第180話 教育に正解はなく、成果は子にあり
エッダシッド・クーンはつま弾き者だと、学内では有名だった。
そもそも十人以上の学生を取らず、最初から新入生たちに選択肢はない。大学側から推薦された中のうち、エッダシッドが認可した者しか、その部屋に立ち入ることができないのだ。
偏屈者。
皮肉屋。
あるいは幽霊。
部屋から出てくるのは食事の時だけ? いや、そんな面倒な作業をするくらいなら、学生にやらせた方が手っ取り早い――と、これはあくまでも、噂話。ただ、外出において彼女の姿を捉える者が少ないだけだ。
その部屋に、朝霧芽衣はいた。
「本日二人目だ、まったく面倒でしょうがな……」
手元の書類から顔を上げれば、芽衣はこちらを見ていなかった。アイウェアを胸元のポケットに入れたかと思うと、おもむろに腕を組み、十二匹の猫たちを見下ろす。
本来、猫を相手にする場合は視線を合わせるため、しゃがんだ方が良い。だが、あえてそんなことを芽衣はしない。
何故? ――当然だ。
「なんだ貴様ら、もうタマなしか? スズは
まったくと、来客用ソファに腰を下ろして足を組んだ芽衣は、傍にいた猫の首を掴み、強引に膝へと乗せた。
「やあ、やあ君」
「なんだ、クソ情けないエッダシッド・クーン教授殿? 貴様もまた失敗から教訓を得て今の立場に? アキラまでそうだとは知らなかったが、ジニーから話は聞いている。人間の手は借りないと、各地を
「君はジニーも知っているのかい?」
「なんだアキラは何も言っていないのか。エッダシッド、そもそもの勘違いを訂正してやろう。いいかクソ猫、アキラはただの知り合いだ。そしてジニーは、私の師だ」
「ジニーは君の性格を悪くすることは、上手かったようだね」
「何を言う、――アレの方が性格は悪い。だが、私の行動でジニーを汚したくはないからな。志望理由は以上で構わないか?」
「オーケイ、君のやり方は多少わかったよ。だから僕のやり方にも馴染んでもらおう」
クリップボードに取り付けた数枚の書類をテーブルに放り投げる。
「僕はこう見えて忙しい」
欠伸を一つしながら、エッダシッドは猫族の象徴とも言える頭の上の耳を隠しもせず、眼鏡をテーブルに置くと両手を頭の裏で組んだ。
「君みたいな口の悪いヤツを相手にして心労が重なっているし、君の前に顔を見せた学生が相手の弱味を的確に
「アレは性格が悪いからな。そして、こう予言を残した――次の学生はとても性格が悪い、とな」
「僕の返答はこうだ。君以上に性格が悪いだなんて、面白い冗談だね」
「現実はどうだ? やはり冗談だったろう?」
「胃が痛くなりそうだ、とりあえずその書類を完成させてくれ」
「いいだろう、すぐ終わりそうだ。それと、たぶん私の前に来た女が言っただろうが、私も言っておく――貴様の方が性格は悪い。しかし慣れているので気にするな」
「僕は気まぐれなだけさ。僕は僕の方法で君を教育する。それをどう受け取るかは君次第、活用するのも自由だ。そして、僕はその責任を負わない。何故って、僕は教授であって君の師匠じゃない」
「その方が気楽でいい。成果を誇らないのは師と同じだろうがな」
「アキラには伝えておいてくれ。考課表には事実を限りなく多く羅列してくれってね」
「それは貴様が伝えろ。お前はお前の方法で教育する。そんな流儀は一言で済む――私の知ったことじゃない。
「とても」
まともに付き合うと疲れる相手だと、初対面で嫌ってほどわかった。
「スズがいるのかい?」
「ああ、私のところに。今度連れてくるから引き取ってくれ」
「あの子は随分と探し回ったけど、見つけることができなかった。タフだから死んだとは思っていなかったけれど、一体どこで?」
「ギニアだ」
「ああ、さすがにあんな場所まで捜しには行けないよ……何をしてたんだスズは」
