「終の七-パリ夢残」

人の海

『プロローグ』黒船

 私はその最期の瞬間……


       「忘れたくない」と強く想った。



『プロローグ』黒船


 月のとても綺麗な夜だった。

 湾の中に打ち寄せる波はどこまでも優しく、海面のスクリーンに月読命の秀麗な素顔を浮かび上がらせる。

 段々畑が無数に点在する丘に囲まれた湾。その最も奥まったところにある港には幾つもの巨大な影がそびえたつ。水面から高く突き出した、独特の巨大な舵をつけた一本マストの和船だ。前後が極端に湾曲した急角度の船縁は、優美な姿を月明かりに浮かび上がらせる。

 静物画の中から切り出されたような静寂と静謐に支配された空間。

 だが、その美しい絵画のキャンパスを覗き見ることができる者がいれば、右端の一点に黒い染みを見つけることだろう。

 染みは明らかに周囲に浮かぶ和船とは異なる、禍々しいシルエットを投げかけていた。あくまで曲線を基調とした和船に対し、鋭角的に縁取られたその影は、天に向かって三本マストを威圧的に突き出している。マスト後方の煙突からはどす黒い煙が吐き出され、凶暴な姿をいやます。

 やがて絵画の黒い染みに近づく小さな影が現れた。正体は先端が三角形の形をした平底船だ。船体は櫓までも漆黒に染められ、船に乗り込む影たちもまた、黒の忍び装束を纏い、黒の覆面で顔を覆っている。

 音もなく忍び寄った漆黒の船は異形の影――この当時としては最強の戦闘力を誇る甲鉄艦だ――の船尾に船体を寄せると、漆黒に染め上げられた縄を帆柱に向かって投げつける。

 異形の影から五〇間(約九〇メートル)ほど離れたところに浮かぶ小舟。

 その船上で眼前の光景を見つめる初老の男。首領と思ぼしきこの男が振り上げた右手を下ろすのと同時に、黒装束の男たちは無音で異形の船へと乗り込んでいく。

 全員が甲板に上がったことを確認すると、予めの打ち合わせ通り、幾人かの集団に別れ、忍びたちは船内へと散っていく。

 小舟の上には首領の傍らにもう一人。服や刀の拵えで明らかに高位の地位にあると思われるまだ三十路前後の若い武士が、眼前で繰り広げられる光景を落ち着かぬげに見つめている。底冷えする時期であるにもかかわらず、男は吹き出す汗を盛んに拭っている。

「ほ、本当に大丈夫なのであろうな?」

 首領は視線を真っ直ぐ前に向けたまま……何も応えなかった。


 その《災厄》と最初に出会う羽目になったのは船室へと向かった一団だ。

 八つの影は目的の場所に辿り着くと、更に息と気配を消して船室内の様子を伺う。

 そして集団の長を任された男が突入を指示しようとした瞬間……その顔から銀色の穂が生えた。煌めいた銀光が槍の穂先であり、壁越しに突き出されたそれが長の顔を無造作に貫き通したのだ、ということを残る七人が理解する機会は永遠に訪れなかった。眼前の光景を理解すべく瞬きをした刹那、彼らにも長と同じ運命が訪れていたからだ。

 断末魔の一つすら残さず、男たちの生命の灯火は消えた。


 甲板前部の操舵室へと向かったび忍たちは、月明かり差し込む室内に蠢く人影を認めるや即断即決し、扉を蹴倒して乱入する。部屋の中心で陽炎のようにゆらめく人影を前列四人、後列四人の二重の円陣に取り囲む。包囲が完成するや、前列の四人は刀を突き出し、後列の四人は飛び上がり、頭上から刀を振り下ろす。

 同士討ちを全く厭わぬ攻撃をかわす術はない……筈だった。

 白刃が人影を貫くと思った瞬間、彼らの標的は雲散し霧消する。前列の男たちはたたらを踏み、必死に繰り出した刃の軌道を逸らすが、身体まではかわしきれず互いに激突してしまう。直ちに態勢を立て直すべく飛び起きようとした彼らの頭上に、後列の男たちが降ってくる。忍びにはあるまじきことに前列の男たちは絶叫を上げた。彼らの仲間が物言わぬ八つの塊となって降ってきたからだ。

 絶叫が響き終わったとき、操舵室には十六の肉塊が転がっていた。


「一体、何をしておる? まだ成功の狼煙は上がらぬのか!?」 舶来の銀時計にしきりに目を落としながら、目付役の武士は苛立ちを露わに首領を責め立てる。

「……いま暫く。いま暫くお待ちを」

 何の感情も籠もらぬその言葉にますます激昂し、目付は声を荒げる。

「貴様ら、お庭番の最精鋭であろうが! それがたかが《追儺師》あがりの忍び風情の生命を奪うのに、何故にこのように手間取るのだ!? ええい、貴様らのような下賤の者を信じた儂が愚かであったわ! かくなる上は……」

 首領は初めて目付役へと視線を向けた。その眼光に宿るのは混じりけのない殺意。声にならぬ悲鳴を上げ、船上で一歩後ろずさった目付に、もはや一瞥もくれず首領は再び視線を戻す。そして視線を前方に向けたまま、強く噛みしめるように問う。

「お忘れですか? その化け物を創り上げるよう命じたのが貴方がただということを!」

「既に上様より下知は下っておる! そもそも我らとて、人の世の理を知らぬ《真正の人外の化生》を作れなどと命じた覚えなぞない!」

 目付役の武士は悲鳴をあげるように叫んだ。


 甲鉄艦後部下方、蒸気機関のある船倉に向かった一団。彼らの視界に飛び込んできたのは、蒸気機関に向かい黙々と作業する小柄な男。男は入口の扉が明け放れたことに気付かぬふうに、無防備に背中を向け何やら作業を続けている。その奇妙な行動も、忍びたちの判断に何の遅滞をももたらさない。放たれた無数の苦無が男の背中に飛来する。

