『第一章』アパルトマン
深い深い水底から浮上するときのように、私の意識は急速に覚醒へと近づいていく。
稼働する全知覚を総動員し、己が現在置かれている状況の把握に務める。堅いがちゃんとしたベットの上。身に纏っているのは薄いシミューズ一枚。吹き飛ばされたときに着ていた服……ではない。
部屋の中にある心音は、自分の他にもう一つ。緩やかな脈動、規則正しい呼吸音。この仮想敵はそれが擬態でなければ寝入っているようだ。
続いて薄い毛布の下での己の身体を、一箇の物のように隅々まで調べ尽くす。
落下の衝撃からか全身、特に腰から足にかけての打撲が酷い。頭や内臓に異常がないだけ運が良かったのだろう。左足が最も痛んでいるが、骨折はしていない。ただ左足首はひどい捻挫のようでしばらくは足を引きずることになりそうだ。それでも既に一通りの傷の手当てはされている。丁寧に巻かれた包帯、そしてこの匂いは――薬草が適切に患部に当てられているようだ。
部屋の中は黴の饐えた臭いが微かにするものの、同時に枕元からは少し甘いが爽やかな、ごく弱い植物性の芳香が漂ってくる。どうやら黄水仙が花瓶に生けられているらしい。
瞼ごしに感じる周囲は非常に暗い。トタン葺らしい屋根を伝わって室内は熱せられているが、どうやら昼間の残照らしい。かなり小さいと思われる窓側から差し込む光源の強さで今が夜であること、そしてどうやらここが屋根裏部屋らしいとの判断を下す。
五感を更に部屋の外へと広げる。階下には更に一人。部屋の中を忙しげに歩き回っているが、それ以外には建物内にこれといった動きはない。
外からはセーヌ川の穏やかなせせらぎ、そして界隈の喧噪が聞こえてくる。さほど大聖堂から離れていない場所であろうと目安をつける。であれば、ノートルダムの北側街区といったところか。
あの決定的な瞬間も、手応えはなかった。
それどころか最後の瞬間には反撃にまで転じられた。《奴》は、あの鬼すら狩る追儺衆最凶の刺客は、まず間違いなく生きている。だが私があの場で一方的に倒されていたのならば、今こうして生きていられるわけがない。ならば奴もそれなりに手傷を負った筈だ。
だとすれば……
「良かった、ようやく気が付かれたんですね?」
「!?」
虚を突かれ思わず見開いてしまった私の眼前にあったのは若い男の顔。
耳を澄ますでもなく呼吸音が聞こえてきそうなほどの至近距離。
吸い込まれそうな、限りなく混じりけのない蒼い瞳が私を心配そうに覗き込んでいる。
信じられない。ここまで至近距離に接近されるまで相手の気配に気付かないなんて。
「ご、ごめんなさい。驚かせてしまったようで」
あるまじきことに一瞬凍りついてしまった私に、逆に青年は動揺したらしい。火鉢に手でも触れたかのように、慌てて私から遠ざかる。
全体として云えば、子犬のような雰囲気とでも云うのだろうか。
明るい栗色の髪に、穏やかな、少し垂れ眼がちな瞳に埋まるのは澄んだ蒼い宝玉。人懐っこそうな顔に浮かべているのは、どうやら安堵の表情らしい。
そう、この男だけならば……傷を負い、身に寸鉄一つ帯びていない今の私でも一瞬で命を絶ち切ることができるだろう。
「身体の方は大丈夫ですか? 二日も目を覚まされないので心配していたんですよ」
「………………」
二日か。思った以上に衝撃は大きかったようだ。流石は幕府開闢以来最強を謳われるだけのことはある。真正面から奴と戦って勝てるとは流石の私も断言しきれない。
「あぁっ、そのぉ、どうしよう、困ったな……」
どうやら私の沈黙を別の意味に取ったようだ。青年は目に見えておどおどし始める。
「どうやら東洋の方のようですけれど……私の言葉は分かりますか?」
私は首を振る動作をしようとして、思いとどまる。これから死にゆくこととなる者に対して嘘をつく必要なぞ更々あるまい。それより現状の把握、そして情報収拾を速やかに完了させる必要がある。
「大丈夫です、分かりますよ」そうフランス語で軽く云って、私はベットから上半身を起こそうとするが、青年が慌てて手で制する。
