第184話 命令でなく頼みなればこそ
シシリッテ・ニィレは、年齢こそ基準を満たしていたものの、身長が足りないこともあって、訓練校では見込み入隊であった。扱いこそ同じではあるが、いわゆるミソッカスのような扱いで、期待値はそもそもゼロ。それでも幼少期の経験もあって、辛い訓練を乗り越えることができた。
それ以前は何をしていた? ――簡単に言えば、迫害されていた。
今にして思えば自業自得だ。つまり、己を分割して創り上げる〝
――だが。
であればこそ、生き残ることへの自信があった。他人と比較して自分が優位である、なんてことは考えないし、見下した覚えもないが、それでも、自分には術式があるのだと、そんな自負と共に、なんとかなると楽観していたのは事実で。
――
全員が魔術を扱える上に、ほぼ対等と呼べる位置付けに同僚がいて、一日や二日の経過だけで、すぐに追い抜かれる。だからシシリもまた、同僚の良いところを盗み、己を磨き、一歩でも前へ動かなくては――時には、走り抜けなくては、置いていかれてしまう。
そんな環境が当たり前になったのは、いつ頃だろうか。
人が生きるなんてのは、そんなものだと最初から朝霧芽衣は言っていたが、半年を過ぎた頃にようやく、それを実感できたというか、わかってきたように思う。
わかったところで、結果はどうなんだ? それを今、示された。
「貴様も術式の扱いが下手だな……?」
まだ呼吸も整わず、怪我さえなかったものの、衣類が汗を吸って水浸しみたいな状態で、仰向けに倒れたシシリが朝霧芽衣の方へと視線を向ければ、いつものように腕を組む彼女がそこにいた。
――化け物じゃないのか、この人は。
錯誤の時間も含め、三十分という長丁場の戦闘訓練であったのに、汗一つ流れていないように見える。いやそれ以前に、こちらの攻撃が一切届かないのは、どういうことだ。
運が左右するゲームだとて、十回やれば一度くらいは勝てる。戦闘だって、どれほどの熟練者だとて一撃くらいは当たると、今までは思っていたのに――。
「ふむ」
組んだ腕をほどいた芽衣は、近くにあったタオルを放り投げ、足元にある水のボトルを一つ、シシリの隣に置いた。
「質問は?」
「どう、して――攻撃が、一発も」
「いいだろう。答えてやるから息を整えて水を飲め」
言って、芽衣は小さく笑った。それが頭上に落ちてきたのでシシリッテは上を向き、首を傾げる。
「ああ、気にするな。かつては私も、似たような疑問を浮かべて、寝ているクソ野郎に襲撃をしてよく返り討ちになったものだなと、そんなことを思いだしただけだ。シシリッテ、お前がどう感じていたかは知らんが、貴様は対一戦闘において、力や技術よりも必要なものがあることを知らないのだ」
「――、それは?」
「主導権を握るということだ。お前は、お前の意志で一歩、あるいは一撃を出すが、それは私の想定内であり、同時に、私がやらせた攻撃でもある。シシリッテ、やれと言った行為をやった相手の動作を、避けられない間抜けがいるか?」
「そりゃ……そう言われれば、頷くしかないですが、でも、そんなことが?」
「いや対一戦闘の基本だが」
「あの、中尉殿、一ついいですか」
「なんだ言ってみろ」
「中尉殿の言う〝基本〟は多すぎます……!」
今までに何度聞いたことか。
「それだけ貴様らは基本を覚えていないと、そういうことだ。攻め気で誘うなどという低レベルな話ならば問題外だがな。加えて貴様の場合は固定観念が強い。確かに
そこまで言った芽衣は、壁に背を預けて水のボトルを一口。
「あー、どうしました、中尉殿。ちょっと不機嫌そうに見えて、動けるならあたしは部屋を出たいくらいなんですが」
「ああ、ちょっと残影の使い手と遊んだ時のことを思い出して、貴様が見ての通り、少しばかりイラっとしている。時間差で三体ないし四体の襲撃は、さすがの私も心躍ったが、その時の負傷まで思い出してな……言っておくが、時間差といってもほぼ合間なく、だがな」
「そんな経験もあるんですか……」
「まあいい。覚えておけシシリッテ、何も自分自身を増やす必要などない。腕や足、そうした部分を増やすことも選択の中に入れておけ」
「諒解であります……難易度は跳ね上がった気もしますし、今しがたさんざんやられましたものね」
あくまでもそれを〝
「泣き言は聞かんぞ。――シシリッテ、お前に頼みたいことがある」
「……は、それは仕事ではなく?」
