『第二章』デハート
「で、私は何をすればいいんだ?」
私は部屋に入るや、わざとらしくベットに倒れ込みながら物憂げに問うてやる。
このアパルトマンに運び込まれて二週間あまり。ようやく傷も癒え、普通に動く分にはさほど痛みを感じないようになっている。
部屋には絵の具の匂いが充満していた。私が寝かされていた部屋の、丁度反対側にあるこの屋根裏部屋は青年のアトリエになっているのだ。屋根裏部屋というのは部屋自体は意外と広い。だがその一つしかない窓は非常に小さく、しかも壁紙はくすんだ色をしているため、昼でもなお薄暗い。
「服を全部脱いでこのベットの上で思い切り扇情的なポーズでも取れば満足かい?」
からかい混じりの私の言葉に、青年の顔は真っ赤に染まる。
「い、いや、僕はこのアトリエでは最後の仕上げくらいしかしないんだよ。この間お願いした絵のモデルの件については、もう少し君の傷が癒えたら、少し遠出をして描いてみたいんだ。だからその時までしばらく待って貰えると嬉しいな」
「ふーん」興味なさげに(実際に興味なんてないからだ)呟いて起き上がった私は、壁側に立てかけられた青年のものと思しき絵画に近づいていく。
「お前、美術学校に通っているのか?」
美術学校というのはパリ国立美術学校のことだ。この当時主流とされていた神話、聖書、古代史など《高貴な》主題を劇的に表現する歴史画家を養成するためにつくられたのがこの学校だ。調和のとれた構図、遠近感のある空間表現、緻密な人体表現、筆跡を残さぬ滑らかな仕上げの仕方。これらを学び、この学校を卒業することが若手の登竜門であるローマ賞や、官立の展覧会「サロン」で入選するための必須条件だった。
「これまでに何度か受験したんだけど、恥ずかしながら、全て不合格でね」
「……だろうな」
私にしては珍しい、心底から漏れでた感情がそのまま言葉になる。
絵画にまるで興味がない彼女の眼からすれば、青年の絵は子供の落書きと大差ないように思われた。青年の絵は何れも物の形や輪郭もはっきり描き込まれていない。全体として不明瞭で、もやもやした感じの絵ばかりだ。酷い作品に至っては、汚れたキャンバスの上に、パレットから引っ掻いた色をそのまま一面に並べただけとしか思えぬ作品まである。
ここまで来ると絵画の技術云々以前の問題で、その場の気分を、そして印象を画面に適当に書き殴ったようにしか見えない。
ただ……そんな未熟で稚拙な絵であるにもかかわらず、何かしら強く惹かれるものがある。
無論、この時の私には知るよしもなかった。このような絵画を描く人々が後に《印象派》と呼ばれ、美術史の一時代を画していくことなど。
「こんな絵を描いているようじゃ、永遠に受からねぇんじゃないのか?」
私の辛辣な言葉に、微苦笑を浮かべながらも、しかしテオドールは明らかに揺るがぬ、確固とした物言いで云う。
「うん、サロンで入選するって意味では確かに難しいだろうね。だけど、僕にはね、目指している理想の絵があるんだ。ナナにここに来て貰ったのはそれを確かめる意味もあってね」
「これは……妹か?」
書き殴ったような絵が並ぶ中、唯一写実的に描かれたそれを見つけた私は、その奇妙な絵に首を傾げながら問う。
飾り気のない薄明を背景に、キャンパスに描かれている少年、いや男装した少女だろう、トルコ帽を被り、飾り紐のついた黒いチョッキ、房飾りの付いた衣装を纏い、その腰の当たりには護身用と思しき剣が金色に輝いている。
如何にも“西洋人の想像した東洋人”といったふうで、文化的考証の正確さとはまるで無縁な代物の絵だが……何故か私の脳裏に引っかかるものがある。
「ああ、その絵ね。画商のリュエルさんの個人的内覧会に出させて貰って、僕の絵にしては珍しく評判が良かったんだけど、ちょっとした訳ありで官展には出せずじまいでね」
テオドールの云うリュエルとは、デュラン・リュエルのことだと私が知ったのはずっと先のことだ。
リュエルは世間の評価を得られない画家たちの作品をあくまでも買い続け、彼らを支援した画商だ。
『真の画商は同時に見識のある絵画愛好家であらねばならない。必要とあれば利益を犠牲にする用意があり、投機家の企みに加担するよりも、彼らと闘う方を好むのだ』
そう書き記したこの男は、後に印象派の展覧会や売り立てのための会場を提供し、新しい時代の絵画の誕生に立ち会うことになるが、それはいま暫し未来の時制に位置すべきことだ。