「気が付かれたばかりなんですから、無理はしない方がいい。何か欲しい物があれば云って下さい。ああ、そうだ。咽は渇いていませんか?」
そう云って青年は枕元の水差しから水を注ぎ、私に差し出す。石灰分の混じったパリの水はとても飲めた物ではないけれど、今はそんな贅沢なことを云っていられる場合じゃない。一息で飲み干して咽を潤すと、全身に溜まっていたこわばりがやっと解けていくのを感じる。
「ああ、良かった。流石に言葉が通じなかったらどうしようかと思いました」
何が嬉しいのか、青年は本当に幸せそうな表情を浮かべる。
「私は……どうして……ここに?」敢えて曖昧な言葉で探りを入れる。
「貴女が大聖堂裏で倒れられているところを、偶然僕が通りかかったんです。本当は市民病院に運ぼうと思ったのですけど、あの日はあの状況でしたから。失礼かと思いましたけれども、病院よりも近いこのアパルトマンに運ばせて頂いたんです。幸い妹が一通りの応急処置の仕方を知っていましたから」
なるほど、やはりあの戦闘の場からさほど隔たった場所にいるわけではないようだ。そしてそれ以上に重要なのは……
「それで倒れていたのは私だけでしたか?」
「えっ? あ、はい、お嬢さんだけでしたけれど? お連れの方がいらしたんですか?」青年の表情に浮かぶのは紛れもない困惑。隠し事があるようには見えないが、私をここに担ぎ込んだのは単なる善意か、それとも……
「良かったら名前を聞かせて貰えませんか? ほら、名前を教えて貰わないと何かと不便ですし。僕の名前はテオドール・ヴァルノ」
これから死に逝く者に対してならば、国に戻れば死神を意味するものでしかない、その名を明かしても構うまい。
「私は……」それでも一瞬躊躇ってから、私は仮初めの、その名を告げる。
「……《ナナ》。それが私の名前」
「それは可愛らしい名前ですね、って、えっ!?」
軽い目眩でも起こしたふうを装って、私は青年の身体に垂れかかる。
もうこの男から聞き出せる情報はあるまい。ならば……
「だ、大丈夫ですか? しっかりして下さい!」
青年の狼狽の叫びを身体ごしに感じながら、私はその腕を青年の首に回す。
「ちょ、ちょっとナナさん!?」
「……ナナでいい」
青年の最期となる筈の言葉に素っ気なく答え、私は男の頸動脈に手をあて……
「兄さん、いい加減に諦めたらどう!?」
壊れるほどの勢いで軋む扉が開け放たれた。扉の前に仁王立ちで現れたのは、非常に切れ長の黒褐色の瞳が印象的な娘。
「きっともう目を覚まさないわよ、その子。それより兄さんの方こそいい加減に食事を摂ってよ……って!?」
年の頃は年は私より三、四歳下の十五前後といったところか。やや日焼けした色の肌、ストレートだが少し縮れぎみの明るい栗色の髪、真っ直ぐ通る鼻筋、そして白い歯。しかし何より際立つのは少女の全身から炎のように吹き出す意志の剛さだ。
いや、それ以前にこの女……
そんな私の観察などお構いなしに、少女は切れ長の目を最初丸くして、次いでぶるぶると身体を震わしながら叫ぶ。
「兄さん! 貴方は一体何をやっているんですか!?」
「ジュ、ジュヌヴィエーヴ」
青年は私の両肩を掴み、慌てて引き離そうとして……思いとどまる。強張った顔に精一杯の笑顔を浮かべながら、私を静かにベットに横たわらせる。
「……こ、これは一体どう云うことですか!? ま、まさか兄さんは最初からそのつもりでこの女を……」兄のどこまでも優しい仕草に更に激昂したジュヌヴィエーヴという名の少女。その周囲の気温が急速に下がっていく。
恐る恐る振り返った青年を貫いたのは、般若の面と化した少女の、刺し殺すような視線。
「わ、わたしの兄さんがそんなことをする筈がありません! 分かりました。この女が無理矢理誘惑したんですね? 強引に押し倒したんですね? 身元不明の行き倒れの分際でわたしの兄さんを誑かしたんですね?」