これが本題だったのかと思いながらも、その言い回しが普段とは違っていたため問えば、芽衣は少し間を置いた。
「結果、それは仕事になるのかもしれん。そして、状況がどうであれ、貴様は私の頼みを断らんだろう?」
「もちろん。今までずっとそうして来ましたし、犬の中で中尉殿の命令を待っていない者は、いません」
「だろうな。だが、私としては自分で選択しろと、そう〝命令〟したくもなる頼みだ。その上でいくつか、説明しておく」
「はい」
「まず――
「それは、軍部の意向が反映され過ぎているから、ですか?」
「実際にそういう流れはできているが、決定的ではない。しかし、本当に過ぎた時点で、犬はその手に噛みつくだろう。その時に、二匹も三匹も必要はない――私がいれば、ただそれだけで済む。だが、貴様らはもう、私の命令を待つのと同様に、どんな生活をしていたところで、犬としての生き方が染みついてしまっている」
「それが誇りです、中尉殿」
「良いのか悪いのかは、悩みどころだがな。だからこそ、私に言わせればもう、部隊としての体裁など保たずとも、貴様らは上手く生きて行けると安心しているわけだ」
「しかし、あたしはまだ、軍曹殿にすら届いていません……」
「だが、結果を出すことはできる。加えて、私は貴様らを組織に属させた覚えはない。――私を筆頭に、貴様らは私の犬だ」
「ありがとうございます」
「安堂の退役の話を聞いているな?」
「ええ。あの野郎、半年くらい伸ばしたみたいですが」
「それを私は契機と捉えた。組織の解体に貴様らをあまり関与させたくはないし、解体が終わってから新しい就職先を紹介するようでは遅い。そこで、お前にはしばらく日本へ赴任してもらいたい」
「はあ……日本ですか。それは構いませんが、仕事は?」
「その話なんだが――ここで私が、聞いたら戻れなくなると言ったところで、では止めますとは答えんのだろうなあ」
「そうですが、まずかったですか」
「いや、私の育成がそういう方面に影響を及ぼすのだとも思ってな」
――そもそも。
朝霧芽衣は、シシリにとって手の届かない存在であり、憧れと尊敬が含まれる相手で、そして畏怖もある。であればこそ、この人の片腕として、一時とはいえ動けることを喜ばしく思うし、そのために実力をつけてきた。同じ部隊、上官と部下という立場でさえ、繋がりがあるのだと頷けば、足を止める理由もなくなる。
「私には弟がいる。しかし、戸籍上の私は死んだことになっているし、まだ三歳くらいだった弟が私を覚えている可能性は限りなく低い。今は祖父母の家に引き取られているが――ああ、両親も同様に死んでいるが」
「なにか事件が?」
「調べて構わんぞ。私が生きていることから、多少は辿れるかもしれん。ただ、日本では派手に動くと面倒が起きる。そこらは現地入りして安全度を確認する、いつものやり方だ」
「急ぐ仕事でなければ徹底します」
「うむ。でだ――弟である
「詳細をお願いします」
「迷わんなあ……」
「文句は仕事が終わってからでいいと、教えられておりますので」
「まあいい。聞いた後に断っても構わんし、ほかのプランもある。護衛と言ったが、貴様のすべきことは、才華が厄介になっている家に赴き、そこで年齢相応の学生として生活するだけでいい」
「はあ……、え、護衛の必要性はどこに?」
「餌として使うならば一般人と、ティオから教わっていないか?」
「ああ、話は聞きましたが」
「組織解体時に餌として使う予定がある。護衛はその時にやればいい」
「えーっと……?」
「簡単に言えば、安堂と同じく予備役として、呑気に学生としての生活を楽しんでみろと、そう言っている」
「学生、ですか」
「そんな生活とは無縁だったろう?」
「まあ、そうですね。昔ほど学生を見て、クソ呑気な間抜けどもって気持ちもありませんが」
「ふむ。そうだな、大佐が名古屋支部に居を構えているから、そちらで説明を受けることになるだろう。あいつも朝霧家に関しては、それなりに知っている。お前のすべきことは、状況に馴染むこと、日常を楽しむこと、私からの連絡を待つこと――くらいなものか」
「仕事なんか忘れて遊べって言われているような気分ですが」
「そう言っている。ただし、わかっているとは思うが、私の存在を明かすな。そして貴様の素性も隠せ。とはいえ、日本には
「はい、そこは徹底します」
「多少の誤魔化しも含め、配備は安堂と同じにする。場所はそれなりに近いはずだ、詳しくは野郎に訊いてみろ。あの場所がどれほど〝安全〟で〝厄介〟かを知ることになる。何か質問は?」