暫し絵を凝視していた私は、諦めたように大きく首を振ると、唐突に思い至ったもう一つの疑問を口にする。
「で、何故この絵は描きかけで止めているんだ?」
何故だか私にはそれがすぐに分かった。
「……凄いね。その絵が描きかけだということが分かるなんて」
率直な驚きの言葉がテオドールの口から零れる。
「なんとか拝み倒してジュヌヴィエーヴにこの服を着て貰ったのはいいんだけど、ほんのしばらくこの格好でモデルをして貰ったら、アイツ、堪えきれなくなって怒鳴りだしちゃってね。それ以来、ずっとそのままと云うわけ。あくまで内輪の内覧会に出展するならいいんだけれど、まさか未完成の作品を売り立てに出すわけにはいかないし」
ばつが悪そうに美しい亜麻色の髪をくしゃくしゃにかきながら、ぼやくように云う。
「なるほど『兄さんの絵のモデルなんて金輪際御免です!』ってか? で、その『ほんのしばらく』ってのはどれくらいだ? お前の絵のモデルをやることになる人間としては、聞く権利が当然あると思うんだがな」
私の毒の籠もりすぎた物云いに、テオドールは曖昧に、しかしこの青年らしく馬鹿正直に応えてしまう。
「うん。いや、ほんとにたいしたことはないんだ。アイツは少し短気なところがあるからね。そう、たいしたことはないんだよ、だって……ほんの一週間ほど毎日十時間だけくらい、この格好でポーズを決めて貰っていただけなんだから」
「……………………」私は演技ではなく本気で大きな溜息を吐き出すと、くるりとテオドールに背中を向けた。
「ちょ、ちょっと待った! いや、これには理由があるんだ。僕としてはもっとゆったりと、ジュヌヴィエーヴの負担にならないように描きたかったんだけれど、この妹が手にしている剣がね……って、それはとりあえず関係ないから本題に戻ろう。そう、今日この部屋にわざわざ来て貰ったのは、君に見て貰いたい絵があったからなんだ!」
強引に話を自己完結させるように云うと、ほら、これだよこれとわざとらしく大声で呟きながら、備え付けの机の引き出しを開けてみせた。
このまま部屋を出ていこうかと真剣に考えていた私は、テオドールが大事そうに机から出した物の正体に気付き……表情にこそ現さなかったものの、一瞬息を呑む。
テオドールが取り出したのは、いずれも日本の絵画だった。
裸の男が組み合っている素描は葛飾北斎の《北斎漫画》だ。巨大な波の絵は同じく北斎の《神奈川沖波浦》、赤富士が描かれいるのは云わずと知れた《富嶽三十六景》。隅田川に浮かぶ木製の橋と月を描いたのは歌川広重の《両国之宵月》で、そして見覚えのある懐かしい風景が描かれているのは同じく広重の《名所江戸百景》や《東海道五十三次》。それ以外にも筆者名までは知らないが、江戸の街角で見かけた絵が幾つもある。
但し全てがオリジナルというわけでもないようだ。明らかに原版の版画とは異なる、油絵で写したようなものが半数以上を占めている。だが油絵で再現されたそれらの絵画は、浮世絵の美しい多色刷りを見事に再現している。
幕府隠密方の隠れ里で幼き日から殺人技術だけを叩き込まれたとはいえ、私はまったく世間について、江戸の一般庶民の暮らしについて知らないわけではない。それどころか、一般の民以上に詳しく知っていると云ってもいい。市井の暮らしぶりを把握しておらねば、その地に溶け込む《草》になどなりえないからだ。それは洋の東西、異なるところはない。
「どう? 驚いた? ということはやっぱりナナは日本から来たんだ!」
テオドールは本当に嬉しそうに云うが、その鋭い観察眼の方が、そこにあった絵画以上にナナを驚かす。どこからどう見ても、鋭そうには見えないのこの青年は、時として容易にナナの心の裡を見抜く。幼き頃からの血で血を洗うような修行の末に、頬の括約筋の一つすらも自在に操れると自負する彼女としては、この青年が如何にして自分の感情を読みとっているか、いささかの薄気味悪ささえ感じてしまう。
まるでサトリの化け物を前に心を裸にされ観察されているような気がして、私はらしくもなく、胸の前で両手を合わすような姿勢になってしまう。
そんな自分に戸惑いを覚えながらも、いつものように素っ気無く言い捨てる。
「浮世絵のどこがいいんだ? 国では専ら女子供の楽しむものだぜ」
ま、一部特殊な代物は男どもが楽しんで見ているがな、と私は自分から口にしておきながら不愉快を露わに眉を跳ね上げた。