「何を言う、あいつは賢くて良い猫だぞ? 飯はよく食べるし、悪戯だって可愛いものだ――部下たちがよく泣きそうになって、後処理をしているが。まったく情けないことだな、猫に負けるとは」
「そんな子をうちに? トラブルばかり起こしそうなんだけどね?」
「ほう? 貴様の専門が〝教育〟だと聞いて、私はここに来たんだが?」
「
「聞き飽きたな、もう少し気の利いた返答を頼む。アキラからはどこまで聞いている?」
「君の部隊も、君の仕事も、一通りはね。僕が気にすることじゃない――だが君は、部隊を教育している」
「そのことに言い訳をするつもりはない」
「評価する気なんてないさ。君のやり方を知りたいだけだ」
そうかと、手元の書類にペンを走らせながら、芽衣は一呼吸の空白を作った。
「完全に統一された部隊など、存在しない。一人ならば個人で完結するし、二人なら別行動。そして三人以上になれば必ず、そこにはどうしようもない差が発生し、四人ならばそれを顕著に感じることだろう。それは実力差でも技術差でもなく、思考の差であり、人はそれを個性と呼ぶ――仮に、それが統一された部隊と呼ばれるのならば、必ず、その中の誰かは、我慢や忍耐の二文字を己の中に抱き、周囲に合わせることになる」
「悪いことじゃあないさ。周囲に合わせることが〝個性〟のヤツだっている」
「だが良いことでもない。だったら機械でも作って集めた方がマシだ――操作するのが一人ならば、な。だから私の部隊は、少なくとも現状、研修期間を除いて二人以上で投入することを避けている」
「それが〝
「そうだ。最大投入単位は一人、そう教えた」
「君ならば、どんな戦場に投入されても成果を出して帰還するだろう。あのジニーの弟子だ、そのくらいは教えているはずさ。けれど、ほかの子たちは違うんじゃないかい?」
「まだ順応中だ、こちらで仕事の難易度くらいは、身の丈にあったものを回している。お陰で私の仕事も多い――が、そう遅くなく、連中は一人で仕事ができるようになるだろう。それこそ、私と同じ仕事でもな」
「何故だい? 君が仕事で忙しいってことは、戦闘技能なんかも、君が教えているわけじゃないんだろう?」
「あくまでも、助言レベルでしかやっていない。確かに軍部から引き抜いただけあって、軍人としての訓練はされているし、我流ではあるが術式も使える。しかし、術式の研究はしていなかったし、現場のための訓練はしてきていなかった」
「だから、それを教えている?」
「――ふむ」
僅かに手を止めて顔を上げれば、エッダシッドはにやにやと笑っている。
「楽しそうだな、エディ」
「もちろんだ。何故って君は、僕の教え子の中でも既に実践しているんだからね。いつだって僕は、学ぶ者が実践した結果を楽しみにしているんだ」
「では、私が貴様から学んだ成果は、決して貴様に見せないよう配慮しよう」
「意地悪だね。――それで?」
略称を使っても気にした素振りはない。芽衣も意図があったわけではないので、そのまま続けた。
「連中にはこう言ってある。――成果はいらん、ただ結果を出せ、と」
言えば、両手を叩いたエッダシッドは、身を乗り出すようにして笑った。
「はは、君はまるで最適解を導き出す数学者のようだね!」
「こんなものは消去法だ。貴様の言った通り、私と同じことをさせるには、時間も実力も足りん。そして、連中だとて私に成ることなど、できはしないのだ。だったら、自分なりの方法でやるしかない。過程が違えど、成果を求めず、ただ結果を追い求めるのならば――それは、一人でやることも可能だ。そうなるよう、できるよう努力しろと言ってある」
「自助努力を強要するわけでもなく、自発的に行えるよう誘導している?」
「最初に、私は、必ず生き残れと命じた。失敗しても挽回して結果を出せば、それでいい。だから結果を出せば生還しろと。――できないと思うのならば、日頃から努力するしかない」
