともなく素っ気なく呟き、壇上へと登った。
舞台に上がったナナを迎えた曲は、軽く優美なシャンソンだ。
瞑目するかのように閉じられていたナナの瞳が、音楽と同時に見開かれる。
その瞬間、舞台の上に、シルフィッド、空気の妖精が舞い降りた。
それは宮廷舞踏会でも眼にすることができぬであろう華麗としか形容のしようがない美しい舞だ。とても小さな歌謡喫茶には似つかわしいとは思えない。
セーラー服のスカートがその下着が見えそうなほど捲れ上がるが、そこに場末の歌謡喫茶にあるような猥雑さは微塵も見えない。客たちはただ呆然と地上に舞い降りた妖精の舞を見つめることしか出来ない。
曲が終わっても、客たちは痺れたように身動き一つできなかった。
消し飛んだ魂をようやく取り戻した客の一人が拍手を始めると、あっと言う間にそれは万雷の大喝采になる。
群衆の感動と混乱は、アンコールの叫びと共に、先程までこの妖精の少女と同席していた幸運な青年までをも巻き込んだ。突き飛ばされるようにして舞台上に押し上げられたテオドールに、ナナは優美に礼を施す。
そして演奏が始まるや強引に青年の腕を掴むと、再び妖精の世界へと戻っていった。
沸きあがる熱狂、弾け散る情熱、巻き起こる大喝采の中心となった二人の姿を、ジュヌヴィエーヴは複雑な表情で見つめている。
そして何か思い至ったような表情で楽団の指揮者に耳打ちすると、男は心得たとばかり頷き指揮棒を振りあげる。
非常に早い二拍子が楽団の楽器から溢れ出した。待ってましたとばかりに更なる歓声が沸き起こる。ハンガリー起源の舞踏曲ギャロップは、この楽団の最大の見せ物であり、演奏のクライマックスを飾る曲だ。
暴力的とも云える曲が店全体を覆っていく。舞台上から感染した熱狂は、客席にまで及び、店全体を巨大な舞踏場へと変える。
曲のテンポはますます早く、鋭く、そして暴力的になっていく。客たちは勿論、楽団の奏者たちも次々と脱落していく。しかしナナはお荷物である筈のテオドールを抱えながらもそのテンポにも容易についていく。そんな二人をちらりと横目で確認すると、ジュヌヴィエーヴは意地になって更にテンポを上げた。
とてつもなく暴力的で、とてつもなく粗っぽく、薄っぺらい倫理観や人間的尊厳などぶっ飛ばしそうな勢いでギャロップはこの店のみならず、界隈全体に広がっていく。
表面上は平静を装っていても、戦争という見えない脅威に真綿で首を締め付けられるような想いに囚われていたパリ市民の鬱屈。
それを全てをぶち飛ばすような勢いでギャロップがパリ中を跳ね回っていく……。
午後の十一時を回って、ようやくカフェ・コンセールも店じまいの時間となる。
だがパリの夜はまだ終わらない。マドレーヌからバスチーユまでの大通りは、そぞろ歩きする人たちで一杯となり、恋人たちは腕を上に下にして並木大通りを連れ添って歩いていく。
あまりにも過激となったギャロップにより興奮の坩堝と化した店を飛び出した二人は、ポン・ヌフを渡りシテ島に戻ってきた。普段はそのまま川岸沿いにアパルトマンに戻るのだが、テオドールはナナの手を取りドフィーヌ広場へと入って来た。何となくこのままアパルトマンに戻るのが勿体ない気がしたからだ。
ここもまたノートルダムの北側街区同様、オスマンの鶴嘴を辛うじて免れえた場所だ。
ドフィーヌ広場は三角形の形状に、中央部に割れ目が走るという非常に歪な格好をした公園だ。パリの中心部にありながら、パリの中で最も深々と引っ込んだ感じのある場所と云われたこの広場には、フランス革命時、ギロチン台が据えられ、高貴な者も庶民もその別け隔てなく、その大地は血を吸い続けた。
大革命から七十年近く経過した今も周囲は高い叢に覆われていて、そこがパリの中心部とは容易には信じがたい。その奇妙な形状と歴史の故、時には女性自身に喩えられることもあるこの広場のベンチに二人は座り込む。
「ナナ。君は……本当に凄いね」
未だ興奮が冷めやらず熱い息を吐き出しながらテオドールが賛美の声を上げる。
しかし当のナナはと云えば、呆然とまるっきり喪心状態のまま虚空を見つめている。
「ちょ、ちょっとナナ!?」慌てて叫びながらその細い肩を激しく揺さぶると、ようやく少女の黒い瞳に光が戻ってくる。
「……ああ、テオじゃないか。一体何の用だ? それに……ここは一体どこだ?」
その異常な反応に半ば恐慌を起こしかけて……テオドールはナナの桜色に染まった頬と吐き出す吐息に混じる匂いに気付く。
「……ナナ。君、ひょっとして……酔っ払ってる?」
「……酔っ払う? ……それは一体誰ろ、何のことら? 私は悪魔に誓ったって酔っ払ってなんかいらいぞ。私は鬼なんだから悪魔なんて親戚みたいなもんらしな」
その彼女の言い分そのものが酔っ払いの戯言そのものだった。ようやく安心したテオドールが、迂闊に力を入れたら壊れてしまいそうな少女の小さな肩を優しく放すと、すぐにナナが身体ごと寄りかかってくる。そして間もなく草深いこの広場に穏やかな少女の寝息が聞こえ始めた。
しばらくたゆたう羽毛のような安らかな少女の寝顔を観察していた青年は「今日は有難う。そしてお休み、ナナ」と静かに呟くと、彼もまたナナの身体に寄りかかるようにして、寝息を立て始めた。
この日、八月三一日。ベルギー国境近くのセダンにおいて、プロイセン第三軍の包囲下にあったナポレオン三世以下、フランス帝国軍は為す術もなく投降することになる。
そしてその翌々日の九月二日、三世はプロシア軍に正式に降伏。
事実上この瞬間、フランスにおける帝政は《終局に至るその日》まで、永久に消滅する。
しかしこのフランス帝国の消滅は……この後パリを襲うことになる史上最悪の破壊と流血の序曲に過ぎなかった。
「終の七-パリ夢残」 人の海 @rxa08160108
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