「そうだね」テオは両腕を組んで、少し考え込んでから最大公約数的な回答を導きだしてみる。「僕は言葉が上手くないんでありきたりな表現をすると、まずは左右のバランスを敢えて崩してモチーフを画面の一方に片寄らせたり、対象の一部分だけを焦点に据えた構図の思いがけなさだよね。それと流麗な輪郭線による形態の把握と陰影のない鮮明多彩な色彩という画面効果の独創性。後はそれらを達成する絵画的手段が極めて単純なところかな?」
「……褒めているんだか、貶しているんだか、よく分からない物言いだな」
私は微妙に首をかしげてみせる。浮世絵をそんな風に見たことなど一度たりともないし、恐らく江戸の庶民もそうだろう。それどころか浮世絵画家当人ですら、そんな技法を意識して用いているとは思えない。
「とんでもない!」
テオドールは大袈裟な手振りで、私の疑念を晴らそうとする。
「そう取られたんだったら、それは僕の言葉が足りないんだと思う。勿論日本の浮世絵がこれまでの西洋の絵画を越えるためにそういった斬新な技法を産み出したわけじゃないことくらい知っているよ。でもね、一つの閉ざされた世界が究めたその絵画が、行き詰まり袋小路に陥った西洋の絵画を変えてくれる。僕はそう信じているし、そう思っているのは僕だけじゃないんだ。
そう、大切なことを忘れていたから付け加えると、これまでのヨーロッパの絵画のルールから云えば、絵画というのは日常世界とは別の独立した一つの小さな宇宙だったんだ。つまり絵画のモチーフは画面の中だけで完結し、それこそが調和のある美だと考えられていたんだね。でも、それがただ一つの解でないことを日本の浮世絵は教えてくれた。それだけでも僕たちにとっては革命的なことだったんだよ。これをモネ先生は『影によって存在を、部分によって全体を暗示する』と表現しているんだけど……」
少年のような無邪気さで語り続けるテオドールに辟易として、私は強引に話の流れに割り込む。
「一つの世界を一枚の絵画の中に凝縮する。いや閉じ込めるといった方がこの場合は正解か。それは随分と傲慢な考え方だな」
私の口をついて出たその想いは絵画に限った話だけではない。私がこの国に辿り着いたときから感じている、西洋の人々の物の考え方そのものに対するものだ。
世界の全てを、自然も、動物も全てを人間のコントロールの下に収めなければならぬ。それが神に創造されし我々の使命だ。そんな西洋人たちの思想は半ば強迫観念の域にまで達している。それがこの数年、彼らを観察し続けてきた私の結論であり、彼らの思想と東洋人の思想が決して相容れることはあるまいし、それがいつの日にか避けがたい破局を生むだろうという確かな予感だ。
だけど私の容赦ない糾弾に、テオドールは我が意を得たりとばかり大きく頷いてみせる。
「うん、そうだね。それは僕も確かにその通りだと思う。自然を本当にありのまま描き出すことなんて出来るわけがないし、たとえそれを実現することができたとしても、それなら写真機と絵画の違いはどこにあるのか、ということになってしまうよね。
無論それを解決するためなんて意図はないんだろうけれど、日本の浮世絵はこの問題を画面の世界はそれだけで完結せず、更に画面の外にも拡がっているということを暗示することによって解決している。これを取り入れようとした実験的な試みがもう幾つもあるんだ。たとえばね」
テオドールは歴史画や写実画全盛のパリ美術界においても、ここ数年浮世絵の技法を取り入れようとしている画家たちが着実に増えていることを具体例を挙げながら熱心に語り始めるが、今度こそ私の興味は、そして警戒心は別のところに移行している。
「しかし……どこでこんな品を手に入れている?」
予想以上に豊富な日本の美術品。考えにくいことだが《ヤツ》が、他にも仲間を引き連れ、情報収集と資金調達を兼ねて日本から持ち込んだ品物を売り捌いている可能性も考慮しなければならない。
「ああ、これはね、街の百貨店から仕入れているんだ。ここの店主はかなり早い時期から、日本から輸入した漆器をくるんでいる浮世絵に注目していてね、百貨店の中の特設コーナーで日本の美術品や工芸品を以前から扱っているんだ。最初は物珍しさの人寄せで大売り出しの時だけ開設していたんだけど、今ではすっかり人気の常設展だよ」
