《幕間》海舟書屋
しばし舞台は時を遡り……物語が紡がれる地もまた西から東へ、経緯にして一三〇度ほど移動する。
くそっ、オレはこういう融通の利かねぇ堅苦しい奴ってのがでぇっ嫌れえなんだ。
初老の男は六畳一間の狭い部屋で向かい合う若者に、内心で毒づいた。
怜悧な、触れただけで何ものをも切り刻むような空気が狭い部屋を犯していく。端然と座した眼前の若者が発する凍てつくような冷気が男の背筋に突き刺さる。
この初老の男とて潜ってきた修羅場の数は尋常ではない。幕末の三代人斬りと呼ばれた男たちとも一通り面識がある。だが彼らと向き合ったときでさえ、これほどの触れる者は、神や仏ですら斬り捨てんという強烈な意志を感じたことがない。
男は改めて眼前の若者を見やる。年齢以上に幼い印象を受ける外見。しかも衆道の趣味がある者ならば放っておかぬであろう美形だ。
だが同時に、信じがたいことだがこの若者は、明治の御世となった今では事実上最後の《幕府隠密方》の首領なのだ。
「上意により参上いたしました」
若者は非の打ち所のない所作で、男に向かって深々と頭を下げる。
しかしそれは見せかけに過ぎない。若者の心の袖の下から除いているのは鎧そのものであり、迷いのない美しい挙措は、即座に戦闘を可能にするための擬態でしかない。
「こたびは我が配下の者たちの不始末のために、安房守様に多大なご迷惑をおかけいたし、まことに恐縮次第にございます」
幕府は既に崩壊しているにもかかわらず、若者はこの部屋の主をいまだ旧の官職名で呼ぶ。それが若者の意識が未だ在りし日の幕府に向けられていることを雄弁に物語る。
部屋の入口にかかる額縁がこの貧乏侍の住まいのような部屋の主の正体を教えてくれる。幕末の思想家にして、男の義兄佐久間象山の見事な墨跡によるそれは《海舟書屋》とあった。
「上様から安房守様の言葉は上様の言葉同然と思うよう、申しつかっております。我が配下の不始末、幾万言費やそうとも詫び切れぬものであることは存じあげておりますが、せめて我が手で部下どもの不始末つけさせて戴きたい所存でございます」
「そんなに詫びたいならば腹でも切ったらどうだ?」
その言葉が初老の男の――幕府の最後の幕を引いた男、勝安房守義邦、号は海舟――の口からついて出そうになる。しかしコイツなら本当にこの場で腹を真一文字に割きかねねぇ。入れ替えたばかりの畳とお気に入りの座卓を無駄にはしたくない。
「……煉獄を生き残りし《終の七》。鬼を払うはずの者どもが、文字通り《追儺の者》となっちまったわけだ」
海舟は嘆くような呟きを吐き出す。
黒船の来航に端を発する混乱で内外から圧力を受けた幕府上層部の一部、そして幕府隠密方は異形の才ありと認むる幼子を日本中から探し、拐い、最後の忍び谷に送り込んだ。その修羅の煉獄を生き残った七人により幕府開闢以来最強と謳われる刺客団が編成された。それが《終の七》、転じて《追儺衆》だ。
冬至後の第三の儺の日である臘日。その前日に行われる厄払いの
この厄払いの
だが彼ら《追儺衆》の名付け親たちは知らなかった。彼ら《鬼を払う者》である筈の追儺師は、この世の存在とは相容れぬ異形さ故に、時が経るにつれ《鬼》そのものとされるようになり、遂には鬼を《狩る存在》から、鬼として《狩られる存在》へと墜ちることを。
「如何なる理由があろうと、上意に逆らう者を狩るは首領たるそれがしの任」
「そうかい。だが、そもそもあんな連中を創り上げたのがその上意なんだぜ」
喉元まで出かかったその言葉を海舟は呑み込む。この若者なら上様への不敬の言葉を吐いた廉で、いきなり斬りかかってきかねない
本来海舟は融通の利かぬ、一本気な若者が嫌いなわけではない。弟子であった坂本竜馬も物事がよく見え、臨機応変なようでいて、時として全く融通の利かぬ男だった。
だがこの若者は違う。この若者の心の奥底にあるのは、狂気にも似た信念。今は亡き幕府に対する、御上に対する強烈な帰属心と忠誠心だ。流石に腹に据えかねて、海舟は心の裡をそのまま吐露する。
「はっきり云わせて貰えればな、俺は奴らに同情しているんだ。そもそも何も知らぬ童を強引に攫い、刺客に仕立て上げたのはどこのどいつだっていうんだい? 大体……」
隠すことなく嫌悪の表情を浮かべ、決定的な言葉を放つ。
「貴様とて昭武様の供をしてパリに行っておらねば、その一人であった筈だろうが!」
昭武とは最後の将軍徳川慶喜の実弟、徳川民部大輔昭武のことだ。
「そう、某が民部大輔様の供をしてフランス国に赴いていなければ、かような醜態を曝さずに済みましたものを」
初めてこの首領の言葉に感情が、僅かばかり怨ずるような響きが混じる。
