第193話 寂しくなった宿舎にて
2058年、四月――。
ざっと計算したのならば、忠犬が設立されて四年になった頃合いになるのだろうその日、宿舎にはアキラ大佐が顔を見せていた。
もう、ほとんど宿舎には人がいない。
現状、この宿舎で生活しているのは芽衣と、受付のネッタ・ラックエットくらいなものだ。食事は基本的に外なので、食堂も開いていない。必然的に掃除は二人がやるのだが、芽衣には仕事もあって、戻る日は少ない――が、それも半年前からは改善された。
というのも、無事に大学を卒業できたので、一つ手間が減り、そして心労も減ったのだ。猫族のスズも、そちらに預けてある。
そして、部屋の中。
久しぶりの来訪者であるアキラは、混ざり出した白髪を気にした様子もなく、仰向けになってソファで寝転んでいた。
「……おう、朝霧。久しぶりだな」
「アキラ、確かに久しぶりだがその態度はどうなんだ? まあ、貴様の部屋なので文句はないが」
「今更だろ? この頃の仕事が面倒でな――ん、珈琲か?」
「うむ、私のついでにな」
六杯分は入る容器を片手に、二つのカップにそれぞれ注ぐ。アキラも躰を起こし、まずは一口飲み、それから。
「なんだその顔は。不味かったのならばもう、貴様には飲ませんが?」
「いや味に文句はねえよ……ジニーが落とした珈琲に味がソックリだ」
今度は芽衣の方が変な顔になった。
「喜んでいいのやら、悔しがるべきなのか、わからんな……」
「俺の気持ちがわかったようで何よりだ。名古屋支部からの移動も、これを最後にしたいもんだが――で、グレッグは?」
「ああ、野郎は居場所を作らないし、帰るならば越のところでいいと言って、自由に好き勝手やっているぞ」
「へえ。まあいいが――朝霧、そろそろ日本に来い」
「そろそろなのは、組織の維持が難しい方だろう? 適時解体をしているそうではないか」
「んーまあ、な」
「実情は?」
「
「順当だな、そちらは任せろ。降りかかる火の粉は私に回せ、振り払う準備もしてある。そのためにシシリッテを弟の護衛に回したのだ」
「ああ、そうだったな。報告はある程度聞いてるが、上手くやってるよ。これで俺もようやく、このクソッタレな椅子で尻を磨かなくても良いと思うと、気が楽になる」
「それは結構だ」
そして、珈琲を飲む間が空く。
久しぶり過ぎて言葉を忘れたわけではなく――こうして、黙り込んだ時は大抵の場合、共通している男のことを、どちらかが考えているのだ。
ジーニアス、そんな呼ばれ方をした男のことを。
「これで、最後なんだよ朝霧」
「ん……?」
「ジニーに頼まれたことの、最後だ。いつかお前を、日本に戻せってな。そいつは一時期、あるいは一度でもいい」
「まったく……師匠のそういうところが、また何というか、大げさに見えるものほど精密作業だと、教わっている気がするな」
「お前の方はどうなんだ?」
「むしろ、犬になってからの方が、ジニーの教えを痛感した。たまに夢の中で馬鹿にされる」
「野郎が怒ることはねえよ。叱ることでさえ稀だ――馬鹿にはするが」
「うむ、その通り。何よりそれが気に食わん」
「今更だが良いことを教えてやろう。お前を拾った初期の頃はな、よくジニーも夢を見て飛び起きていたそうだ」
「なんだ、
「――てめえのせいだ、そうお前に言われて目が覚めるんだと」
小さく笑えば、芽衣は腕を組んでソファに背中を預けると、すぐに煙草を取り出して火を点け、前かがみになって左手を額に添える。
「どう反応しろと……?」
「教えることと育てることを両立すりゃ、そういうことになるのさ。そう言って責められても、文句を言える立場じゃない」
「生前はそんな素振り、一切見せずにいたのか……」
「お前が部下の前で、そうあるようにな」