でも、最近は困ったことも起きていてね、とこの青年にしては珍しい悲しげな表情が浮かぶ。「最初は比較的安価だったので僕みたいなお金のない人間でも比較的簡単に手に入れることはできたんだけど、この間の万博以来、一気に価格が沸騰してしまって、今やすっかり高嶺の花というわけ」
テオの云う《万博》とはこれより三年前の一八六七年に開かれたパリ万国博覧会のことだ。ここで大人気となった日本の物品は、閉幕後全て売り立てられ一般に流失した結果、更なる人気を博することとなった。それまで一部の愛好家にのみ知られていた日本の文化と美術が広い範囲のパリ市民に知れ渡る大きなきっかけがこの万博だ。
「そうそう、万博には君の国の……そう! 確か、プリンス徳川だっけ? 参加されていたのは知っている? 僕は『フィガロ』で読んだだけなんだけど、その後に皇帝陛下にもお会いになったとか」
「……プリンスじゃない。前将軍様の弟君様だ」
無邪気にそう云うテオドールに、私は渋い顔で、素っ気無く訂正する。
「へえ、そうなんだ」
さほど関心もなかったのだろう、そう軽く受け流したテオドールが、ふと思案顔になったかと思うと、ポンと一つ大きく手を叩く。「そうだ、実際に行ってみようか?」
「なっ?」思いがけぬところで昭武様の名が出たことに気を囚われていた私は、テオドールの言葉の意味を図りかね聞き返す。
「いや、だから、日本の製品が展示されている百貨店に、だよ。大丈夫! 百貨店なら買い物をしなくても誰でも自由に出入りすることが出来るからね」
テオドールは筆だこのできた、しかし柔らかくて暖かい右手でナナの手首を掴むと、そのまま壁に掛かった外出用の上着を取る。
「ちょ、ちょっと待て! そういうことを云っているんじゃない!」
「でも折角百貨店に行くんだからナナの服も買おう。何時までもジュヌヴィエーヴのお古を着ていて貰うのも悪いしね。あ、心配は無用だよ、お金のことなら。リュエルさんがこの間絵を買ってくれたばかりだから少しは懐に余裕があるんだ」
「いいから人の話を少しは聴けっ!」
テオドールの腕に曳かれるままに、ナナはアパルトマンを飛び出す羽目となった。
教会のポーチのように天井の高い正面玄関を抜けると、光のシャワーの洗礼が待ち受けていた。
一階から三階までの吹き抜けとなった正面ホールは、全面ガラス張りのお陰で戸外の光を一杯に凝縮し、まさに光の神殿と化している。天井からは巨大なシャンデリアが吊り下げられ、来場者の度肝を抜く。店のボーイは明るいグリーンの上下に黄色と赤の縞のチョッキを着て、慇懃な態度で客たちを迎え入れる。
ノートルダムが神に捧げる神殿ならば、さしずめここは消費に捧げるための殿堂だ。
世界最初のデパート《ボン・マルシェ》が天才的商人アリスティッド・ブシコーにより創業されたのは僅か十八年前のことだが、この消費の殿堂はあっと言う間にパリジャンの心を掴んで放さぬ存在となっていた。
ルーヴルを左翼に、パレ・ロワイヤルを右翼に従えるような場所にあるこの百貨店も、戦争の最中であるにもかかわらず、凄まじいばかりの熱気を醸し出している。
ガラス張りの中庭と云った雰囲気の正面ホールから真っ直ぐ入ったところにある広いギャラリーは、人だかりを演出すべく裾飾りや手袋、絹地が捨て値同然で置かれていた。陳列棚の周りでは、殺到した女性たちが激しい奪い合いを演じている。
その争奪戦を辛うじて制し終えた者、人の壁に弾き飛ばされた者は正面左側のギャラリーのリネン類やルーアン織り売り場、右側の小間物、メリヤス、ラシャ、毛織物の売り場に矛先を向け、突進していく。
ベルベットで内装したエレベーターで昇った二階にあるのは、既製品、ランジェリー、ショール、レースの売り場だ。眩いばかりのディスプレイに展示された商品は、どれも百貨店の周囲に点在する小売商などと較べれば圧倒的な量と安さを備え、殺到した客は先を争うようにそれらを買っていく。
押し合いへし合いする女性たちの息と熱気、それに生地の匂いが入り交じった空気で、目眩を起こし、壁際の備え付けの長椅子に横たわる婦人が続出するが、しかし彼女たちは消費の殿堂の使徒としての吶喊をやめようとしない。
幼き頃から殺人技術のみを叩き込まれ、屍山血河の中を渡り歩いてきた筈のナナが、戦闘力の欠片もないはずの普通の女性たちの迸る情動に圧倒され、言葉もでない。
目前の光景がナナには信じられず、また信じたくもなかった。仮にも今この国は……
「と、特売の時は凄い人だと聞いてはいたけれど、こ、これは……噂以上だね」
