第183話 酷すぎる待遇、聞こえた不穏な会話

 グレッグ・エレガットは軍役前に、大きな怪我をしたことがある。あまり覚えてはいないのだが、自分の太ももはそれこそ皮一枚でどうにか繋がっているような状況であり、処置してくれたのが軍医であったこと、治療費の請求がどう考えても少な目であったことから、軍人に興味を持ったのも事実だ。

 痛烈なまでに記憶されたのは、感覚を失うという状況に対する恐怖だ。

 最初からないものを、新しく得るのは難しい。たとえばエスパーにおいて、その力を扱うことは、新しい感覚を芽生えさせるものであるとも言われているし、魔術においても、魔術回路の自意識そのものは、第七感の獲得などとも言われることがある。それだけ扱いが難しく、そもそも両手で生活していたのに、もう一本の腕があると言われたところで、意識が追いついて行かないのが、もう最初の壁なのだ。

 喪失感は、なかった。

 痛みで気が狂いそうだったグレッグはしかし、あるはずのものがない状況に、得体のしれない恐怖を抱いたのである。

 実際、このあたりを言語化するのは難しい。太ももから〝先〟に伸びようとする感覚が、そこで中断されてエラーを吐き出し、ぐちゃぐちゃとした脳の中、感覚と呼ばれる認識そのものを、これが正しいのだと、エラーが出て当然だと書き換えて行こうとするのを、必死になって否定し、繋がれ繋がれと念じ続けた覚えがある。

 吐きそうなほどの気持ち悪さがあった。喪失することよりも、が、どうしようもなく生理的に嫌悪されたというか――どうであれそれ以降、グレッグは己の感覚を失うことを嫌った。麻酔を拒絶するのも、それが原因である。

 ――しかし。

 はっきり言って、この状況は問題外だと、思考した。思考と同時に諦めた。

 おそらくやや離れて設置されたベッドには、安堂あんどう暮葉くれはが同じ状況で横になっているのだろうけれど、しかし。

 まったく躰が動かなかった。

 かつてのよう、感覚を失っての嫌悪や恐怖は、まったくない。閉じられたまぶたはぴくりとも動かないし、口の横につけられたダクトで呼吸は補助されているが、呼吸自体も極端に小さくなっているものの、確実にしている。

 仮死状態? ああ、それはたぶん、近いかもしれない――。

 躰が動かない、温度も感じない、気配もわからない。いやいやともかく、生きている感覚といえば聴覚だけで、つまり人の会話は耳に届き、それを脳が処理できている。多くの思考を重ねることができるのだから、時間感覚も曖昧になっているが、脳も正常稼働していた。

 つまり、今の自分は考えることと、聞くことしかできないのである。

 ただ、何よりも怖いのは、定期的に近づいてくる吹雪えつが、無理やり何かの錠剤を口の中に放り込み、飲み込ませることだ。一体何が起きているのか疑問であるし、グレッグは個人的に悦を信頼しているけれど、何をされているかわからない状況が怖い。

「――うん、まあ…………よし」

 なんて経過報告が聞こえれば、いや、何が良いんだよ。まあって、つまりあんまり良くないってこと? ――などなど、疑問が渦を巻き、けれど質問できない悲しさ。ああなんたることか、

 そして、会話が聞けてしまうが故に、恐怖は増加するのだ。

「いるか悦――ふむ、やはり薬の投与が始まっていたか」

「あら朝霧、どうしたの? 尻がでかくなった治療?」

「それはネッタにしてやってくれ。いや、あれはあれで男受けするから治療はいらんか……」

「でしょうね」

「しかし、ここまで身体機能が低下すると気配を掴みにくくていかん。どのくらいだ?」

「まだ四時間」

 、四時間!? ――たぶん安堂もグレッグも、同じことを思っただろう。

「進捗具合は?」

「そこそこね。個人差に合わせて投与してるけれど、なんていうか無抵抗で最初笑えたんだけど、だんだん詰まらなくなってきて」

「新薬は?」

「多少はね。なんで抵抗しないのこの馬鹿ども」

 できないんだよと、グレッグは答える。――頭の中だけで。

「馬鹿だからだ。――はは、しかし思い出すな。この薬を開発した時は貴様、本当に死にそうになっていたからなあ」

「昼に食べた鹿肉がまだ消化しきれてなくて、薬物と反応したのよ。まあ不幸中の幸いっていうか――あの時は末端から感覚が死んで行ったから、さすがの私も治療しようがなかったもの……」

「いや待て、治療しようがなかった対象は私だろう……? あの時は腹を割かれて中身がちょっと出ている状況で戻ったら、医師が躰をぴくりとも動かさずに倒れていたので、むしろ私がどうしようか悩んだとも」