「ふん」
似ていると言われれば心外だ。上官なんてのは常にそうだろうから。
「あー、書類を持って来てねえ……」
「軍部に顔を出すことばかり多くて、疲労が溜まっているようだな。それでも頭に残っているのならば、軽く口頭で構わん。私の配属先は
「ああ。学校に通え」
「それは構わんが……北上たちと同じく、あのVV-iP学園か?」
野雨にあり、象徴だと言われることもある、学園都市とは言わずとも、かなり広い敷地面積を確保した中高大の学園である。学科数も多岐に渡り、愛知県だけでなく、他所からも通う者もおり、学生寮などの設備もかなり広くなっている――らしい。
「いや、お前には県立の野雨西高等学校だ」
「何故だ?」
「歳相応の学校生活ってのを、経験しておけって俺の嫌がらせ」
「ふむ?」
「三学年、情報処理学科な」
「…………それは受ける意味があるのか?」
「授業内容はともかく、日本の同じ年齢の連中を見ておけとは考えているな。それでも、そこから先はいつも通り、お前はただ好きにやりゃいい。後見人――ああいや、保護者には俺がなる」
「お前はそうやってガキを拾うから、面倒になるのだ」
「拾った先は好きにさせてる。そう手のかかるヤツじゃない――お前も、同様にな」
「どうだかな。それ自体は構わんし、大学も卒業資格を得たので、好きにできるだろうが……」
「住居はひとまず、俺の知り合いの寮に行け」
「そこも野雨か?」
「ああそうだ。しばらくは馴染むのに時間をやるが、いずれにせよ後始末はある。部隊の頭であるお前は、特にな」
「それは既に織り込み済みだ、問題ない。というか、私がやろうとせんと、部下が勝手に始末をつける」
「本当、お前の教育には白旗を振りたくなるね」
「勝手にあいつらが育っただけだ」
「そいつも、ジニーが言いそうな台詞だよ、まったく。予備役登録もお前を最後に切るが、何か問題は?」
「今までの給料が支払われているのならば、問題ないだろう。一括でメールでも送ってやれ。就職先を斡旋して欲しいなどと言うようならば、笑ってやって構わんぞ」
「どうせ組織は解体だ」
「私としては、一般人になったから制約がなくなったと、そう考える方を心配しているがな」
「へえ? たとえば?」
「今までの私たちは犬であり、大きく見れば一応、軍人になる。だが、それがなくなれば――傭兵の領分にも、足を踏み入れることができる」
「……スプリングロールか」
「まあな。いずれにせよ、ティオの件もあるし連中には責任を取らせる。アキラが頭を痛めることにはならんだろう」
だってもう、上官ではないからだ。
「――役目は、終わりか?」
煙草を消して問えば、アキラは二杯目の珈琲を注ぎ、吐息を一つ。
「そもそも、組織の前身でもあるインクルード
「であればこそ、数年とはいえ目隠しをしたかった。その役目は、あるいは必要性は?」
「聞こうか」
「副産物は多くあっただろう。あるいは、犬の出した結果などがそうかもしれん――が、私の引き入れも役目の内として考えると、なかなか面白くてな。私は当初、一〇の〝槍〟に関しての不透明さを気にしていた。連中は一体何をしている? 部隊の中で一番槍の役目を負わせられながらも、その結果はどう出ている? しばらくして私が出した結論は、そもそも、連中は結果を出す必要がなかった――そこに尽きる」
「続けろ」
「私が
「だが、今は違うわけか」
「大筋は違っていない――が、槍からこちらに出向した
まるで、疲労をすべて吐き出すような吐息と共に。
「鷺城が育てただろう……?」
「――そうだ」