彼女をここに誘った筈の男の呆然とした呟きが、ようやくナナにいつもの冷静さを取り戻させる。息絶え絶えになって、ようやくひしめく群衆を抜け出した二人は、階段付近で荒い息をついている。
「……ここにやって来ている連中は一体何を考えているんだ?」
私にはここに集う人々の心の裡が心底理解できなかった。それどころか、信じがたいことに幾分かの恐ろしささえ感じていた。
仮にもこの国は戦争の只中に突入しているのだ。しかも敵は同じ国に住まう者ではない。自分たちとは異なる顔を持ち、異なる土地で育ち、異なる言語を話す人々なのだ。
もし戦争に敗れたとき、彼らの身に何が降りかかるか、想像に難くないはずだ。にもかかわらず彼らはこの日常を、面白おかしく、のほほんと過ごしている。
いや……私の脳裏に一つの恐ろしい思案が持ち上がる。
経緯と結果は別として、私のかつての仲間たちは命を賭けて祖国を守ろうとし、異郷の地でたった一人戦い続けてきた。だけど、それらは全て彼女らとそれを立案した人々だけの戦いではなかったのか、と。あれほど黒船を畏れた江戸の、いや国中の人々も、結局は異国との対立など己の日常とは遠くかけ離れた異世界での出来事だと思っていたのではないか、と。
そう、彼らを守らんが為の《追儺衆》の戦いはただの一人芝居に過ぎなかったのではないか、と。だとしたら……追儺衆はなんと虚しい殺戮を続けてきたのだろう?
「このデパートと云うのはね、きっと女性に捧げるための神殿なんだと思う」
テオドールの言葉が先程の自分の質問に対する答えだと云うことをナナが理解するのに、暫し時間を要してしまう。
「この国の女性たちはやっと手に入れたんだよ、誰もがその店の中では王妃となれる地位をね。それだけの余裕が社会に生まれるのに大革命以来百年近くも掛かってしまった。しかも血と惨劇にまみれた百年をね。だけど、あの時一人一人の市民が立ち上がったからこそ、いまこの夢のような時間と空間がここには拡がっているんだと思う」
その恩典を世界中の人々が受けられるのがいつの日になるか、残念ながら僕には分からないけれどね、と穏やかだが少し寂しげな笑みを浮かべながら云うテオドールの言葉の意味の半分も、ナナには理解できない。ただ少女が確信したのは、この青年はとんでもなく現状認識に欠けると云うことだけだ。
二階から三階にかけての中央大階段の踊り場に、目的である日本製品売り場は設置されていた。定番の磁器や陶器のみならず、花鳥の文様入りの着物の切れ地、古い青銅の仏像、貝の象嵌が施された蒔絵、漆塗りの製品、六枚組の琳派の屏風、果てはその姿の美しさから一目で大慶直胤作と分かる刀剣まで売り立てられている。
とりわけ人気の程が伺えたのは、ナナの眼からすればなんでもない、江戸の町に行けば何処にでも転がっているような浮世絵版画や素描だ。壁に掛けられたそれらには全て《売約済》の札が貼られている。だがその中の一枚、剥がし忘れたらしい値札を見て……ナナの切れ長の眼が円くなってしまう。
傍らのテオドールはと云えば、お預けを喰らった子犬のように、目を輝かせて浮世絵を見つめている。この男に尻尾がついていたならば、きっと千切れるほど強くその尾を振っていることだろう。
……わからない。戦争の最中、買物に夢中になる女たちも、たかが紙切れ一枚に大枚を叩く芸術家とか云う奴らのことも。
ナナは余計な思考をすることを放棄し、目前の対処すべき事態だけに神経を巡らす。
とりあえず《ヤツ》が本国から持ち込んだ品を流している訳でもなく、製品の出所からヤツの隠れ家を探すという目論見も潰えた。とすれば、もうこんなところに用はない。
そのまま踵を返そうとするナナの傷だらけの手を、穏やかな温もりが包む。振り解こうとして、テオドールとまともに視線を合わせてしまう。
「約束しただろう、今日はナナの新しい服を買うんだって」
何の衒いもない笑顔を浮かべて云う青年に、ナナは力無く頷くことしかできなかった。
「……で、これは一体なんなんだ?」
怒りを噛み殺したような、というより呆れ返って言葉が出ない中で無理やり搾り出したような声でナナがテオドールを問い詰める。
「え? 何なのって云われても、今日付き合ってくれたお礼がわりの服だけど?」
テオドールは彼の選んだ青い服を着たナナに、不思議そうに問い返す