徳川昭武は兄である慶喜の名代として一八六七年にパリで開かれた万国博覧会に出席し、以降当地での留学生活に入った。もっとも幕府崩壊後、明治政府の帰還命令を受け虚しく国内に戻る羽目となるのだが。
この間かの者は昭武の護衛として出国から帰国まで影のように寄り添っている。追儺衆においても最凶を謳われたこの若者が護衛に選ばれたのは、昭武が慶喜の実質的な後継者と目されていたからだ。
慶応三年(一八六七年)二月一五日、横浜を昭武とともに首領が出航後も、残された追儺衆に与えられた任務に変更はなかった。
彼らに与えられた任務は唯一つ。それは開国圧力を強める諸外国首脳の暗殺。無論専制君主国家ならまだしも、近代立憲国家においては元首が死んだとて国の方針が劇的に転換することなど滅多にない。勿論そのことを理解できる人間ならば、そもそも暗殺団の組織など試みる筈がなく、事実慶喜が将軍に就任するとこの計画は当然のように放棄されることとなった。
だが、その時には既に追儺衆は生み出しし者の思惑を超え、文字通りの《鬼を狩る者》と化していた。
幕府隠密方お庭番の全兵力を傾けて、出航を待つばかりとなっていた蒸気船への襲撃を敢行。船内に陣取った追儺衆の皆殺しを図ったが……結果は最悪のものとなった。
それ故に出港した船の残骸が三日後港の沖で発見され、季節外れの暴風雨が《かの鬼ども》の乗る船を沈めたことを知ったときには幕府首脳部は《神風》の存在を信じた。
ヨーロッパ諸国に現れた謎の殺人鬼。
白昼突如頚動脈から大量出血を撒き散らし息絶えた死体。
鋼鉄の壁越しに刺し貫かれた死体。
発射音が届く以前に額を撃ち抜かれた死体。
自らが放ったガトリング銃の連射を浴びた死体。
闇からの誘いに誘われ全身の血液を抜かれて発見された死体。
恐ろしく怜悧な刃物で全身を膾のように切り刻まれた死体。
その噂を最初に仕入れたのは誰あろう、当地に留学中の昭武であり、その正体に気付いたのは、本来追儺衆の一員であったこの首領だ。もっとも首領という肩書きはこの頃にはまだない。帰国以後になったそのあまりにも若い襲名は追儺衆に幕府隠密方の年輩の者が尽く殺しつくされたが故のことだ。
帰国した昭武を通じてその恐るべき事実を知った慶喜は、あの混乱を極める幕末動乱期、最も嫌いながらも、結果として最もその助言を受け入れた海舟に善後策を求めた……。
もういい加減に厄介事の後始末は沢山だ! 海舟はそう喚き散らしたい衝動に駆られながらも、慶喜の依頼を引き受けぬわけにはいかなかった。
これは幕府の幕を閉じた者としての責任であり、同時に贖罪でもあった。それは生者に対するものではない。幕末動乱期、おのが信念に殉じて死んでいった多くの男たちに対する、生き残ってしまった者としての最低限の務めだ。
「改めて云っておく。オレ個人としての心持としては、あの者たちを討ちたくない。可能ならば凶行を止めさせ、この国に戻してやりてぇが……それが無駄なことはお前さんが誰より承知している筈だな? ならば取るべき手段は一つしかねぇ。
かの死を撒き散らす旋風が我が国の者と知られれば、ましてその目的が各国首脳の暗殺だなんて事実を知られれば、西欧諸国に追いつかんがために、この国を変えんがために、かの地に留学し勉学に勤しんでいる者たちへの排斥運動が起きかねねぇ。
それだけじゃねぇ。わが国への輸入を止められれば、資源なんて何もないこの国はじり貧だ。勿論、武器や軍艦の類も手に入れられまい。ならばこの国は……」
「御心配は無用でございます。我が国の未来に影差す者は尽く刈り尽くしてみせましょう」
……こいつには何を云っても無駄ってわけか。だがそれでいいのかもしれねぇな。この若者を過去に束縛しているのは追儺衆の存在そのものだ。だとしたら、そいつらを殺し尽くした時にこそ、初めてこの若者は未来を見ることが出来るのかもしれねぇ。
生者の妄執も、死者の怨念も纏めてこの勝が墓場まで持っていけばいいだけのことだ。
それでも……こいつを遣わす前に一つだけ気になることがある。
「そなたもその場にいたのだから当然知っているな? あの《刀》のことを。幕末動乱期、この国に侵入した諜報員どもが盛んに探ったあの《刀》のことを。
昭武様がチェイルリー宮でナポレオン三世から吹き込まれたお伽噺。オレの知り合いだった太田蜀山人や柳亭種彦なら小説のネタにすらしないだろう荒唐無稽の物語。
かつて我が国から彼の地にもたらされたという刀。《黄金の国》の秘宝の在処を指し示すと同時に、追儺式において鬼を狩るためにだけ鍛え上げられたという
その如月を遂に手に入れた者がいるっていう噂がある。しかもよりによって貴様と同じく追儺の者、その直系の末裔たる、追儺衆最強を謳われたあの者がな!」
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