第186話 いつからか犬として

 その喫茶店に入った時、黒色のエプロンをつけた鷺城鷺花が出迎えた。

「いらっしゃい」

「……何してんだ、鷺城」

「お手伝い。物事に集中するならともかく、発想を得るならいろんなことをした方が良いのよ。注文は?」

「腹は減ってねーよ」

「あらそう、そっちの窓際のテーブルね」

 静かでしゃれた喫茶店だ。大きなスピーカーからは音量を絞って音楽が流れている。ほかに客の姿は、カウンターに一人いるだけで、暇そうだ。

 そんなことを考えていたら、珈琲を持って鷺花がやってきた。エプロンは外している。

「ここの客層のメインは、音楽を聴きに来る人だから。メインは仕事終わりと休日ね。会話が難しいくらいには音量を上げてステレオを鳴らすの」

「へえ」

 珈琲は、美味かった。

「ふうん? やっぱりあんたは、実戦で成長できるタイプね。そっちに行ってから良い経験をしたでしょ」

「おかげ様でな。つーか、辞令をぎりぎりまで待ったのも、理由があったのか?」

「事前準備を与えない方が、現場の空気が新鮮になるでしょ。それを言うなら、文句がありそうなのに、今まで顔を見せなかったじゃない」

「そんな暇はねーよ」

 ついて行くのに精一杯だったのが実情であり、もちろんそれは言わない。

 なぜって。

「あたしにも部下ができちまった」

「育てられた?」

「まさか、フォローしてやってるだけだ。育てるのは中尉殿に任せてる」

「あの子だって、育ててるとは言わないでしょうけれど」

「――やっぱり、知り合いか」

「今さら隠さなくてもわかるでしょ」

 ああ、そうだ。それなりに付き合いがあって、片方は上官ならば、察することはできる。何しろ、あまり隠してはいなかった――が。

「それでも、確証は一切なかったさ。中尉殿が挨拶でもしたらどうだと、そう言わなかったら。あるいは、あんたが今、そう言わなかったら、おそらくそうだろうって気持ちを抱えたままだ」

「共通点はあった?」

「ねーよ、似ても似つかねえ。ただ、あー総合して底が知れないと思った相手は、鷺城と中尉殿だけだ。あとは悦の関連や、年齢とかで推測した。言葉の端に、なんか含みがあったことが何度かある」

「あらそう。ちなみにグレッグはよく知ってるわよ、実際に顔を合わせたもの」

「……なるほどな。つまり、情報が分散してるわけか、わからねーわけだ」

「意図したものでしょうね。それより――犬は、どう?」

「どうって、何が」

「私はこれまで、犬には深く関わらないと決めていた。もちろん、それは朝霧の存在があったからだけど、そろそろ落ち着いた頃だから、どうだろうと思って」

「結果くらいしか、知らないのか?」

「そうね」

「だったら、それが正解だぜ、鷺城。あたしらは結果を出せと言われている」

「……そういう方法で個性を生かしたのね。日ごろからずっと訓練でしょ」

「そりゃな。どういうわけか、あたしが指示することもあった」

「それは私のおかげね」

「初見で幽霊だと言われた」

「あー、そっちは事前情報も含んでる。朝霧とはそういう話もしたし、見てわかるもの」

「それも違和だったな。中尉殿は基本的に、仕事を回すか、訓練の方向性をくれるだけだ。狙撃への対応、罠への対応、死に直結する対応、それから情報戦の方法――どれもこれも、基本ばかりだ」

「あとは自己解釈して取り込んで、違う方法で同じ結果を出せって? ほとんど放任じゃない」

「鷺城だって、似たようなもんだろ」

「む……」

 それは仕方がないことだろう。何しろ芽衣にしても鷺花にしても、育成することがメインではないからだ。自分の成長が第一で、面倒を見るのは二の次である。

「深くは知ろうとしない。ただ、これだけは訊いておく。中尉殿と鷺城の関係は?」

「友人よ」

 その一言で済む。

「こっちに来たのは安堂と」

「シシリッテだ。あいつは風狭かざまだけどな」

「ああ、そう、弟の護衛か。となると朝霧がこっちに来てから、組織の解体と一緒に騒動があるわね。弟のあたりを餌にしておびき出して、あたかも犬のウィークポイントみたいな情報を流せば、その先はだいたい予想できる」