「画家の卵だって割に、貴様の美的感覚は完全に間違っていないか?」その服は谷間が見えてしまうほど胸元まで深く切れ込みが入っていた。大きな裾はネイビーブルー、スカーフはボルドーに染め上げられている。
「そんなことはないと思うんだけれど? イギリスのウインター・ハルターなんてこの服をアルバート王子に着させて肖像画を描かせているし。それに……」
一七世紀来の英国海軍はこれを制服にしていることだし、とテオドールは全然言い訳にならない言い訳をする。
「それにしたって……この破廉恥な服はないだろうが!」
抗議の声を上げながらも……ナナの胸の裡を奇妙な高揚感が充たしている。
正体を掴みかねるその不思議な感情への苛立ちをぶつけるように、なおもテオドールを責め立てる。「それとも何か? 貴様は私がまだ子供だって云いたいのか!?」
何をどう間違ったのかは知らないが、それともそのような《特殊な需要》に答える為の服なのか、この服を百貨店に卸した業者は本来子供向けである筈のその服を、大人用のサイズで納入していたのだ。そう、いまナナが着ている服は俗に《セーラー服》と呼ばれていた。
「兄さん! こんなところで貴方は一体何をしているんですか!?」
ナナに詰め寄られ、じりじりと後退していたテオドールの身体が、その叫びで硬直する。
振り返った視線の先には、パリの守護聖女と同じ名前を持つ少女が仁王立ちしていた。
「お、お前の方こそなんでここに!?」
「何を云っているんですか! 特売期間の間だけここで売り子をするって予め云っておいたじゃないですか! そうしないと……って、なんでナナと兄さんが一緒に百貨店に来ているんです!?」
火が出るような勢いで、亜麻色の髪の少女は兄を責め立てる。
「い、いや、何って云われてもナナに新しい服を用意しようと思って……」
「身元不明な上に無一文の居候に、服をプレゼントするなんて随分お甘いことですね、兄さん。妹である私にさえ買ってくれたことはないのに」機関銃で撃ち出されるように、少女の言葉は次々と兄の身体へと突き刺さる。
「でも、いつまでもジュヌヴィエーヴのお古を着て貰っている訳にはいかないだろ? だいたいそれに……」
追い詰められた挙句、兄は妹に対しては決して云ってはならないと骨身に染みている筈のその言葉を吐いてしまう。「大体背丈が一緒だからピッタリだと思っていたら、どうやらお前の服じゃ、彼女、胸回りが苦しいみたいで……」
その言葉が兄の口から放たれた瞬間、凄まじい周囲の熱気が彼女の付近だけ凍りつく。
「……兄さん、いま何か仰いましたか?」
「……い、いや、今の発言は僕が悪かった。済まなかった、赦してくれ」
永久氷土の欠片のような悪寒が青年の背中を駆け下っていく。ここが人目のある百貨店でなければ、この兄は妹に対して土下座までしていたかもしれない。
「で、でもお前にプレゼントしたことがないってことはないだろう? 去年のお前の誕生日には確かボン・マルシェで買った服を贈ったじゃないか!」
ナナの手前と云うこともあるのだろう。テオドールは何とか反転攻勢に出ようとするが、それも一蹴される。
「兄さんは、あんな趣味の悪い服を着て、私が町中の笑いものになってもいいって云うんですか!? 大体この間も酷かったけれど、今日のは更に輪を掛けて……」
兄が選んだのであろう、凄まじく趣味の悪い服を纏ったナナの姿を見て、ジュヌヴィエーヴは頭を抱え込みそうになる。「画家としてはあるまじき兄さんの決定的な服装に関する美的センスの欠落を今更言い立てても仕方ありません。ですから服選びは私に任せて下さい!」
「えっ、いいのか?」思いもかけぬ妹の寛容な言葉に、テオドールは露骨に驚きの声を上げる。
「兄さんはわたしのことをなんだと思っているんですか!? ……まあ、今日のところは許して差し上げます。それに正直に云ったらどうなんです? ナナをだしにして、兄さんは本当はギャラリーでやっている絵画展を見に行きたいのでしょう?」
「……あっ! うん、そうか。そう云えば今日が最終日だったね」
この頃には既に百貨店は中産階級の主婦たちの新たな社交の場としての地位を揺るぎないものにしていた。百貨店内には女性が無料でくつろげる休憩所や読書室、無料のシロップなどを振る舞うビュッフェまで設けられていたからだ。
贅を尽くした装飾の施された壮麗なギャラリーも客寄せの一環だ。これまで美術館や敷居の高い貴族のサロンでしか見られなかった絵画は、こうして少しずつ庶民階級にも浸透していくことになるのだ。