黒褐色の瞳の少女は、私にじりじりと詰めより、今にも掴みかからんばかりとなるが、青年はその間に辛うじて割って入る。。
「ま、待った! それは誤解だ。彼女はたった今意識を取り戻したばかりなんだ。それで急に身体を起こしたから、きっと気分が悪くなって……」
「そんな都合のいい話をわたしに信用しろと云うのですか、兄さんは!?」
私に対する敵意をあからさまにして、ジュヌヴィエーヴと呼ばれる少女はその兄である青年に詰め寄る。
《暗殺者》としての私は呆れかえり、そのまま頭の片隅に引き返してしまう。
とんだ茶番だ。字面だけ聴いていれば刺々しい会話だが、この二人の間にあるのは互いに対する絶対の信頼。
弱々しい抗弁を、おどどした態度で繰り返すしかない兄の方は妹が最後には許してくれることを知っている。妹の方に至っては最初から兄に対する不信感などありはしない。兄妹の間のただの戯れであり、その攻撃的な言葉はあくまでも私に対する牽制でしかない。
肉親の間の絶対的信頼関係。そんなものは我ら《追儺衆》に入り込む余地はない。
それが敵ならば、たとえ血の繋がった両親でも、姉妹でも何の躊躇いもなく斬り殺してみせる。それでこその《鬼を狩る者》だ。
「……ホントに兄さんはお人好しなんですから」
呆れたような、諦めたような大きな溜息と共に、少女の兄に対する糾弾は幕を下ろした。
「この患部の薬草を処方したのはお前だな。それについては礼を云おう」
「えっ?」
私の言葉に機先を制された形となり、妹の方は戸惑いを隠せない。「あ、うん、先生に習った通りにしただけだから」恐らく私に対する追求の一手を放とうとしていたのだろう、その薄い唇を突いて出たのは、意味のない言葉でしかない。
「もういいだろう、ジュヌヴィエーヴ。彼女は怪我人なんだから静かに寝かせてあげよう」
疲れた風を装って眼を閉ざした私に気付くと、青年は予想通りの反応を返してくれる。
妹は不満と不平と愚痴を噛み殺しながら、部屋を後にした。
……面白いものを持っているようだが、この少女はあまりにも甘過ぎた。青年と違い、この娘は私に明らかに何かを感じた筈だ。だが、悲しいかな、我らと異なり、彼女には絶望的なほど経験も実戦も足りない。
私が彼女の立場ならば、確実にこの場で息の根を……
「!?」
気が付くと再び私の眼の前には青年の顔。彼は心配と困惑であたふたとなりながら、しかし瞳だけは真っ直ぐに私を貫き通している。
「本当に大丈夫ですか? 随分顔色も悪いようですけれど?」
顔色が悪いのは貴様に心の裡を読まれた気がするからだ!
そう叫びたいのを私は必死に堪える。どうやら体調はまだ本調子とは云いがたいようだ。
「あの、もう少しだけ寝かせて貰えますか?」
私は本格的に一眠りしてから、次の行動を考えることにした。
パリの高級住宅街マレー地区にあるその華やかなサロンでは、仮装舞踏会の宴の興奮が最高潮に達しようとしている。
ルイ十六世風の大広間はチェイルリー宮の貴顕や外国の名士を呑み込み、天井から吊された巨大な水晶のシャンデリアは眩いばかりの光芒を放つ。
辻馬車の御者に身をやつして小歌を歌う大使夫人、尼僧姿の男爵夫人、ローマ女に扮して髪を振り解き片側にスリットの入ったドレスから美しい素足を惜しげなく見せつける伯爵夫人、古代エジプトの踊り子アルメに扮した大公妃に至っては、腰に一枚のスカーフしか纏っていない。
テーブルには豪華な料理や最高級のワイン、花を一杯に生けた七宝焼の花瓶が並べられ、楽団は華麗で荘厳な音楽を奏でる。豪奢な調度類は白と青の漆塗りで、銀筋が入っており、床には足首がすっぽり収まってしまうほど長い絨毯が敷き詰められている。大燭台、彫刻を施された暖炉、ルイ一三世式の大きな肘掛け椅子、掛け時計、そしてレースと青絹で覆われた巨大な鏡台。寝台のように奥行きの深い長椅子では、男女がしどけない格好で抱き合い、接吻の嵐を浴びせかけていた。
果てしなく続く饗宴は、この第二帝政を象徴するように、過去の諸様式をごった煮にしたような不統一で、しかしこの上なく絢爛豪華に繰り広げられている。