「まるでハンターだね?」
「だが犬は依頼で動かない。仮に狩人のよう何でもできたとしても、連中はそれに振り回されることもないだろう。あくまでもそこそこでいい――私のようにな」
「君は上手くやれって言葉の拡大解釈をしてるんじゃないかい」
「それで楽しめるのならば何よりだ」
「呆れたよ、君はもう立派な教育者じゃないか」
「そう言ってくれるのはありがたいが、私だとて試行錯誤の連続だ。確かに、部下から見れば手の届かない上官に見えるだろうし、そう見せている。悩んでいる姿や、未だに知識を経験に変えている最中など、見せれば士気に影響する。貴様にこう言うのは釈迦に説法かもしれんが――エディ、教育に正解などない、違うか?」
その通りと、椅子の背もたれに体重を預けたエッダシッドは、小さく肩を竦めてから、手元の内線を操作して珈琲を頼んだ。
「若かろうが老いていようが、教育者なんてのは成果を求めたがる。自分が育てたって実感がなきゃ、やっている意味を見いだせないんだよ、馬鹿馬鹿しい。正解がないって気付いていても同じことさ」
「ありがたいことに、私はそんな勘違いをしたことはない」
「どうして?」
「かつて私はこう言った。さすがだな、これも師匠のお陰だ。それに対する返答はこうだ――俺のお陰? そんなものはありゃしない、それはお前のものだ。何故って俺ならもっと良い結果が出せるからな――まったく、今思い出しても腹が立つ男だ」
だがと、芽衣はそこで言葉を区切って。
「訓練校にいた時、私は初めて気付いた。――私に適性があったんじゃないのか? そう問われて、自分が今まで、そんなことを一切考えていなかったことにな」
「へえ……自分が
「そうだ。ともすれば――私のような存在など、作るのにそう難しくはないと、勘違いしていたくらいにな」
「なるほど、なるほど。つまり今は、こう考えているわけだ――最初から上手く、君の適性に順応するよう綿密な
「でなければ、私はもっと早く、私自身の適性に気付いていただろう……だから、教育によって作ることはできず、ただ結果として成るだけだと、理解できた」
「どうして、君に気付かせなかったと思っている?」
「さて、想像の領域であるし、生きていたとしてもジニーは答えないはずだ。しかし一つだけ、わかることもある」
「それは?」
「適性に気付いたところで、――私はジニーに敵わない。自分が特別だと思って足を止めたらもう、可能性すらなくなっていただろう……」
そこで、男が珈琲を二つ持って入ってきた。聞けば助教授とのことだったが、大した会話もなく、置いて退室してしまう。猫たちの目が光っていたからかもしれない――餌の時間はまだのようだ。
「もしかして君は、成功や自分が出した結果に対して、そう、達成感を覚えたことがないんじゃ?」
「たとえば、千ピースもあるパズルを完成させた時のように?」
「それはちょっと違う、達成感って言葉が悪かったかな。やれと言われて、できないことも今まであったろう。だったら努力して、どうすればできるのかを考えて、その結果として君はそれが完了した時――次の改良点を思考するんじゃないのかい?」
「ああ、そういう場面は多かったな」
「千ピースのパズルならば、時間を気にしたり?」
「次はもっとピースを増やそうかと思うこともあるだろう」
「
「想定していた通りの結果が出た時、たとえば車の運転で努力が実って、レコードを更新した時なんかは、さすがに嬉しいと思ったことがある。――師匠には届かず、冷や水をかけられた気分だったがな」
「それだ」
まさにそこだよと、彼女は天井に視線を向ける。
