そして歯車は回りだす

第194話 その日に消えた一つの楔

 陽が落ちてまた昇る――窓の外に見える景色は変化がなく、停滞こそがこの場所の特異性。変わらないことを当然としたここは、逆説的に世界の変化を如実に示す。そして同時に、自らの変化を浮き立たせてしまう。

 ゆっくりと立ち上がった彼は、決して急くことなく背筋を伸ばし胸を僅かに張り、一歩を噛み締めるように部屋を出た。

 一階の左舷から、一部屋ずつ扉を開けることなく立ち止まり、頷いては次へと向かう。

 嵯峨さが公人きみひとという彼の名を呼ぶ人間が少なくなって久しい。そもそも仲間内でだけの本名であったし、嵯峨という姓は有り触れていながらも日本においてはある特殊な意味を持つため、自ら名乗ろうとはしなかった。

 ある友人が言った――公人が持つ創造術式が〝刃物スォード〟という魔術特性センスを持っていることを見抜き、だからこそ〈創造理念エミリオン〉なんだと。

 ただ創る者。使用者ではなく使用を前提にしながらも、しかし利用者を選別する。


 いつだっただろうか。

 かくして創造される刃物が、己から抜けた棘でしかないのに気付いたのは。


 エントランスを通って右舷へ向かい、同じ行動をゆっくりと繰り返す。わかっているのだろう、侍女たちは傍にいない。

 また友人の一人は言った――故に、だからこそ、己の内側にあるべきものを外側に創造する仕組みをただ実行するだけの公人を、〈実行処理エグゼ〉でしかないのだと。

 エグゼエミリオン。

 自ら刻印として扱いながら、いつだとてそれを意識して来た。

 否だ。誰かから渡されたものを、戴いたものを、公人は決して蔑ろにできない。それは自らのものを譲るしか出来なかった彼女への引け目なのだろう。

 公人はわかっている。屋敷を見回るのもこれにて最後、命を削って行動できるは終幕の刻でしかない。

 悔いはない。託すものは託してきた。自らの痕跡が無意味に引き摺られることもないだろう。

 嵯峨公人として。

 エグゼエミリオンとして。

 残るは自らを自らとして最後を締めるだけだ。


 ――変わらないな。


 屋敷の中身は変わらないと思う。普段から侍女が念入りに掃除もしているためもある。何よりエルムの存在が、それに呼応した者たちが停滞しているからだろう。

 羨ましいと思ったことはない。ただ、同情をしたことはある。表には出さないが、いつだとて公人は最後を待っていた。いや、待っていたというよりもその区切りを、区切りがあるからこそ、今まで生きてこれたのだ。

 ふいに、視界に飛び込んできた己の姿はガラスに映ったものだったけれど。

 なんだかひどく、懐かしく思う。

 変わってしまったことにか、それとも変わらないことにか。ふと肩から力が抜けるような微笑みすら浮かびそうだった。

 ――俺は支えられてここまできた。

 それを忘れる彼ではない。忘れたことなどない。そして、これからも。

 二階を一周し終えた彼は、やはり頷いて自室へ戻る――と、そこに。

「――」

 無言で直立して並ぶ侍女がいる。彼が足を進めるとガーネとシディが扉の左右につき、アクアが一礼をしてから扉を開いた。

「どうぞ旦那様」

「……ああ。三人とも苦労をかけた。これからも自らが考え、行動し、生きろ。いいな?」

「――はい」

 返事をしたのはアクアだけで、ガーネとシディは返事の代わりに深く頭を下げた。

 室内に戻り、背筋を伸ばしたまま椅子に腰掛けて外を見る。その、変わらない景色を見納めるために。

 ずっと、その光景を見てきたと思う。

 変わらない景色、風景。それはシディの手入れが丁寧であることを証明し、室内の管理もアクアやガーネが行っていた証だ。

 最初は侍女とエルムだけだった。

 彼女たちの成長は見ていて嬉しく、やがてエルムの紹介でぽつぽつと住人が増え、いつしか夕食のテーブルが埋まるようになって。

 ――鷺花が来たのはよく覚えている。

 息子としては手のかからなかったエルムもそうだが、幼年期からの成長を見届けるのは老いた者の特権だ。それを喜ばしく思い、楽しく思い、そして。

 それも、終わりなのだと自覚させられれば、今度は残される者に何かをしてやりたくもなる。けれど、それも多くはない。

「――」

 振り返らず、その姿のままで、やがて。

「ベルか」

「邪魔するぜ」

 室内に入った三人の侍女と共に、長身の男性がいた。カーゴパンツにジャケットという格好であり、針金質の髪を七三に分けて七の前髪が左目を完全に覆い隠している――いや、隠していた。

「どいつもこいつも、あの場所から離れられない。どういうわけか、邪魔者は俺の仕事らしい」

 言いながら、ベルは対面の椅子を大きく引き、腰を下ろして足を組んだ。

 ふいに、まるで笑うように、悪戯をしようとする子供のように、エミリオンの瞳が細くなった。

「――こうして見ると、老けたなベル」

「歳を食わねえ存在はない。それを誤魔化すか、是正するか、それとも遅いのか――違いはたったそれだけだ。俺はただ、歳を食う」

「俺を、俺たちを恨むか?」

「何故?」

「無理をすればツケが必ず到来する。そうだろう」

「……ああ。ああそうだな、その通りだ。相変わらず他の連中は俺を特別視してるが、俺以上の凡人はいねえと結論に至った。――俺は無理をしている」

 ベルは断言する。

 同じ狩人育成施設にいながらも、この事実を知っているのはアブ――炎神レッドファイアエイジェイだけだ。ほかの三人は、まだ、どこかベルを神聖視している。

 ああいや、後輩のイヅナは、気付いていて黙っているか。

「特別なことがあるとすりゃあ、俺が肉体限界を引き上げていることと、場合によっては限界以上を発現させることにあるだろうな」

「そう……お前は何も特別なことがなかった。雷属性の魔術特性ですら、あかねから貰ったものでしかなく、本質を見抜く思考能力すら誤魔化しと韜晦とうかいの上で成り立っているものだ。他者が感じる脅威も、お前の演出がそうさせている」