「私が今まで犬としてやってきたように、鷺城にも何かしらの経験を積ませたかった。だが、鷺城鷺花の存在を明るみには出したくない――あいつの師匠はそう考えたのではないか? だからこそ、どうであれ成長途中に必要なポイントとして、槍という部隊を準備しておき、鷺城をそこに宛がった。ほかの部隊など、体裁を保つためであって、全てが隠れ蓑だ」
「それは言い過ぎだが、ほぼ当たりだよ朝霧、良い読みをしている」
「言い過ぎか?」
「全てじゃない。――朝霧芽衣、お前を隠すためでもあったんだからな」
「……」
「鷺城鷺花の師である、エルムレス・エリュシオン。
「…………」
「なんだその変な顔は」
「変な、が余計だぞアキラ。しかし、勘づいているが、私はこう問わなくてはならんのだろうな。――何故、と」
「だとしたら俺も、きちんと答えるしかない。――そう、ジニーがエルムと約束を交わしたからだ、とな」
掌の上で踊らされた感覚とは違っていて。
なんというか――敗北感が近く、劣等感とはまた別で。
「敵わんな……くたばっているのに、まだ、私はジニーに感謝することばかりだ」
珍しく素直に心情を吐露すれば、アキラは笑った。
「はは、そりゃそうだ。あいつは最高峰の狩人で、お前の師匠なんだからな」
「ふん……楽園の王、か。魔術師として比類なき一人――鷺城の師か」
「そして、お前の持ってる刃物、三番目、そいつを作った人物の息子だよ」
「そういう繋がりもあったのか」
芽衣は左手に視線を落とし、握って開く。三番目の刻印があるナイフを組み立てることは、しなかった。
「ただ、鷺花と違ったのは、お前は経歴の問題から、ここで目立つ必要もあったわけだ。今なら、朝霧芽衣と聞けば、犬かと頷く連中も多い。そういう実績も含み――これでお前は、普通に生きられる」
「面倒事はまだ残っているがな」
「以前と比べれば良い方だ」
「確かに自由度は上がったか……まあいい。そろそろ落ち着けと、そんな遠回しの気遣いも受け取ろう」
「何か質問は?」
「特にないが――ああ、一応これも言っておいた方がいいのかもしれん。ところで、今すぐではないのだろう?」
「ん、ああ、六月末か七月頭くらいに編入だったはずだ。事前調査が必要か?」
「むしろ、先にこちらを片付けておきたい。だいたい二ヶ月と少しか……ま、なんとかなるだろう。爆破解体をするような予定はないので安心しろ。ただ、野雨入りしてからのことだ」
「ん?」
「私は
「……、野雨はインフラが整ってるから、移動に時間はそうかからない。だが、なんだってまた? 武術家の総本山だろう、雨天は」
「いやなに、鷺城から、いつか来ることがあるのならば顔を出せと、そう約束した――……ふむ、今日はお互いに変な顔を見るものだな?」
「鷺花は雨天の娘だ」
「――、は? あのクソ女、武術家に生まれての魔術師か?」
「弟が雨天をやってるよ。待ち合わせ場所には丁度良いのかもしれんが、あいつはまったく……せめてもうちょい先読みを入れてから、約束をすりゃ良かったのに」
「なんだアキラ、問題でもあるのか」
「ねえよ」
「私はてっきり、雨天家に顔を出して家主と一戦交えてみろ――そういうことだと、勝手に思っていたのだが、待っているのは鷺城か? それはそれで構わんが」
「……、武術家とやってみたいと、そう思うか?」
「アキラから基本は教わったが、私はそもそも武術を知らん。戦場で見かけたのは、未熟な糸使いだけだったからなあ」
「
「うむ、その通りだが、まさか私の言う通りにするとは、思ってもみなかったのでな」
「言ってろ」
「だが知らんという意味では、武術家と手合わせできるのならば、やってみたいとは思うがな」
「――じゃ、やるか?」
「む? 貴様が相手か? 老骨に鞭を打つような真似はせんぞ?」
「確かに、かなりのブランクはあるが、武術家としてそんなのは言い訳だ」
「だったら何故言う?」
