第178話 夜の酒飲み

 その日の仕事は比較的早く終わった。

 日ごろから学んでいることや、朝霧芽衣に教わったことが役に立つと実感する毎日であり、それでもまだ、一つの仕事が終わればほっと胸をなでおろす。そのくらいにはぎりぎりだったと思うし、大きなミスがなくて良かったと安堵したくもなる。

 宿舎に戻ったのが夜であり、時計を見ればもうすぐ日付が変わろうとしている時間帯であったが、起きてる人がいるなと感覚的にわかっていたグレッグ・エレガットは、入り口から足を踏み入れた途端、右手に肌を刺すような威圧を向けられ、ぎくりと顔を強張らせた。

 すぐに消えたが、常時展開リアルタイムセルしているこちらの防御術式をすり抜けるような威圧だ。改めて探りを伸ばせば、医務室に二人いた。

 無視するわけにもいかず顔を見せる――と。

「おかえり。ちょっと付き合いなさい、グレッグ」

「悦さん……と、ネッタ。晩酌か? 珍しいな」

「たまには酒でも入れて、愚痴を呟きたくなるものよ。こっちは愚痴だから、壁に向かってやってもいいんだけど、相槌くらいは欲しいのに、ネッタは飲むと黙るタイプ。安心なさい、程度は弁えているし、まだそれほど酔ってないわよ」

 テーブルに置かれたウイスキーは既に一本なくなっているが、受け答えは充分できている。

「質問が一つ」

「私よ」

 どうやら先ほどの威圧は、悦がやったらしい。

「まあ、話し相手くらいなら」

「ん。……仕事はどう?」

「今日も大変だったよ。僕はどうも成長が遅い……なんとかできたって結果を出して、次は何にとりかかろうかと考えながら帰ってきた」

「あらそう。あの子の選択は、難しい方になったのね」

「……?」

「朝霧はね、ちゃんとあんたの成長を見越して、教えたことを学べば大丈夫な仕事を回してるのよ」

「――そうなのか?」

「無茶だと思ったでしょう? たった一人で、状況を覆す。その上で死なない」

「そりゃ最初はね。けど、それをできるように訓練するんだろう?」

「今、朝霧がやってる仕事を回されたら、その時点で死ぬわよ」

「それは――」

「それが犬の仕事なの。わかる? ともすれば、犬が本来やらない仕事でも、あんたたちのために引き受けて、回しているのが現状ね。朝霧が暇になったとしたらそれは、あんたたちの成長じゃなく、仕事そのものの減少になる……キツイ言い方だけれど、事実ね」

 そう言われれば、グレッグは黙るしかない。

「ああもちろん、ここだけの話よ? あんたが自己評価をする以上に、ちゃんと成長してるわ。比較対象が難しいけれど、今回やった仕事だって、一般的な軍人から見れば、とてもじゃないけれど達成できない。詳しくはないけど、依頼ならランクD狩人くらいは呼ぶでしょうね」

 荒事を専門にしている相手だけれどと、付け加えた悦は、ちびりと酒を飲む。言葉こそ厳しいが、どこか雰囲気はいつもより柔らかかった。

 仕事――では、ないからか。

「朝霧がどう考えてるかは知らないけど、順調ね」

「それ、ほめてる?」

「酔ってるから、ほめてる」

「ありがとう。でも僕はそう思わないよ。だって中尉殿の背中は、まだまだ遠すぎる。それこそ、比較するのが馬鹿らしいくらいだ」

「そこは地盤の差ね。朝霧だって仕事をして、今の自分を確認しながら成長してる最中よ。危なっかしい……は、違うわね。心配? それもそうだけど。……ああ、うん、そう、たぶん、ひやひやしてるって表現が一番感情的に近い」

「え……なんでまた」

「あんたたちと一緒。ぎりぎりの仕事をしてるわけじゃないにせよ、腕試しなら、それなりのリスクを背負わないと結果が見えないもの。簡単にくたばる女じゃないのは、よーく知ってるけれど、あっさり死ぬような感じもあるから」