サロン中央に設えられた金色の円形舞台では、肌色の、見る者には裸としか思えぬドレスを纏った東洋風の踊り子が舞を繰り広げている。
舞台を照らすシャンデリアの光が、異国の少女の切れ長の瞳に反射し、炎のように映える。少女の結い上げた黒髪が、彼女の白く細い頸をますます際だたせる。
少女が素足で力強いステップを踏むと、ドレスの裾が花びらのように拡がり、匂い立つような優雅さを撒き散らす。
このサロンの主人の秘蔵っ子と呼ばれる少女の美しく扇情的な舞に、その場にいる誰もがまるで夢幻境に足を踏み入れたか如く、華麗な舞を陶然と見つめるしかない。
しかしそのような陶酔とは全く無縁に、どこまでも醒めきっている《男》が一人。
踊り子の顔とその腰に光る東洋風の護身刀を注意深く観察し終えた男は誰にも気付かれることなく一言だけ呟くと、その場から姿を消した。
「……違う、かの者ではない」
セーヌ川のせせらぎに街灯が反射し、川面は星のように光り輝く。
二千年以上前、ケルト人の漁師がセーヌに浮かぶこの一番大きな島シテに小屋を建て定住を始めた。その都市名リュテティア――ケルト語で《沼地の中の都市》の意味だ――の住人をパリジと呼んだのがパリという名の都市の語源であると言語学者たちは結論づけた。
しかし、誇り高きパリジャンがこの世界で最も美しい都が《沼の都市》であるなどという妄言を認めよう筈もなかった。彼らはローマに匹敵すべき歴史をこの都市に与えるため、遂には最古の伝承トロイアにまでその名の語源を求めることになる。
川の両側に発展した町は宿命的に渡河交通の問題に直面する。この問題を解決するため、ブルボン朝の始祖アンリ四世は三〇年の年月を費やし、架橋を完成させる。この橋がポン=ヌフ、つまり新橋と呼ばれた所以は、アーチ型の一二の橋脚に怪人面の彫刻が施され、当時一般的だった橋上の人家を一掃し、その替わりに歩道を設けた当時としては画期的な橋だったからだ。後に諺に「ポン=ヌフのように元気」とまで呼ばれるほどに。
だが建造から二五〇年の時を経た第二帝政初期にはその諺に翳りが生じ始めていた。老朽化と同時に、その道幅が頻繁に往来する馬車を捌ききれなくなったからだ。
その《男》は橋の上を行きかう人々を鋭い視線で観察している。眠らぬ都市パリは午後の十時をまわったこの時間になっても人の往来は途絶えない。
大通りで芸を披露していた大道芸人たちこそ、セーヌ川の右岸、サント・ジュヌヴィエーブ山の塒に戻っていくが、彼らに代わり一日の仕事を終えた仕事が若者たちが――花屋、縫い子、肌着屋、デザイナー、百貨店の店員たちが――勤務先から解き放たれる。
オスマンの改修により再び諺通りの賑わいを見せはじめたポン=ヌフの歩道は、そぞろ歩きする恋人たちで一杯となり、道にまで溢れ出す。
劇場へ、ダンスホールへ、歌謡喫茶へ。一夜のアバンチュールという極上の甘い蜜を吸うべく、彼らは繰り出していく。
しかしそんな浮ついた空気が声にならぬ悲鳴に弾け飛ぶ。何事かと思い前方を見やった人々が眼にしたのは狂ったように向かってくるコンスタンタン・ギュイの水彩画そのままの小型四輪馬車だ。御者は既に振り落とされたらしく、その姿はない。
暴走する馬車は橋の中心付近で歩道側にその轍を向けた。一際甲高い悲鳴がセーヌ川のせせらぎに乗って、遠くまで響く。その悲鳴の先にいたのは……
「チッ」いち早く危機を察し、歩道側に退避していた男は、まさに馬車の轍に踏み潰されんとしている黒髪の少女を見つけると飛び出した。
横合いから飛び出した男は、その体格からは信じがたい軽やかな動きで跳躍し御者台に乗り込むや、見事な手綱捌きで暴走する馬車を止めた。
凍りついていたその場の時間が、小さな歓声から、そして万雷の拍手によってようやく動き出す。だが目前に死神の大鎌を突きつけられた黒髪の少女は歩道にしゃがみ込んだまま依然として全身を激しく振るわせている。