「……そうか、そういうことか」その言葉を聞いた途端、ナナの胸の内を先程来騒がせていた得体の知れぬ高揚感が急速に薄れ拡散していった。手を伸ばせばすぐそこにある気がした青年との距離が、急速に遠ざかっていく。
「い、いや、そんなつもりは本当にないんだ、ナナ!」
「この上の階でしょ、ギャラリーがあるのは? ナナの服は私が選んでおくから、兄さんはとっとと行って来たらどうなの? どうせ真昼間から男一人で百貨店に入るのが恥ずかしかっただけなんでしょう?」
兄に弁解の暇を与えぬように捲し立てると、妹はご丁寧に兄の背中を上の階へ向けて押しやる。それでもなお躊躇っていたテオドールだったが「貴様より妹の方が多少は服のセンスはマシなんだろう?」というナナの言葉に追い立てられるように、階上へと上がっていった。「ごめん、ナナ。この埋め合わせはきっとするから」と云う言葉を残して。
「さてと」
兄の背中が人込みに紛れ消えていったのを確認すると、ジュヌヴィエーヴは姿勢を、いやその気配を改める。バーゲン品を求めて右往左往する群衆の波に揉まれながらも、慎重にナナとの距離をとって対峙する。
ジュヌヴィエーヴとは、ローマ帝国弱体化に乗じてガリアの中心たるパリに殺到し、略奪、殺戮、放火の残忍非道の限りを尽くしたフン族を撃退した聖女の名だ。ただの羊飼いの娘であった少女は、しかし長期の包囲による飢餓と恐怖を前に陥落寸前に陥ったパリにあって兵士と市民を叱咤激励し、最終的な勝利に導いた不滅の功績によりパリの守護聖女として永劫にその名を残すこととなったのだ。
「…………貴女、一体何者?」ジュヌヴィエーヴの核心そのものの問いは、囁くような声であるにもかかわらず、群衆のざわめきを掻い潜りナナの耳元に明瞭に響く。
「ほお、その質問に思い至った貴様がそれを改めて訊くか」
面白そうに、しかし挑発的な視線を交えてナナが問い返す。
「何が目的で兄さんに近づいたの?」
ジュヌヴィエーヴは全身を逆立てた猫のようにナナに挑み掛かる。
「目的なんてないさ。怪我をした上に丁度宿無しで文無しだったからな、潜り込ませてもらっただけだ」
どこまでも素っ気無く云い捨てるナナを、抑え切れぬ怒りの炎を宿した瞳が射抜く。
「だったら早く出ていって頂戴! アンタみたいな血の臭いが骨の髄まで染み込んでいるような人間が兄さんの傍にいるなんて許されることではないんです!」
斬りつけるように、怒りに我を忘れたようにジュヌヴィエーヴは責め立てるが、その激昂ぶりとは裏腹に、ナナとの間の距離は巧妙に一定距離を保っている。
「なるほど、己と敵との力量の差をある程度把握できるだけの力はあるようだな。接近戦では到底敵わぬことを読み取ったか。そして私が決して手を出せぬであろうこの場で、最初から機会を待っていたわけだ」
ナナの言葉には刺はない。素直に感心するような響きだけがある。
「それでも……」ジュヌヴィエーヴの視界から、ナナの姿が忽然と消えた。「甘い」
人垣をそのまま通り抜けてくる!?
そう錯覚させるほど直進的な動きで、だが見事な身体捌きで行く手を遮る人垣には全く触れることなく、ナナは一足飛びで彼女の懐へと潜り込んでくる。
しかしその動揺を一瞬で押さえ込み、高らかにジュヌヴィエーヴは凱歌をあげる。
「甘いのは貴女の方よ!」
その短い叫びとともに、ジュヌヴィエーヴの口から、この世ならざる発声が溢れ出る。それはこの世ならざる理を発動させる、この世ならざる力を持った言葉だ。
「!?」必殺の間合いに入る寸前で、ナナの足はその場に串刺しにされたように止まる。
足の自由が完全に奪われていた。辛うじて意のままに動く視線をナナが左右に走らせると、壁と床に奇妙な文様が描かれたカードが貼り付けてある。
「……ほお、なかなか面白い奇術を見せてくれる」デパートの床に張り付けられた己が足を、まるで他人事のように眺めながら、ナナは心底感心したとばかりに呟く。
「なるほど、お前さんが以前一言だけ漏らした《先生》っていうのは魔術師のことだったわけだ。で、アイツは……お前さんの正体にも気づいていないわけか?」
うっかり一言だけ漏らしてしまった言葉を記憶されていたことに驚きながらも、ジュヌヴィエーヴは公然と胸を反らしながら言い放つ。
「あの鈍感な兄さんが気が付く筈もないでしょう? 貴女から漂う濃厚な死の香りにさえ気付かないんですから。そんな節穴の眼をしておいて何が画家志望ですか! それに私の能力なんて化け物じみた貴女に較べればささやかなものです、同類にされては困ります」