「上手くいくのか?」

「馬鹿ね、上手くやるのよ。そのための仕掛けに半年もいらないでしょうけれど、朝霧がこっちに来るのはもうちょっと先になりそうね。ただ現時点で、犬としての仕事はもう少なくなってるはずよ」

「そうだな。今は、最近入ったばっかのヤツの面倒を見てるくらいには、余裕がある」

「安心なさい」

「あ?」

「兎仔はちゃんと成長してるわよ。あの頃よりは、だいぶね」

「そんな気はしねーよ」

 それが朝霧のやり方だからと、鷺花はため息交じりに言った。

「結論を言うと、成長を実感させない」

「お前、その端的に結論をぽんと投げるの、変わらねーな……」

「わかりやすいでしょ?」

「そうでもねーよ。そもそも成長してんのか? いつまで経っても中尉殿には近づけねえし、今やる仕事で手一杯だぜ。さすがに部下の手前、そういうツラはしねーけど」

「仕向けられてるのよ。ぎりぎりのラインを見極めて、そういう仕事をさせて楽をさせない。過去を振り返る暇がなければ、かつてと今を比較することもできないから、そういう認識が薄くなる。まあ、一長一短はあるけれど、今のあんたたちなら、成長を自覚したって慢心したり、足を止めたりしないでしょ」

「そりゃ中尉殿がいる以上、ありえねーな。あたしらは、あの人の背中をずっと追ってる」

「兎仔、素直に答えなさい。忠犬リッターハウンドってなに?」

「犬とは、中尉殿のことだ。少なくともあたしはそう思ってる」

「兎仔がそう思ってるってことは、部下も同じことを考えるでしょうね。まあ……言いたくはないけれど、それだけの差がある」

「鷺城はどうなんだ?」

「私と朝霧は対等よ。昔も、だいぶ逢ってないけど今も、間違いなくね。ただ、立場は違うから、同じ土俵とは言えないけれど」

「土俵ねえ……なあ」

「なに」

「中尉殿もそうだが、お前のその余裕ってのは、どこから生まれるものなんだ?」

「ああうん、感情があまり表に出ないってのは共通点かな。私もあいつも、戦場では、戦闘では、笑ったり悩んだりする素振りは見せるけど、焦ったり驚いたりって顔はしないから」

「それは規定してんのか?」

「んー、どうだろう、癖かな。もちろん、本当は感情なんて出さない方がいいんだけど、あいつは窮地こそ楽しめって教わってるし、私は私で試験的な意味合いが強かったから、よく首を傾げて考えてた。そういうふうに育ったから、癖になる」

「癖? 余裕が?」

「ああ違う、余裕は別。それは、当たり前だけど経験の蓄積と、技術もそう。ただ、兎仔が望んでる答えは違う」

「そこは結論から言わないんだな……」

「だって結論を言っても過程を理解しないでしょ?」

 この女は変わらない、かつてと同じだ。

 いや。

 兎仔とは違って、躰は成長しているか。

「経験や技術を総じて、その上での読みよ。状況の想定――だとして?」

「……――手数か」

「その通り、この場合は対応手段ね。一つの状況に対して、あんたたちはせいぜい三つだけど、私は十五くらい手段を持ってる。一つが駄目でも、残りの数が多ければ焦る必要もないでしょ?」

「想定不足ってのはよく中尉殿に言われたが、一体どこまで読んでるんだ?」

「さあ……少なくとも、想定外って言われるパターンだけで二十以上は考えてるし、状況入りしてからさらに増やすから、数えていられないわね」

「状況入りしてから増えるのかよ」

「もちろん、新鮮な情報を前に、増えない方がおかしいわ」

 兎仔からしたら、そちらの方がおかしい。現場入りしてしまえば、現場しか見えなくなるものだし、目を逸らすと致命傷になりうる。

 それなりの修羅場を生きてきた兎仔でさえ、この女は化け物に見えた。

「半分冗談だと思ってくれ。鷺城は中尉殿と戦闘ができるか?」

「できるわよ。本気でやるならどっちか死ぬけど」

 今はまだ、それがどちらなのか、確定はできない。再会には一年以上は必要だろう。

「そうか。いい、話は以上だ。――それで、ほかの連中はどうしてる?」

「なあに、調べてるんでしょ」

「いいから」

「ケイオスは変わらず軍部との折衝ね。仕事もそこそこ回してるから、だいぶ成長したでしょう。あんたたちには届かないけれどね。メイリスは年齢もあって、……年齢もあって、仕事を選ばせてる」