 そうなのだろうか。

 正直に言って、直接の訓練も受けているが、そんな印象はまったくなかった。

「――でも、私は口を出さない」

「なんで」

「あいつと違って、私はそれなりに緩いから、多少は言う。でも、朝霧芽衣の生き方には口出しをしない――そう、決めてるの。こんなでも、友人だから」

 言って、悦は小さく笑った。

 笑った。

 いや、人間なら当たり前なのだけれど、そんな表情を見たことがなかったから、思わずグレッグは息を飲む。

「まったく、面倒な友人を持ったものね。あまり無茶はしてないからいいけど」

「いや、さすがにあれは無茶だと思う」

「昔と比べれば、だいぶ落ち着いたわよ。訓練校にも噂くらいは行ってたんでしょう?」

「あくまでも噂だよ」

 いつも悦が使っている書類を書く時に使う椅子を手元に寄せたグレッグは、そこに腰を下ろした。

「飲む?」

「いや、今日はやめておくよ。僕は落ち込んでる時には飲まない」

「あら、殊勝ね」

「教官側がな、厄介な新人がいるって話をしてたくらいだ。正直に言って、あの頃は関わりなんてないと、そう思ってたから」

「ここだけの話――あら、これさっきも言ったわね。朝霧芽衣はどう?」

「僕から見て?」

「そう」

「冗談抜きにして、すごい上官だよ」

「素直に言ったらどう?」

「…………」

 それを口にするのは、度胸がいる。

 自分ではちゃんと認めているが、それでもまだ、言葉にしたことはない。

 きっと、自分以外の連中も同じ気持ちだろうが、それを言ったら最後、自分がどうなるかわからないから、怖い。

 けれど。

 天井を見上げ、小さく吐息を口にしたグレッグは。

「そうだね」

 覚悟を決めた。

「――中尉殿は、怖い」

 自分が放った言葉が、すとんと腹の中に落ちた。

 ああ、これは複雑な心境だ。

 化け物め、と言いたい気持ちと、それでも一歩ずつ背中に迫るしかないのだと、そんな気持ちが同居して、どちらかが勝てば良いのに、どちらも混ざって内側に留まる。

「冷静になった時に気づいたよ。あの雰囲気を間近で感じてはいるが、見た目から推測する年齢は低い。それでいて、俺らを育ててくれている――すごい上官だ。どこかおかしくなきゃ、こんな現実はないはずなのに、おかしいと感じない」

「そのものが、おかしいのね?」

「変な言い方だけど、上官じゃなかったら絶対に近づかなかったと思う」

「じゃあ離れたらいいじゃない」

「無理だよ、もう知ってしまったし、僕はこれでも、中尉殿の部下として胸を張って生きていたい。それに、離れた方がもっと怖そうだ」

「もっと知りたいと思う?」

「……わからない。今はとりあえず、仕事のことで精一杯だよ。覚えることも、訓練することも、何もかも」

「あらそう。グレッグや安堂は、バランス良くやってると思うけど」

「良くも悪くも?」

「自覚してるじゃないの」

「そりゃね――」

 ふいに、そこで。

 おやと気付く。

「……悦さん、ちょっと失礼なことを訊いても?」

「なあに」

「中尉殿もそうだけど、悦さんもだいぶ――若いよね」

「今さら?」

「いや、物腰もそうだけど、僕にとっては頭の上がらない相手だから、そういう目で見てなかったなと思って。そういう意味では、悦さんのことも知りたいけど」

「あら、口説くには早いわよ」

「早いってことはないでしょ。手を出すならともかく、口説くなら早い方がいい」

「じゃ、そういうことにしましょうか。そうね、私と朝霧は同い年よ」

「――そうなんだ」

「私たちの世代は、まあ、そこそこね。大きく見れば、あんたたちだって五つか六つくらいしか違わないんだし、同世代でしょうけれど」

「それはちょっと嫌だなあ」

 はっきり言って、比べられたくはない。

「私は親が医師をしてて、朝霧関連で腕を上げたから、こうなってるだけよ。実際に私よりも腕のある医者もいるから、大したことはない」

「そう? 僕たちへの施術を見る限り、充分に信頼できるけど……でもよく考えれば、それって失敗の上に成り立ってるんだよね?」

「そうね、それが経験だもの。一年くらいは好き勝手してたわねえ……薬の関係も手を出したし、実験したら死にそうな目にあったり。総じてみれば、楽しい時間だった」

「大変そうに聞こえるけど」

「それ以上に楽しかったってことよ。あんたたちもそろそろ、訓練をもっと楽しみなさい。そのためには一人じゃ駄目。そうねえ」

 グラスに入れた氷を見つめた悦は、少し考えて。

「ああそうね、あれは〝かっこう〟だったかしら」

「うちの組織の? 三番目で、敵地潜入を専門にしている部隊だね。部隊というか、ほとんど個人で、四人くらいしかいなかったはずだけど」

「犬が動き始めて一ヶ月弱――朝霧は、そろそろ四人全員の顔を見つけた頃でしょうね」

 だったら。

「あんたたち全員なら、一ヶ月で見つけられるかしら。ああ兎仔とこは駄目、あの子ならもうやってる途中だろうから」

「僕たち全員で、並んでスタートか」

「その方が面白いでしょう? そういう目的があった方が、ティオから学ぶ時も役に立つ。学び方が変わるから」

「確かに」

 その通りだし、面白そうだと思いながら横を見ると、ネッタは半分口を開いてぼんやりしていた。

「さっきから会話に参加してないけど、大丈夫かこいつ」

「気分よく自分の内側に潜ってるのよ。会話は聞いてるから安心なさい」

「……うん聞いてる」

 本当にそうなのか怪しいが、きちんと聞いていないと戻れなくなるため、そこはきっちりしているらしい。

「にしても一ヶ月かあ、早かったなあ」

「早すぎたでしょう? やることばかり多くて、まだまだ課題も山積み」

「本当にそれ」

「良いことよ。欲を言えば、私のところに来るけが人がもう少し多ければいいのに」

「いや、定期的に来ると思うんだけど」

「まだ少ない」

 さすがにその期待には応えられそうにないなと、グレッグは席を立った。

「でも、楽しむってのは賛成。ちょっと考えてみるよ。あんまり深酒しないように」

「晩酌はたまにしかやらないし、たくさん飲まないわよ」

「そっか。じゃ、次やる時も僕を呼んでくれたら嬉しいね」

「はいはい、ゆっくり休みなさい。付き合ってくれてありがとう」

 さあ。

 明日からも課題に立ち向かわなくてはならない――が。

 そうだ、それすら楽しんでやれと、グレッグが自室に戻る足取りは軽かった。


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