御者台から無言で降りてきた男が、少女に近づいてきても彼女は指一本、動かせない。周囲の歓声は男が一歩一歩少女に近づいていくたびに鎮まり、それどころか男の進路に突っ立っていた群衆は、その眼光に晒されるや気圧されるようにその場を譲っていく。
傍らに立った男は、たったいま命を救った少女の顎を、無造作に掴むと顔を上げさせる。
「……違う、この者ではない」
短く、しかし底冷えする声でそういい捨てると男は彼女に最早一顧だにくれず、ポン=ヌフの架かるシテ島へと歩み去った。
オスマンの容赦なきパリの外科手術は一番の人口密集地であり、犯罪者の巣窟である安宿と酒場が建ち並んでいたパリの心臓部とも云えるこのシテ島にも当然及んだ。
パレ大通りからアルコール通りまで犇めいていた建物は街区ごと取り壊され、新たにパリ警視庁、市立病院、花広場、そしてノートル・ダム大聖堂前の広大な広場が設けられた。
しかし、奇跡的にシテ島内でオスマンの槌から逃れえた場所がある。ノートルダム大聖堂の北側街区である。
中世そのままの狭く曲りくねった、黴臭くじめじめした通りに古い建物が建ち並んでいた。昼なお光の射さぬ通りの両側に密集する建物の漆喰の壁は湿気を吸って波打ち、至る所に亀裂が入っている。
それでも通りには無数の人々が蠢き、奇妙な活気を呈している。
一日の憂さを酒精の力を借り晴らしにやって来る日雇いの労働者。女を求め血走った眼のまま蠢く若い男。到底その場に似つかわしいとは思えぬ身なりの良い年輩の紳士。襤褸を纏った物売りの少年。そして客を捕まえようと手ぐすねを引いている娼婦たち。
アルコールの香り、化粧水の酸っぱい匂い、そして汗と体臭。
そんな噎せるような空気の充満する通りを《男》は悠然と、迷いのない歩調で進む。
狭い路地の両側に立つ客引きたちの誘いの言葉を軽くあしらいながら、しかし確実に何かを探し求めるように歩み続ける。
突然、男の目の前に白く細い腕が出現した。歪んで壊れかけた建物の中から伸びた白い手は胸元に伸び、扇情的な仕草で男を誘う。
戸口の上に掛かる看板には、店名はなく『夜、宿貸します』と素っ気ない文句だけが刻まれている。男は相手を軽くあしらおうとして、建物の中の腕の主に一瞬目をやる。
そこにいたのは……蒼い絹のドレスを纏った長い黒髪の女。
数分後。男を誘い入れた女は、床にだらしなく崩れ落ちていた。その身体は瘧のように震え、その口からは忘れて久しい神への祈りの言葉が漏れ出る。
女の周囲では彼女の仲間の男たちが――誘い込まれたカモを身包み剥ぎ、セーヌの川底に沈めるのを生業とする職業的犯罪者たちが――尽く絶命していた。
何事もなかったように男は建物の奥で燃えていた蝋燭を手に取ると、座り込んだまま魂を消し飛ばしている女の顔に近づける。
炎に煽られ女の顔が露わになると、男はその顔に初めて感情らしきものを浮かべ呟く。
「……違う、かの者ではない」
手にした蝋燭を無造作に部屋の奥に放りこむと、男は何事もなかったようにその場を歩み去った。
テオドールという名の青年とその妹が階下の部屋に戻り完全に寝込んだのを、その心音と呼吸音で念入りに確認して私は起きあがった。妹の方は私に対する警戒心からか、なかなか寝付こうとはしなかったが。
シミューズの上に壁に掛かっていた外套だけ羽織り、手近にあったイーゼルを痛む左足に巻き付ける。
屋根裏部屋の小さな窓からパリの夜景を覗く。
すぐ近くの建物の屋根からノートルダム大聖堂の尖塔まで甍の波が続いていて、まるで海岸に立って沖の波を眺める時のようだ。
刻限は丑の刻過ぎ。静まりかえったアパルトマンには物音一つしない。
慎重に屋根裏部屋の扉を開け、廊下に出る。階段を挟んで丁度反対側にも更に屋根裏部屋がある。
予想とは裏腹に、新しきパリが素通りしたこのノートルダム大聖堂の北側街区にあるにもかかわらず、アパルトマンの造りはしっかりしていた。建物は典型的なコの字型。どうやら粗石作りの四階建てのようだ。四階のみは四部屋だが、二階、三階に二部屋ずつとかなりゆったりした間取りを取っている。