「ああ、そうだったわね。まず私の治療、それからあんたの治療…………あ、追加の薬を忘れてた。あれどこやってたっけ」

「私に訊くな――というか、グレッグと安堂だけか?」

「ほかの子もやったけれど、ここまで効くのはこいつらだけ。七草ななくさはそもそも身体増幅を常時してるから、抵抗を作る必要もなし。シシリは残影シェイドの特性上、平時の自分を把握してあるから対処可能。ともすれば残影に押し付けて、消せばいいだけだし。北上きたかみなんか食べ物全てにっていう属性付加エンチャントしてる」

「小賢しいな!」

「まったくよ、お陰で被検体が減ったじゃない……」

 その声色に冗談の旋律が一切ないことが、何よりも恐ろしかった。

「かつては私もその被検体だったものだが?」

「ちゃんと治療してあげたじゃない」

「それはそうだがな貴様、腹の中で合成して爆発するあの薬はどうかと思うぞ?」

「ああ、あれはもう、毒とかそういうんじゃなかったわね。まるで火薬を飲み込んで内部爆破したみたいになってたし……意図したものではないわよ?」

「どうだかな……ま、いずれにせよ、毒物は将来的に危険性を孕む。対抗手段を作っておかなくてはな――狙撃と同様に」

「こっそり食事に毒を混ぜる朝霧がいたり?」

「私はそんな面倒なことはせん。LDルディが使う装備には必ず毒が混ざっているしな」

「ああ、その話?」

「うむ、随分と前に私の解析情報を渡したが、その結果を聞いていなかったと思い出してな。復元はできたか?」

「ここじゃ機材が足りないわよ……」

 ただまあ、復元は可能な範囲ねと言いながら、錠剤を二つ、それぞれの口の中に突っ込んで、飲み込ませた。

「神経系よりも部分壊死ね。傷口から急速に広がるウイルスだけれど、効果範囲は三センチ程度。ただ、それこそ局部が腐って落ちる」

「やはりか。だがそもそも、LDならば一撃食らった時点で死ぬだろうに……」

「〝保険〟ってことでしょ。ちょっと待ってなさい、精製可能な研究所のリストアップをしておいたから……どこだったかしら」

「ふむ。ところで悦」

「なあに?」

「この状態でナイフを刺したらどうなる?」

 怖いこと言ってんじゃねえよ! ――と、思った。

「麻酔と違って痛覚生きてるから、脳内がぐちゃぐちゃになる感じ」

 もっと怖いことを医者が言っていた。

「私はサディストではないのでやらないが」

「私はサディストだって、誰かが言ってたわねえ……」

 逃げたい。本気で逃げたい。だが躰は一切動かない。ちくしょう。

「――失礼します! 自分は」

「静かにしろルイ、ここは医務室だ。そして軍部ではない」

「は……着任の挨拶に参りました、朝霧中尉殿」

「堅苦しいわねえ。というか朝霧、あんたもうちょっと、あれよ、教育したらどう? 相変わらずこいつら、あんたには敬語ベースだし」

 忠犬の制服を着た、ややひょろりとした印象を受ける男は、出入り口の傍で直立しており、芽衣は腕を組んで首を傾げた。

「ではルイ、貴様は初見であるし、最初にこう命じてみよう。――私に丁寧な言葉遣いをするな。わかったら返事だ」

「はあ……わかりました」

「貴様は出遅れているから、兎仔とこに指導を受けろ――ふむ、その前に私と一戦交えてみるか」

「ちょっと朝霧、ベッドが埋まってるわよ」

「この診療台に一人分の空きがあるだろう?」

「待ってくれ……治療が前提なのか?」

「それは勘違いだルイ」

「そうよ治療じゃない、――手術よ」

f**k'inなんて Jesusこった……」

「対一戦闘は必要だぞ、ルイ。暇だから相手をしてやる、来い」

「ついでに、医者の腕も確認できるってか……? 着任早早そうそう、こんな事態を想定できるか」

「どうした早くしろ!」

「ああ今すぐにでも」

 本気で手術の準備を始めた悦を横目に、ため息を落としながらルイが退室した。

 ルイ・シリャーネイ。半年経過後に拾ったとなると、ほかの連中とは常に比較される。ある程度、今までの教育方針を変えなくてはならないかとは思うが、それは悦の役目ではない。


 ――四十分後に来たルイは死に体だった。


「銃創四発、骨折なし、刃傷にんじょう多数。――致命傷もなし」

 おい、どうして最後、残念そうに言うんだこの女は。

「この程度?」

 悦は麻酔と酸素の吸引機をルイの口につけ、手早く施術を開始した。

「なあに朝霧、あんた甘くなった?」

「甘くせざるを得ない相手しかいないから、仕方ないだろう……」

「それもそうか。――ああ、一応言っておくけれど、そっちの二人、聞こえてるから」

「もちろん知っている――っと、大佐がそろそろ顔を見せる時間だから、私は行こう。夕方には兎仔とこが戻るはずだ」

「はいはい」

 そして、そこから会話はなくなり、やがて手術に使った道具を片付けるような音が聞こえてきたら、ぱしゃりと扉が開閉する音と共に、ほぼ無音の状況になってしまう。

 静かすぎて落ち着かない? いやいや、あの二人の会話を聞くだけの状態よりは、よっぽどマシだ。人間とはそうやって順応する生き物である。

 ぴくりと指が動くようになったのは、いつ頃だろうか。そこを起点にして身体機能の復帰を試みれば、何度かの試行錯誤で手首から先が動くようになり、ほっと安堵の吐息が、己の呼吸を意識できた。

