《幕間》―――ベルリンへ! ベルリンへ! ベルリンへ! 

《幕間》


 ―――ベルリンへ! ベルリンへ! ベルリンへ!

 血に染まったような雲の後ろに太陽が沈み、落日の最後の一閃が建物の窓を燃え上がらせる。焼けさかるような建物から無数の群衆が吐き出され、世界で最も美しいと称されるパリの都中に散っていく。

 彼らは異口同音に、熱狂的にその言葉を叫びながら、東から西へと向かい行進を始めた。

 ―――ベルリンへ! ベルリンへ! ベルリンへ!

 家から飛び出してきた人々は歩道に流れ、車道にまで溢れ出し、遂には巨大な奔流となりこの麗しき都を呑み込む。

 いつしか夜が一杯に広がり、街路のガス燈が一つ一つ灯っていき、パリの町を壮麗なキャンドルへと変貌させる。刻々と膨れあがる人の波は西から東へ、エトワールの凱旋門からバスチーユ広場にかけての巨大な流れとなって突き進む。彼らは足を踏みならし、同じ情熱の下に一つとなり、熱狂したい欲求から次々と集結してきた。熱狂は熱病のようにパリ全市を覆い尽くし、人々は異口同音に、断続して執拗にその言葉を繰り返す。

 ―――ベルリンへ! ベルリンへ! ベルリンへ!


 この日、一八七〇年七月一九日。スペインの王位継承権を巡るフランス帝国とプロイセン王国との間の確執は、遂にフランス帝政議会の、プロイセンに対する正式な宣戦布告となって結実する。後に普仏戦争と呼ばれることになる戦争の開幕である。

 これより十七年前の一八五三年。セーヌ県知事オスマンがパリに赴任したとき、この花の都はその名に値せぬ巨大な芥溜めのような町だった。

 中世以来、自然発生的に増殖を続けてきた建物は、曲がりくねった狭い路地の両側に立ち並び、そこに住む住人は一年中一度も室内で太陽の顔を見ることなく生活していた。

 クーデターにより叔父に引き続く第二帝政を確立したナポレオン三世は大土木事業に踏み切る決意をし、オスマンにこの古き都の大改造を命じる。

 パリ中の細く曲がりくねった不規則に走る道は、周囲にひしめき合う無数の建物と共に尽く踏みつぶされ、その跡には太く、直線上の道路が描く幾何学的な均整の取れた都市が生まれた。近代パリの誕生である。


『さあ、祖国の子供たちよ、栄光の日がやってきた』

 瓦斯灯の反射が金看板の上で踊り、松明を手にした群集は巨大な炎の渦を波立たせ、町の至るところで《ラ・マルセイエーズ》の合唱が沸き起こる。それはベルリンに向け進軍する帝国軍兵士たちへの手向けの歌だ。

 今やパリはその全土を巻き込んだ壮大なオペラと化している。

 渦巻いて流れる混乱した群衆は、目くるめくめくばかりの群衆は、夜に紛れ屠殺所にひかれゆく羊たちのように白く波うつ群集は、来るべき戦争の行方を言い知れぬ戦慄とともに感じ取り、しかしこの絢爛豪華な祭りに酔わぬわけにはいかなかった。

 掠れた叫び声を上げながら、熱狂の言葉を浴びせながら、このオペラの主役たる帝国軍精鋭に対する歓喜と陶酔の歌を歌い上げる。

 ―――ベルリンへ! ベルリンへ! ベルリンへ!

 無論、皇帝ナポレオン三世も、帝国軍の貴顕も、帝国議会の議員たちも、そして何よりも誇り高いパリ市民の誰もがこの戦争の勝利を疑うべくもなく、その結果当然知りえよう筈もなかった。

 この華麗極まりない序曲で始まったオペラ。その終幕において、悲劇の運命を辿るのが他ならぬ今宵の熱情の宴の参加者である群衆自身であるということを。


 ―――ベルリンへ! ベルリンへ! ベルリンへ!

 その狂想曲は道路の轍を踏み潰す地鳴りと共に、パリ中に響きわたる。熱狂する群衆を、夜空に浮かぶ銀色の月が照らし出し、パリを巨大な影絵の町と変える。

 群衆の波からさほど遠からぬノートルダム大聖堂。その天に向かって伸びる中央の尖塔、そして南北二つの塔は一際大きな影を作り、ただ静かにパリの都を見下ろしている。

 ノートルダム大聖堂はそれが建てられたセーヌに浮かぶシテ島とともに、パリの歴史をずっと見守ってきた。パリまでもが英国軍の占領下となった百年戦争の荒廃も、サン=バルテルミーの夜の虐殺も、フランス革命に伴うギロチンによる大量虐殺も、ナポレオン戦争の敗北による連合国軍のパリ駐留も、そしてあのパリ史上最凶最悪となった……