「二度言うなよ、泣くぞあいつ」

「現実から目を逸らしても良いことないわよ。元より狙撃手だから、仕事の回数自体はかなり少なくて、こっちに旦那がいるから、普段は日本で暮らしてる」

「暮らせる場所なんてあるのかよ……」

「田舎にね、退役軍人や孤児なんかが集まる村というか、そういうのがあるのよ。のんびり暮らすにはもって来いだけど」

「ふうん。回数が少なくても、狙撃となりゃ責任だけは重い仕事だろ」

「そこはそれ、慣れてるでしょ、そんなの。オユニは本人の希望もあって、ちょっと……いや、かなり面倒な手合いを紹介した」

「あ?」

「日本の御影みかげ、――知ってる?」

 それは。

「――壊し屋、御影か」

「そうよ、さすがに知ってるか」

「名前だけな。かつて教育を受けた時に、そういう特殊な存在については、ある程度は頭に入れられてる」

「オユニは力任せな部分を調整してやったけど、それが面白かったらしくてね」

「また面倒な道を見つけたもんだ。鷺城は?」

「ん?」

「お前も日本で動いてんのか?」

「ああ、ベースはもうこっちにあるけど、今はアメリカが多いかしら」

「宿舎にいるわけじゃねーだろ」

「コロンビア大学に通ってるから、そっちに住居を構えてるのよ。イギリスにも拠点はあるし、状況に合わせて行ったり来たり。でもまあ、朝霧がこっちに来る時には、私も落ち着いているでしょうね」

「まだ先の話だ」

「兎仔は?」

「……まだ決めてねーよ。まだ残ってる部下の面倒も見るし、中尉殿は北上きたかみ七草ななくさもこっちに送ることを考えてるみてーだ。まあ、大佐が名古屋支部にいるから、その関係もあるんだろ」

 何がどうであれ。

「あたしらはもう、犬として生きるしかねーよ」

狩人ハンターと同じね。いつ気付いた?」

「半年くれーか。当たり前にやってることを、やり続けてることを、ふと振り返った時に、こりゃ当たり前じゃねーなと」

 それが生活になっていることに、違和を覚えなくなっていて。

「何より、あたしらは中尉殿の犬として動くことを、喜ばしいと思ってる」

 たった一つ、仕事を振られただけで良い。

 朝霧芽衣がやるべき仕事を一つ減らせたのならば、それは犬としての誇りだ。

「それが、中尉殿がやる仕事なのか、できるけどやらない仕事なのか、そんなのは関係ねーよ。あたしらの追ってる背中に手が届かなくても、犬でありゃそれでいい」

 たとえ、部下全員を揃えたところで、朝霧芽衣の代わりなんてできなくても。

「どうしたって、あたしらは犬なんだよ、鷺城」

「……そう」

 世も末だなと言いたくもなるが、しかし、それは人として当然の行為だ。

 恐ろしい相手がいる。敵対したくない相手がいる。

 そんな時に人は、相手と同じになりがたるものだ。それは、敵対が発生しない状況だから。

 逃げてはだめだ、追いつかれるし、いずれ接触する。だから、最初から近くにいて、いわゆる味方になり続けることの延長として、相手と同化を望むのだ。

 大きく見れば、これもそういう現象だろう。ただ、彼女は心酔にも近いものを抱いている。

「じゃ、あんたの部下ってやつの様子見もしておきましょう。そうすれば、いろいろわかりそうだから」

「ん? ああ、そこらへんは好きにしろ。あたしがとやかく言う問題じゃねーよ。あたしはこっちの空気に馴染んでおくが――なんかあるか?」

「そうね、VV-iP学園には足を運んでおきなさい。それなりに過ごしやすい場所よ」

「諒解だ」

「それと、問題は起こさないように」

「それは安堂から聞いた。夜に軽く歩いてみるが、面倒に首を突っ込まなきゃ大丈夫だろ?」

「そうなさい」

「おー。んじゃ、またな鷺城。会計を頼む」

「馬鹿、私が支払っておくから気にしないの」

 そんなもんかと、兎仔は席を立つ。カウンター越しに、店主へ珈琲が美味かったことを伝えておく。

 さて。

 とりあえず日本で情報を仕入れるための足場を作っておこう――なんて。

 それは、まるっきり忠犬としての思考であった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る