「簡単な話だ。ブランクがあるってことは、手加減が上手くいかないってことだからな」
「ほう、面白いことを言うものだ」
「そりゃ言うさ。何しろ俺が雨天だ」
「……、……はあ?」
「雨天において、雨天を名乗ることの条件は、雨天家を背負えるかどうかだ。家を出て名乗りを許されてるのは、今のところ雨天の御大と、俺だけだな。ちなみに鷺花は、あれ俺の孫」
「何故それを早く言わない……?」
「それは俺の台詞だ。いや配慮なんだろうが、お前は一度も、鷺花に俺と逢ったことを言わなかったろ? ジニーのクソ野郎は絶対にわかってて黙ってたんだろうが――槍の宿舎で顔を合わせた時、お前のことに関して文句を言われた」
「孫に甘えられてハッピーだな?」
「冗談だろ。だいたい、忠犬って組織の名前も鷺花が考えたんだぜ」
「冗談だろう……」
今さらそんな事実を知っても、殴りたい理由が増えるだけだ。
「……で、どうする?」
「やろう」
「よし。俺もこの職務を終えたら、腕を戻さなきゃと思っていたんだ。丁度良い。屋内の訓練室でやるか」
「うむ、立ち合いはネッタにやらせよう。あれでも、尻がデカいだけでなく魔術師だからな」
そうして、二人はここにきて初めて戦闘を行い、芽衣は武術家の最高峰として
まずは術式なしの体術のみ、拳銃あり。
「ちょっと待て貴様なんだそれは! 銃弾に当身をして45ACPを砕くとは何事だ!」
「こんなの基本だろ。ほれ前に教えただろ、こりゃ〝
「特定箇所に衝撃を与えて内部爆発させるあれだろう? わかる、それはわかるが貴様、踏み込みの軽く曲げた膝、突き出した肩、肘、その三ヵ所だけで砕くだと!? 馬鹿か貴様は! そして殴られた私は痛い!」
「殴っただけだ、ちゃんと衝撃を抜け。――ほれ」
「――、ほれ、とは何だ! 貴様、無手で刃物のような技を出すな! 私の綺麗な顔にぱっくり傷がついたらどうしてくれる! 悦はいないのだぞ!」
「うるせえなァ……おいネッタ、ちょい頭下げてろ」
「へ? ――うわ! 速いし行動も早いっての!」
ぐるりと回し蹴りを放てば、芽衣もしゃがんで回避――ずるりと、訓練室どころか宿舎ごと、斜めに切断されて轟音を立て、崩れた。
「……ん? なんか書類とか二階に……ああ、まあいいか」
「よくわないわよ!?」
「こんな乱暴なことを術式もなしでやるな馬鹿者! 避けるのが遅れていたらどうする!」
「避けただろ……ッたく、本当に女ッてのは、うるさくていけねェよゥ」
ははッ、と笑いながらアキラは踏み込みを見せる。
言葉遣い、気配、態度――そうしたものが、昔に戻ってくる。もちろん、今は老いてしまったが、老成したからといって武術家は、それを辞められるわけではないのだ。
それこそ、生涯現役。
武術を使わず、誰にも見せずとも、彼らはただ、己が武術家であることを忘れない。
「ほれどうした、その程度かよゥ、朝霧中尉殿?」
「組み立てた武装を片っ端から壊すな戦闘にならんだろう!?」
「戦闘をしてねェのは、お前ェの方がだろうが。相手にもならねェなァオイ」
「このっ――!」
久しぶりに、アキラは――
ジニーが亡くなってからは、ずっと忘れていて。
そして以前は、ジニーを相手にさんざんやり合っていた、楽しみの時間。
ようやくだ。
ここにきてようやく――こいつはジニーの弟子なのだと、きちんとアキラは認めることができた。
だがそれを本人に悟られるわけにはいかない。黙っているのが年長者の楽しみ方だ。
ちなみに。
「私はもう武術家と戦いたくはない……」
芽衣は荒い呼吸を整えようと四苦八苦しつつ、なんとか無事に残った床に腰を下ろしたまま、そんなことを呟いた。
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