吹き抜けの階段を一階まで降りたところにあったのは食堂と台所。この時間だ。当然人はいない。食堂を抜け、更に共用の客間部分を抜けると、これが玄関部分なのだろう、総ガラスのフレンチドアが月明かりと街灯に映え、不気味な光を放っている。
「どこに行こうっていうんだい? 礼の一つも云わずに」
全く気配を感じさせぬまま、その嗄れ声は扉に向かおうとする私の背中に突きたった。
「血相変えてお前さんを運び込んできたテオ坊やの勢いに負けて空いてる屋根裏部屋を貸してやったのに、礼の一つも云わずに逃げ出そうなんてね。東洋の人間は礼に篤いと聞いていたが、それは間違いかい?」
この邪魔者の頚動脈を一瞬で断ち切り沈黙させる。私の判断は、続く老婆の、その年齢に似合わぬアパルトマン中に響くような大声の前に、放棄を余儀なくされる。
「私がこのアパルトマンの管理を任されている以上、そのような無作法な真似をしてもらっては困るね」
「門番女か……」忌々しげに吐き出す。
門番女というのは文字通り、扉の開閉を役目とする女性と同時に、アパルトマンに一室を与えられ、実質的にはその建物の管理人のような役割を果たしていた者たちのことだ。
彼女らは薄給の代名詞的存在であり、世間的な地位はかなり低く位置づけられながらも、ことアパルトマン内部では絶大な力を握っていた。一般的にアパルトマンの入口は一つしかなく、その入口の扉は脇の門番部屋に吊された紐でしか開かぬ構造となっていたからだ。
門番女の機嫌を損なえば夜中遅く戻ってきた時には、温かいベットを目の前に一晩中野宿する羽目になり、アパルトマンごとに配達される郵便物を抜き取られ、同じアパルトマンの別の住人たちにありもしない悪い噂を吹き込まれる等など、有形無形の様々な不利益が降りかかるため、店子としては頭が上がらない存在なのだ。
「……ではどうすればいい。金か?」
短く、素っ気無く、切り返す。
「なんだ、よく分かっているじゃないか!」
門番女の老婆は唇の端を歪めて、嫌な笑みを見せる。老婆が纏っているのは三、四十年前には最先端であったであろう、インド更紗のドレスの、残骸とでも称すべき襤褸だ。
「今は持ち合わせがない。後日この礼は必ずする。だから今すぐ私を通せ」疼く右手を必死に押さえながら、低く言い放つ。
「それをあたしに信用しろって云うのかい? そいつは無理な相談だね」老婆は白粉を塗りたくった白い喉を見せながら、神経を逆撫でするような笑いを零す。それが私の癇に無性に障る。
「ど、どうかしましたか、タリオーニさん!?」
階下の騒ぎを聞きつけた青年が息せき切って降りてきた。
「この娘が恩知らずにも礼の一つも言わずに逃げ出そうとしていたから、人の道を説いていたのさ」
露骨に金の要求をしていたことなどおくびも見せずに、門番女が云う。
青年は一瞬だけその瞳に悲しそうな色を、続いて複雑な色を宿した。しかし顔だけは穏やかな、諭すような表情を浮かべる。
「……どうしても君が出て行きたいなら止めはしないよ。そんな権利なんて僕にはないんだからね。だけどね、ナナ。まだ意識が戻ったばかりだろう? 傷が癒えるまでもう暫くは無理をしない方がいいと思うんだ」
静かに青年は告げるが、彼の言葉の“嘘”が分からないような私ではない。被っていた猫を脱ぎ去り、その懐に飛び込むように斬り込んでやる。
「その割に言葉の端々に引っ掛かりがあるのはなんだ? 貴様はやはり何か見返りを求めて私を助けたわけだ?」
質問ではなく断定の、容赦ない言葉を浴びせてやる。人間なぞ所詮そんな生き物だ。
だけど図星を突かれた筈の青年は、かといって極まりの悪い顔をするでもなく、ただ恥ずかしそうに黙りこくってしまう。
ほんの暫し、青年の顔を見つめてしまったが、私は長居は無用とばかりにくるりと踵を返した。奧の台所に石炭のように燃える二つの輝きに気付いたからだ。