 しかし常に破壊と再生を繰り返してきたパリの街にとっては、一時の破壊など何ほどのものでもない。

 破壊の都度、人々は廃墟から立ち上がり、その都度パリの町を再生してきたからだ。


 大聖堂のアーチ状の曲面天井の上に舞い降りた影が二つ。

 常人では踏みとどまることさえ叶わぬ足場にもかかわらず、二つの影は互いに凄まじいばかりの剣戟を繰り返す。まるで身体に重みを持たぬ妖精同士の戯れを思わせる舞。

 シルエットが交差するたびに、激しい火花が舞い散る。その影絵の戦いを見守るのは、ただ虚空に浮かぶ銀色の月のみだ。

 月明かりに眼を凝らせば、一方の影が奇怪な面で顔を覆っていることに気付くだろう。

 影が被るのは第二帝政下、毎夜繰り広げられた仮面舞踏会から抜け出してきたような黄金造りの仮面。しかも奇怪なことにその金色の仮面には左右に二つ、計四つもの眼が並んでいる。金色の仮面は唇だけ朱に縁取られ、その血よりも赤き唇から覗くのは、鋭く尖った牙。微妙に左右非対称の仮面は、右側の二つの眼がいずれも少し吊り上り、左頬がすこし引き攣ったように彫られている。

「……無限の《波動》を経て、ようやく辿り着いたぞ、この終幕の舞台にな。

 クックックッ、しかもその舞台が我らが決着をつけるに最も相応しいこの場所でとはな。やはり我らが《歴史の女神クリオ》が《全ての波動の外側》に実在し、《全ての歴史》を律したもうことの証明ぞ」

 翼廊南の薔薇窓。その切妻となった屋根の高みで差し向かいながら、一方の影が心底愉快そうに嗤う。

 その手に握る恐ろしく長い太刀を構え直すと、一足飛びで間合いに飛び込んでくる。

 異形の仮面を被った影は、押し寄せる斬撃を巧みに身廊の屋根を移動しながら捌ききると、北塔の鐘楼に飛び移る。だが、襲撃者は難無くその動きにも着いていく。

「この美しい月は我々の戦いとは無縁にそこにあるのか、果たして我々が見上げた瞬間にそこに生まれしものか。果たしていずれなのであろうな」

 そうして鐘楼を挟んで向かい合う格好に二人。空を見上げた一方の影は、響きのない乾いた声で、しかし感情の片隅に愉悦を含ませながら自問自答するように呟く。

「……無数の人間の人生を弄んだ末に、最後に追い求める答えがそれか?」

 黄金の仮面の下から、静かな怒りの籠もった声音が漏れる。

「いや、そのような事は所詮言葉遊びに過ぎぬよ。君たちからすれば《別の波動》に過ぎぬのだろうが、我々にとっては《グラウンド・ゼロ》より永劫回帰を続けるこの世界。そこで我らに出来るのは、女神の使徒として、女神の真理に一歩でも近づかん《観測者》として、歴史の女神クリオに捧げるに相応しい歴史を紡ぐことのみ」

「……この地上に生きる何者をも読むことの叶わぬ歴史書を、か?」

 今度こそ隠しようのない憎悪を籠めたその声は、まだうら若き乙女のものだ。

 仮面を被る少女がその小さな手に握るのは黄金造りの刀。脇差ほどの長さしかないが、通常の日本刀よりも刀身の幅は広く、反りは非常に深い。

 刀紋の煌めきが月明かりに映え、魂を消し飛ばすほどに美しい。その銀色の輝きを目の当たりにした者をして《この刀ならば神様ですら斬り伏せられるに違いない》と思わせるほどに。

「その為の《如月》なのであろうな。我らが女神すら予期していなかったのでは、信徒たる我らにまで疑念を抱かせる唯一の鬼札。《波動の内側》しか見ることの叶わぬ君たちに、我々の世界を垣間見ることを可能とさせる唯一の手段。

 それ故だよ、私がこの舞台の終幕に君を招待したのは。このパリという都市の《終焉》を見届ける我ら以外の唯一の証人として。そして我らの女神がその鬼札の存在さえ、その偉大な歴史に予め組み込んでいたことの証しとしてな」

 ―――ベルリンへ! ベルリンへ! ベルリンへ!

 パリ全土から沸き起こる狂想曲に乗せるように影の声は、ノートルダムの双塔の上で響く。

「――――――」

 彼らの間でしか理解され得ぬ男の言葉に、少女は無言。

 しかし黄金の仮面の下に潜む、少女の微動だにせぬ不退転の覚悟を読みとった男は、改めて太刀を構え直す。

 それに応えるように仮面を被った少女も、静かにその右手で鯉口を切る。

 永劫に等しく、しかし刹那に過ぎぬ時間が二つの影の間に流れる。

『自由の女神が、愛おしい自由の女神が君を守る者たちとともに戦ってくれる』

 遠くのざわめきが、ベルリンに向かう軍隊への手向けのラ・マルセイエーズがほんの一瞬途切れた瞬間、二つの影の間に激しい閃光が迸り、

 そして………………


     ※   ※   ※   ※   ※


《し、しまった!?》

 私は大聖堂の屋根の上から吹き飛ばされながらも、身許や目的を明らかにしかねない品を手早く、しかし正確に明後日の方向へ向けて放り捨てる。

 最低限のその仕事を終えると、受け身の姿勢をとり、地上への衝突の瞬間に備えた……。

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