「失礼、少し待ってください」
水を一気に飲み干して、一息。多少の思考時間をそこで稼いだ。
「状況入りしなくては見えない問題もあるとは思いますが、訓練をするような場所は確保できますか?」
「気になるか」
「気になります。まだ中尉殿のよう、訓練をせずにいられるほどではありません」
「実戦から遠ざかれば、機会も減るか……では、対一戦闘が主体とはなるが、武術家というのはどうだ」
「――武術家?」
「そうだが……ああ、丁度良い」
扉を開いた芽衣は、声を上げて
「どうしま――なんだ、シシリか。ってことはあの話、通したんで?」
「うむ、その話でな。すまんが、私はあの地方に関しては、事前調査をしないと決めているので、よくわからんのだが、
「ああ、小太刀二刀の
「――雨天は、まだ早い」
「でしょうね」
「ということだシシリッテ、上手いこと説明して手配してやろう」
「失礼、そもそもどういう連中なのですか?」
「簡単に言えば、専門家だ。対一戦闘においては、かなりのモノらしいぞ? どうだ兎仔」
「錬度は高いですよ。ただなシシリ、あたしらとは流儀が違う。戦場では役に立たねーって、そう感じるかもしれねーが、連中と同じ〝領域〟でやると、痛い目を見る。良い経験だ」
「――面白そうですね」
「うむ、前向きに考える要素があって良かったな。引き受ける気があるなら、早いうちに大佐に連絡を入れておけ」
「諒解しました」
「ところで、貴様はどうする兎仔」
「配属の話ですか? それとも――」
ふいに、兎仔は左手を表に向けるよう、小さく苦笑して。
「――戦闘訓練の話ですか」
「ほう? なんだ、やる気になったのか?」
微動だにせず、どうすると
「いえ、やめておきます」
「どうだシシリッテ、この対応を臆病だと思うか?」
「正直に言って、あたしのいないところでやって下さい……マジで」
二人の戦闘を見たい気持ちがあるのも事実だが、それ以上に巻き込まれたら死ぬ。
「臆病は貴様の方だったか。――兎仔」
「はい」
「いずれにせよ、できるだけ一ヶ所に留めておきたいのは、政治的配慮も含めて、大佐同様に私も同感だ。足場を整えておくためにも、折を見て帰国しておけ兎仔。二年くらいは猶予もあるだろうがな」
「諒解。
「ついでに、貴様の教官に逢っておけ。――久しぶりだろう?」
「――」
思わず、返事を忘れた姿を見て、芽衣は訓練室を出て行った。それを見送ってようやく、足に力を入れたシシリが立ち上がる。
「どうしました、軍曹殿」
「いや……本当にあの人は、どこまで見えているんだろうってな」
「先読み、ですか?」
「いや、場の掌握、状況の把握、ひいては――主導権を握る、そういうことだ」
「……さっき、基本だと教わりました」
「戦闘でも、状況でも、同じなんだよなー……先読みの精度が情報量って話は聞いたか?」
「はい、ティオから」
「そこに〝経験〟を加味してようやく、戦闘で役に立つ。あのレベルだと、壁を越えないと至れない。先読み、思考誘導、そこからの技能把握。シシリ、そこまでお前ができたとして、相手がどう見える?」
「……まあ、遊び相手くらいかと」
「それがわかっても、どうやればそちら側に行けるかは、わからない。せいぜい壁を越えなきゃってくらいなもんだぞ」
「あたしと軍曹殿の間にも、その壁ってのはいくつもありそうだ」
「はは、その通り。だがお前と同じで、あたしも中尉殿の言葉にはどうも、逆らう気が起きなくてな。お前が赴任する前に、下調べはしておいてやる。現地入りのタイミングは、まだ考え中だけどな」
「じゃあそれまで、あたしはこっちの仕事を済ませておきますよ」
「そうしとけ。――悦のところに顔は見せろ。んで、今日は休め」
「は、ありがとうございます、軍曹殿」
事実。
怪我はないにせよ、打撲は多い。加えて魔力不足――まったく。
「なるほど……主導権を握っているからこそ、こっちの限界まで引き出すわけですね」
「あたしならその前に、銃を撃ってる」
「容赦がないってだけじゃないんですね! びっくりだ!」
「…………」
「冗談です! 冗談! 無言で銃を引き抜かないで下さい!」
うちの上官に対してのジョークは、命がけだとわかっていたのに、どうしても一言付け加えたくなるシシリであった。
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