 鈍い音ととも苦無は全て男の背中に突きたった。だが男は何事もなかったように背を向けたまま作業を続けている。着込みか! そう判断を下した忍びたちは苦無を刀に持ち替え、男の背中に殺到する。

 ここに至り、ようやく男は振り返り……無造作に両腕を突きだした。

 男の両腕には無数の黒光りする鱗のようなものが生えていた。忍びたちが突き出した刀は吸い込まれるように、その無数の鱗と鱗の狭間に絡み取られる。そして男が特に力を入れたとも思えぬふうに無造作に両手首を半分返すと、絡み取られた刀は高い音を立てて、すべて砕け散った。男が更に手首を半分返すと、逆立った鱗は無数の刃となり、突き出された男の両腕は忍びたちを完膚無きまでに斬り刻み尽くした。


 船奥の弾薬庫で作業を続けていた四人の忍びたちは拍子抜けしていた。

 彼らは更なる上位者からの密命を帯びていた。この船に乗り込んだ《化け物ども》を殺しきれぬときには船ごと爆破し、その存在を地上から抹消するという密命だ。

 作業は順調に進んだ。船内各所から仲間の断末魔が幾つか上がったが、彼らは使命のための尊い犠牲だ。なにせ相手は《鬼すら狩る者》。まともな手段で殺し尽くせる筈もない。

 爆薬を仕掛け終わり、速やかに撤退しようとして……彼らは血臭に気付く。慎重に扉を開いた先に彼らが見いだしたのは、退路を確保させていた部下達の変わり果てた姿だ。

 死体はあまりにも奇妙だった。誰一人として、抵抗を示した痕跡がないのだ。全く無防備のまま喉元を断ち切られている。監視の者には単独戦闘を禁じてある。たとえ抵抗できず殺されたとしても断末魔の悲鳴一つでもあげ、他の仲間を速やかに離脱させるためだ。

 そして長が己以外の――弾薬庫に忍び込んだ部下たち諸共――一切の気配が立ち消えていることに気付いたとき、彼もまた物言わぬ骸となり果てていた。


「何故だ! 何故爆発せぬ!?」

 打ち合わせの刻限を過ぎても炎上する気配を見せぬ甲鉄艦に、目付の武士が怒鳴る。

「……それは一体どういうことでございますか!?」

 答えを半ば予想しつつも詰め寄らざるを得なかった。これが幕府存続のために粉骨砕身してきた彼らに対する仕打ちだとは信じたくなかったからだ。

「上意である! 貴様のようなお目見えも叶わぬ者が知る必要はない!」

「貴方がたはっ!」

 堪え続けてきたものが忍耐の防波堤を超えた。強く噛み締めた唇から鮮血を吹き零し、目からは血の涙を流しながら首領は目付の武士の襟元を掴み上げ、そのまま締め上げる。

「き、貴様、儂を誰だと思っておる!」

「主 主たらずば、臣 臣たらず!」掴み上げた襟をそのまま喉元まで持ち上げ、更に責め立てようとした刹那……首領の頭が石榴のように弾け飛んだ。

「……と、遠町筒!?」そのままへたり込み、船上で尻餅をついた目付は、魂が消え失せた表情のまま呆然と呟く。その顔は首領の血を浴び、真っ赤に染まっている。

 遠町筒とは狙撃用の銃である。しかし信じられなかった。甲鉄艦からこの小舟までの距離は五〇間以上。しかも頼りとなる月明かりは先程から群雲に覆われ、地上は黄泉闇の支配する領域と化している。 これは既に人による業ではない。化け物にしかなしえない業だ。奴らはやはり異形の鬼そのもの……

 そして再度の銃声。瘧のように震えていた目付の男の身体は跳ねたように一度痙攣し、そのまま動かなくなった。

 

 甲鉄艦は船体から本格的に蒸気を吹き出しはじめる。出航準備が整った証だ。

 任務を放棄し、船内から甲板に逃げ戻ってきた忍びたちは既に恐慌に囚われていた。本来忍びにとって、恐怖や焦りという感情は無縁のもの。そんな心の隙間は、一瞬の判断の遅滞が確実に死をもたらす世界では判断を鈍らせる為のものでしかないからだ。

しかし、それは相手が人間の場合だ。たとえ人外の化生とかつては呼ばれた忍びと云えど、泰平の世が二六〇年も続いた今、真性の人外の化生鬼神すら斬り伏せると云う化け物を相手にするなど想定できる筈もなかった。

 文字通り死に物狂いで船尾まで辿り着き、小舟に飛び降りようとした忍びたちの前に、小さな影が立ち塞がる。

 群雲が千切れ、再び漏れてきた月光のスポットライトが浮かび上がらせたのはまだ前髪を上げる年頃にも至っていない童だ。夜の闇に染められた豊かな黒髪は、群雲を吹き飛ばした潮風にたなびき、白い紙のように明るい彼女の肌とのコントラストは、それを眼にした者の魂を消し飛ばす。

「……何故このようなところに子供が?」

 男たちは忍びにはあるまじきことに《この世ならざる光景》に思考の全てを停止させた。この船に乗りこんでいるのは人外の化生だけの筈だ。

 二六〇年もの間にこの国を支配してきた政府、その支配を背後から支えてきた闇の機関。その総力を捧げ産み出した暗殺技術の結晶体は……既に創り上げた者たちの思惑を超え、外界への侵略を開始しようとしていた。

 一つ可愛らしく小首を傾けた童女は、この世ならざる美しい笑顔を浮かべ、男たちに向かって一歩を踏み出した。

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