「だが恨むのは筋違いだぜ。俺は常に俺の手で選択を得てきた。拒否も拒絶もできる状況で、それを認めたのは俺だ。こうなっちまったのも――俺の理由だろう。エミリオンが負い目を感じるものじゃねぇ」

「だが、確実にお前の先は短くなった。未だ三十の齢を重ねたところで」

「――そう、俺の肉体のほとんどは壊死してる。一番の問題は脳内の配線が切れてる部分だろうな。限界を超えた代償、無理をしたツケってやつだ」

 こなることはわかっていた。だから納得の上で生きてきた。

 そこに、他者へ向かう感情など介在しない。

「……ああ、そう、いつか問いたいと思っていた。ベルは何故、その選択肢を得たのかと」

「誰だって自分がどこまでできるか、知りたくなるだろう? ただその延長だな。ただそれだけのことで、誰の責任でもない」

「そうだな……それは、お前の責だ」

「お前の責がお前にあるように、な」

「……後どのくらいだ」

「一年持つかどうか、怪しいところだ。騙し騙しやってるが、そのツケも回って来る。早いか遅いかだ、来るのに変わりがねぇなら同じことだぜ。そうだろう?」

「――ああ」

 やはり、似ている。

 エミリオンもそうやって、生き急いだのだから。

「間に合うのか?」

「……わからねえよ」

「すまん」

「――いいぜ、気にするな。間に合わなかったんだろ、お前は」

「ああ。俺は結局、あの時に……あいつが消える日に、間に合わなかった。それから今までの俺は、ただの惰性で生きていたようなものだ」

「それでも」

「それでも――俺は、俺のできることをしてきた。間に合わなかった忸怩を抱いたまま、ずっと」

「何をしたって、過去が変わるわけじゃねえけどな」

 それでも。

 ただ、彼は。

 ――俺は。


「俺は約束を守れたのだろうか」


 ぽつりと床に落ちた声を聞いた。アクアは気丈にも決して目を逸らさず、ガーネは俯いて耳を傾けている。シディはぎゅっと強くガーネの裾を握り、奥歯を噛み締めて嗚咽を殺している。

 ベルは。

 その独白に。

「……はは」

 笑う。

「俺に言わせれば、お前は利用されてたようなもんだ。歯車を止めるための楔として、その性質があればこそ、まだ世界は保たれてる」

「そんなものは受け入れている」

「だろうよ」

 だから。

「きっとそんな馬鹿なことを口にする――狼牙ろうがはよくわかってる」

「狼牙?」

「お前らの間に、果たされない約束なんて、なに一つねえよ。狼牙はそう言って笑っていたぜ」

 そう、だろうか。

 そうだっただろうか。

「俺は、約束を守ったか」

「守ったんだろ? そして守り続ける。約束とはそういうものだと、こいつは青葉の言葉だ」

「そうか。……そうか」

 ならばそれは、事実だ。

「あいつらには、よろしく言っておいてくれ」

「必要ねえよ。どうせ、そう遅くなくお前に追いつく。退屈はさせないだろ」

 そうだなと、エミリオンは小さく頷いた。

「あいつは」

 今はもういない、名前を持たなかった少女は。

「魔法師を嫌悪していた。厳密には、魔法師という存在を生んだ世界を。そのためには、魔法師をなくしたいと願っていたはずなのに、俺という楔を作ることで、延長を決めた」

 崩壊への歯車は、回らなくなってしまった。

 世界がリセットをして、元に戻そうとしたのならば、世界中の魔法師は背負っている法則を世界へ返せるのに。

「まあ――俺の知ったことじゃねえか」

 言うが、笑い声は立たなかった。

 躰を揺らすことすら困難になっている。

「どうだエミリオン、送った側から、送られる側になるのは」

「今後のためか? 思いのほか、悔いはない。それに、どうせあいつは、向こうで待ってる」

「そうだな」

 そのくらいの楽しみはあったって良い。

「それに、見送ってくれるんだ、ありがたい話じゃないか」

 瞼が、落ちる。

 昔を思い出すこともなく、ただその暗闇に浸る。彼にとっては過去の回想など、今までにさんざんしてきたのだから、最後の時にするようなものでもない。

「いろんな人に、世話になっちまったな――」

 今、この状況を知っている全員に。

 世話をしていたというよりも、ずっと世話になったような気がしていて。

「ありがとうなあ……」

 彼は。

「じゃ、先に行くか」

 その日。

 嵯峨公人ことエグゼ・エミリオンはその命を絶った。


 その瞬間、歯車にはさまっていた一本のナイフの姿が消える。

 かちり。

 本格的に回りだすのには、まだ、もう少しだけ、猶予があるだろう。世界にとっては、たとえ一年であっても、明日くらいの感覚でしかない。

 かちり。

 けれど間違いなくかみ合った歯車の音色は、小さく、そして。

 ――聞こえる者にとっては、エミリオンの終わりと、崩壊の始まりの音色だった。


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