「化け物、ね。確かにそいつは否定しないがな」
ジュヌヴィエーヴの言い分を、どこまでも柳に風とばかり受け止めながら、ナナは何か考え込むようにして云う。「この術は我らの云う《影縫い》と同じ流れを汲む技か。洋の東西を問わず奇術師の行き着く先は変わらぬというわけだな」
「き、奇術ですって!? それは私に対するだけでなく、先生に対する侮辱と見なします! さあ、生きて戻りたかったら謝罪と約束をなさい! 先生に対する非礼を詫びることと、そして兄さんにこれ以上近づかないと云うことを!」
鬼気迫る勢いで捲し立てる少女の姿をしばし面白そうに観察していたナナは、含みのある笑顔を浮かべながら、しかし静かに告げる。
「なるほど、随分と心持ちの分かりやすい奴だな。邪魔者は殺してでも、愛しい愛しい兄さんを独占していたいってわけか?」
「なっ!?」
少女の顔が一瞬で真っ赤に染まり、我を忘れる。
そしてそんな隙をナナが見逃す筈もない。しなやかに指を走らせたナナは、虚空に何らかの寓意を篭めた図形を描く。すると次の瞬間にはジュヌヴィエーヴの張り巡らせた結界はズタズタに寸断されてしまっていた。
「う、嘘っ!」目前で起こった信じがたい事態に、呆然とジュヌヴィエーヴが洩らす間に、ナナは客の人垣をすり抜けるようにして懐に飛び込んできている。
少女が我に返ったときには、既にナナの感情のない瞳が目と鼻の先にあった。
《こ、殺される!? 確実に》
ジュヌヴィエーヴは理性ではなく、本能でそれを悟る。
ナナが僅かばかりに解放した殺気に当てられ、膝の震えが止まらない。相手は徒手空拳であるにもかかわらず、自分は間違いなくこの女に殺される。しかも完膚無きまでに切り刻み尽まれ、魂までもが蹂躙されてしまうに違いない。
厭だ! こんなところで死にたくない。私はまだ兄さんに……!
「に、兄さん! た、たす……」
「どうしたんだ、大声なんて上げて?」
不思議なものを見るような顔つきで、何事もなかったように戻ってきたテオドールが妹の顔をまじまじと覗き込む。
「……な、なんでもありません! 兄さんの趣味の悪さと甲斐性なしをナナと責めていたところに兄さんが突然戻ってきたから驚いただけです! それよりどうしたんです? 一通り見てきたにしては随分と早いお帰りのようですけれど?」
何かに追い立てられるかのように捲し立てる妹に、少し小首を傾げながらテオドールは二人に問う。「ところでもうどの服にするのかは、決めたのかい?」
「そ、それは……」
思わず口籠もるジュヌヴィエーヴに、横から思わぬ助け船が入る。
「さっきの服に決めたよ。趣味が悪かろうが、お前さんの選んでくれた服だからな」ナナの思わぬ言葉に、テオドールは少し恥ずかしげな笑顔を浮かべ、改めて二人に提案する。
「それならどうだい? 展覧会は三人で見に行かないか? 今回の展示は身近な風景を描いた親しみのある絵が並んでいたから、きっと二人も気に入ってくれると思うんだ!」
無邪気にそう云うが早いか、二人の小さな手をその両の手に握ったテオドールは、再びギャラリーの方へと歩き出した。
「わ、わたしはもう子供じゃありません!」
震える声で何とかそれだけ云ってジュヌヴィエーヴは強引に兄の手を振り解く。そして未だ止まらぬ震えを抑えるように胸の当たりで手を組み、その場にしゃがみこんでしまう。
「ジュ、ジュヌヴィエーヴ!?」
妹の異常に慌てて駆け寄ろうとするテオドールを制するように、ナナが前へと進み出た。そしてしゃがみ込んだ少女に近づくと、その手を掴み抱き寄せるようにして……その耳元で詠うように囁く。「奇術の種は直接精神に働きかける文様と言葉を利用しての暗示か。なかなか面白かったぜ。暇なら何時でもお前さんの相手になってやるよ」
ナナはそれだけ云うと、強引にジュヌヴィエーヴを立たせ、兄の下に向けて、その背中を押し出した。
この日、八月六日。パリは未だ平穏保っている。だがアルザスとロレーヌからプロイセンに侵入したフランス帝国軍は、フレーシュヴィラ・ヴェルトの戦いで最初の敗北を喫する。
そしてこの敗北以降、フランス帝国軍の運命はまるで坂を転がり墜ちるように……。
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