万全の体調ならば万に一つも後れをとるわけはない。だが今の状態で間近に迫る“複数の敵”を相手にするのは流石に厄介だ。
「ま、待ってくれないか! 僕は君に……お願いがあるんだ!」
青年の切羽詰まった叫びに、普段の私ならばあるまじきことに、その足を止めてしまった。
と、まるでタイミングを図ったように、私の前方、アパルトマンのアーチ型の入口から人影が現れる。
フレンチドアを潜り最初に入ってきたのは、粗野な労働者のようななりに逞しい頬髭を生やしたブロンドの中年の男。隆々たる筋肉と広い肩幅が男を大岩のように見せる。服からはち切れんばかりの太股は、小柄な女性の胴体ほど太い。
次に入ってきたのは、美しい亜麻色の髪をした若い伊達男。年の頃はテオドールと言う名の青年より少し上の二十代前半と云ったところか。黄色の手袋に、黄色づくめの衣装。片眼鏡の奥ではエメラルド・グリーンの瞳が人好きのする光を浮かべている。
最後に入ってきたのは、鶴のように痩身の初老の男。神経質そうな瞳に銀縁の眼鏡を掛け、細いが豊かな口ひげを蓄えた男は、学者のような雰囲気を漂わせていた。その容貌は年老いたキリストを彷彿させる。男が歩くたびに、その足下から甲高い音が響く。男の片足はどうやら義足のようだ。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
交わした視線は一瞬。だけど、それで十分。コイツらは……!
「これはこれはウージェーヌさん、セオドアさん、ニコライさん。今日は皆さん随分とお早いお帰りですね。惜しいことに夕食は五時間も前に片づけてしまいましたよ」
露骨に毒の混じった言葉でそう割り込んできた老婆の立ち位置は絶妙。
三人をアパルトマンの中に立ち入れぬよう、私をそのまま外に出させぬよう。計算してその立ち位置を選んでいるとしたら、この老婆も“同類”か。
しかし住人である男たちにとっては“いつものこと”のようだった。
片眼鏡の青年紳士はオペラ座の招待券を差しだし、大男はブラリーヌ(砂糖焼巴旦杏)を手渡し、義足の初老の男は黙って頭を下げながらコインを手渡す。
「なんだか催促したみたいで悪いねぇ。じゃあ、ちょっと待っていて下さいよ。いま夕食を温め直しますから」
先程までの態度とは一転、にこやかに云いながら台所に門番女が引き込んでいくと、その場に帯電していた危険な空気が拡散していく。
私は無言で三人が傍らを通り過ぎていくのを見送る。とりあえず、今はこれでいい。逃げ出すことだけならいつだってできる。
それよりも、未だもじもじと躊躇っている私を助けた青年の方が何故だか気になった。
テオドールと名乗った青年の襟首をぐいっと捕まえ、自分の元に強引に引き寄せる。
「……で、そのお願いってのはなんだ?」耳元で愛を告白するように囁いてやる。それだけのことで青年の顔が一瞬で真っ赤に染まったのに、思わず笑いだしそうになった。
「早く云わねぇと、ここから出て行かせて貰うぜ」強引に催促してやって、ようやく青年は口を開いた。
「こんな唐突なお願い、断られても仕方がないと思うんだけど……僕は君に、君に……」青年の躊躇いがちながらも、妙に熱っぽい言葉に、私はらしくもなく好奇心を刺激された。彼の口元に耳を寄せる。
「君に……僕の絵のモデルになって貰いたいんだ!」
唐突な青年の言葉に、どうやら私は一瞬間の抜けた表情を浮かべてしまったらしい。
次いで腹の底から湧き出してくるような笑いの衝動に身を委ねる。
私の狂態を不安げに見詰めていた青年に「分かった、約束してやるよ」と爆笑の合間を縫って答えてやると、華が咲いたように青年の顔が明るくなる。
傷が癒えるまで、そして“連中”の正体を見極めるまでの間くらいは、このアパルトマンを塒にしてみるのもいいかもしれない。
私は特に深い考えもなく、心の裡で呟いた。
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