「教育の仕方、なんてのは多くある。けれど、さっきの話じゃないけれど個性があるように、やり方そのものに筋道を持つ者が多くいるんだ。そして、教育者が意識をせずとも、その〝結果〟を見れば、筋道が見えてくる。僕の場合はそれを作りたくないからこそ、責任を負わないと決めているんだけれどね」
「ほう、聞こうか」
「ジニーのやり方はねメイ、口の悪い
「……師匠のお陰だと思うことはあったと言ったが?」
「そうじゃないんだよ。たとえば軍部、訓練校に入った者は、まず走らされるし、穴を掘って埋める作業が待っている。そんなことを
「基礎体力作りもそうだが、命令に従順な兵士を作るには必要な過程だ」
「そう、君はやる前からそれを知っている。どうして? 何故やるのか、それを考察したことがあるからだ。じゃあどうして考察した? 理由がないとやってられないから、疑問を抱く必要性があった――否だ、まったく違う。ただ君は理由があるものだと最初から疑っていなかったし、あるのならばどんなものかと、考えるのが〝普通〟になっている」
「師匠の育て方が良かったんだろう」
「そう――だから実感を持てない。君の場合は確認作業だ、度を過ぎてる。だってほかの子たちは、それら訓練が戦場に出た時、少なからず役に立つことを実感するはずなのに、君の場合は当然だろうの一言で済ませてしまう」
「ふむ」
「いいかいメイ、人とは成長の実感がなくては、やっていられないものだ。どうしたって、訓練を受けて、教育を受けて、それが楽しくても辛くても、成功も失敗も、どうであれその実感がなければ、疑問を抱いてしまう。――本当にこれでいいのか? そうやって足を止めて空を仰ぐ時間も必要だろうけれどね、大抵の人間はそこから足を踏み外すのさ」
「だから軍では、考える暇もないほど、躰を酷使させる」
「しかし一度でも実感を得た者は、その多くはねメイ、求めてしまうのさ。そして実感なんてものは、成長なんてものは実感が難しい。一概にこう言うのも憚られるけど、でも、やはり大成しないものなんだよ」
だからさと、エッダシッドは言う。やはり笑いながら。
「君は、訓練の成果として技術を身に着けても、きっとこう思うわけさ。――だが、ジニーには届かない」
「……ふん」
できたぞと、芽衣はクリップボードを放り投げて渡すと、珈琲に手をつけた。
「実際に、私ではジニーを越えることは、まあできんのだろうな」
「気付いているかい? 君の部下も、同じことを考えるはずだぜ。――でも、やはり君には勝てないってね」
「私はそのつもりでいるが、な」
「親がなくとも子は育つというけれど、誰かの背中がなければ足は前へ進まないものさ」
言いながらエッダシッドは、面倒そうに芽衣が書き上げた書類を折ると、封筒の中に入れてシールで留め、印鑑を押す。
「帰りにこいつを、出てすぐのところに投函しておいてくれ」
「構わんが、内容の確認くらいしたらどうだ貴様」
「そんな面倒なことは僕の仕事じゃあないね。しかし東洋人ってのは優秀なのかい?」
「私は日本で過ごした時期はほとんどないがな」
「ふうん。まあいい、今日はここで終わりだ。また時間のある時に顔を見せるんだね。連絡はするからそのつもりで」
「そうか。ならば次はスズを連れて来る。どうするかはヤツ次第だが、まあ考えておけ。いずれにしても、ずっと私と共に行動するわけにもいかん」
「考えておくよ。ほら、これが封筒だ。僕は寝るよ」
「貴様の行動など知ったことじゃないがな……?」
欠伸が一つ、眼鏡を外した彼女は机に突っ伏した。
「ところで、貴様はどんな猫の姿なんだ?」
「君の下着よりも可愛いものさ」
まったく、こういう返答が性格の悪い証拠だ。厄介な手合いと知り合ったものだ――と、きっとそう思っているのは、お互い様であろう。
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