「――まだ立ち上がらないように」

 どうせ倒れるからと、水のボトルをそれぞれの傍にあるテーブルへ。

「水は一気に飲まないこと。話してもいいけれど、大声を出さない――あんたもよルイ」

 上半身を起こし、ため息が一つ。妙に感覚が薄い手でボトルを掴み、どちらかと言えば掴むよりも引き寄せる動作で持って、ゆっくり水を飲んだ。

「うひっ……ちょ、えっちゃん、これ、なに……?」

「ただの水よ。感覚を一度失って再構築されたようなものだから、喉から躰の中に流れる経路がよくわかるでしょ。そうそう経験できないから、あとで私に感謝なさい」

 よくわかるというか、嫌というほど刺激しているような気分だ。まるで真夏の炎天下で乾ききった躰に、水をやった時のような――それよりも酷い感じもある。

「おーう」

「今日は客が多いわね」

「うるせーよ、あたしの部下はどこ行ったって話だ」

 頭を搔いた兎仔はぴたりと足を止めるが、しかし、悦に近づきたいないのが本音だ。何しろ、小さいと言われる悦よりも、兎仔の方が背丈が低いのである。ついでにプライドも小さいながら、守りたい気持ちも多少はあるらしい。

「兎仔、この薬どう?」

「あ?」

「今日、そこにいる安堂とグレッグに投与したんだけど」

「あたしに毒物はあんまし効かないんだけどなー」

 どれと、受け取った兎仔はそのまま口の中に放り入れた。

「うっわあ……軍曹殿、効能も聞かずに飲んだよマジで」

「いつものことだ、俺はもう慣れた」

「うるせーぞ安堂。現場で、この毒は耐性あるから大丈夫って、わざわざ確認する馬鹿がいるか? ――ああ、ルイはまだ寝とけ、挨拶なんかいらね」

「は……すみません」

「情けない姿だぞ? まあ中尉殿を相手になら、そこそこって感じだ。あたしならこんなに上手くやんねーから」

「そうね、兎仔の場合は致命傷与えてから、ここに持って来るもの。ねえ安堂」

「俺に振らないでくれ……」

「お、早いなこれ」

 視線を向ければ、兎仔は額に汗を浮かべていた――いや、違う。

 額から流れる汗の量が増え、六十秒ほどでシャツだけ水に落としたかのような発汗であった。

「へえ? 神経系も残したまま、信号そのものの〝認識〟だけ外す薬物? 特化型の麻酔みたいだな、使い勝手はこっちの方が良いか」

 言いながら、兎仔は額の汗を袖で強引に拭い、ポケットに手を突っ込んだ。

「摂取量にもよるが、八時間くらいは効果があるだろ、悦。口を開けないのなら、拷問には不向きだが、好き勝手できるってのは良い線だ。痛覚だけは誤魔化しようもなく、脳内に届くからなあ……」

「そこの二人はだいたい、そのくらい横になってたわよ」

「だらしねーな」

「えー? っていうか軍曹殿、なんでそう平然な顔してるんです? 耐性ってだけじゃ、そこまで詳しく薬の内容もわからないだろうし」

「グレッグ、あのな、いや安堂も聞いとけ。そもそも魔術ってのは、現実の法則に準じるものだ。つまり、火を熾すのに、術式だとクソ面倒だが、ライターがありゃすぐに済む。その結果、火が熾きたのならば、過程は違えど結果は同じ。これはわかるな?」

「もちろん、基本ですから」

「だったら応用しろよクソッタレ。あのな? 結果、薬で躰の自由が奪われたのなら、それを術式を使って浄化だろうが補正だろうが、可能だって話じゃねーか。あたしは昔から、異物は代謝で外に出すっつー躰だが、それでも最悪、薬の効果をぞ。まだまだ常時展開の術式が甘いなあ……内世界干渉系は常に勉強しとけ」

「へーい。――いくらえっちゃんでも、こんなのは二度と御免だ」

「まあ薬物耐性をつけることも、無駄にゃならねーよ」

「というか、なあグレッグ」

「なんだケイミィ」

「……、中尉殿がものすごく不穏な会話をしていなかったか?」

「忘れろ。――いいかケイミィ、忘れろ。今日の夢に出てくるぞ」

「そんなあんたたちに朗報よ。この薬、食事のあとに飲んでおくこと。グレッグは二度目だからハッピーよね? 最高の悪夢が待ってるわよ」

「マジでこの人、サディストだよ!」

 今晩は悪夢が決定、そんな事実に思わず叫んだグレッグは、喉の痛みに水を流し込んだ。


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