第177話 黒猫、ねこ、にゃんこ……?

 ぼんやりと、覚醒した意識が捉えたのは、女声であり、そして会話であった。

 上手く思考が回らず、何をしよう、どうしようと能動的な部分が麻痺して動かない。目を開けているのか否かも定かではない状況で、グレッグ・エレガットはその会話を聞く。

「――つまり」

 それが吹雪悦の声であることには、気付かない。

魔術特性センスが〝増幅ブースト〟であることを問われて、あなたは認めた。その時に朝霧はと言ったけれど、その意味を理解していない。――そうね?」

「……ええ」

「たとえば、医者にとって可能性を追うのは不可欠とされる。膝の痛みを診療する際に、どのような可能性があるのかを考え、副次的な要因にまで手を伸ばす。もし状況が変わればまたのお越しをと言うのは、金を稼ぐためだけとは限らないのね。ではそもそも、可能性を追うとは一体なにか?」

「想像力」

「二割正解ね。そして六割の答えは、視点の変更よ。私は走ることができる、何故ならば足があるから。故に、誰かに走ることを教えることができる。その子には足があるから。――この流れにおかしなことは?」

「ない……ように、聞こえたけれど」

「では結果として、その子は走ることができた。――ここに何が起きた?」

「……技能の獲得」

「馬鹿ね、獲得したのは私が持っている、走行のための思考よ。けれどここには、時間経過と共により明確になる、思考の差異が発生する。どうして?」

「個人の思考、その暗号化に順応するから」

「では最初の話に戻しましょう。いい? 私は走ることができる。では、その子を?」

「――、確定はできない、かしら」

「どうして?」

「走る技能の問題ではないから」

「ええその通り。走りたい、じゃなくて、走りたくないと言う子が相手ならば、その限りじゃないものね。――つまりその差異こそが〝厄介〟であると朝霧に言わせた部分ね」

 ここでその話に戻るのかと、七草ハコは神妙な顔で頷いた。

「魔術の世界において、初歩と呼ばれるものが三つある。知ってる?」

「自己境界線の確立は聞いたことがあるわ」

「もっと基本的なことよ。一つ、魔術特性センスへの順応。これは自分を認めることでもある。一つ、術式範囲の拡大――つまり術式の規模、届く範囲の確認。そして最後に、術式範囲の縮小よ」

「……縮小?」

「どのくらいの隙間なら潜り込めるかと、確認しようとしてたまに挟まってる馬鹿がいるでしょう、あれと同じ」

 いやさすがにそれは違うと思うが。

「いい? まず一つ目、あんたは自分の術式で己の身体を増幅することが可能ね?」

「ええもちろん。身体能力の底上げを基本としているわ」

「では二つ目、その術式を相手に使うことができるわね?」

「――え?」

「ああ、わかっているでしょうけれど、使うのはもちろん、敵よ」

「それは……対策、されていなければ」

「対策されても可能にするため、術式とは研究するのよ馬鹿。そして三つ目――あなた、どこまで増幅できる?」

「それは限度ではなく?」

「心臓の鼓動を一時的に増幅した結果どうなるか、予想はつくでしょう? たとえば、相手の赤血球のみを選んで増幅し続けた結果、血管が詰まりやすい状態を作ることも可能になるわ。もっと簡単に、過呼吸を意図して作り出すこともできる」

「……」

「それが現実的に起こりうる可能性であり、、朝霧の視点よ。ならば? その朝霧の視点を考慮した上で対策するのが、あんたのお仕事ってわけ。少なくとも朝霧は厄介だと口にしながらも、どこまで対策していたかを思い出してはいたでしょうね」

「……」

 そこでようやく、ああそうだと思い出したグレッグは、軋む躰をゆっくりと起こす。寝ていたのは飲まされた薬のせいだろう、パンツ一丁だったので、血に濡れた自分の衣類に手を伸ばし、さっさと着替えた。

「治療、ありがとうございます。僕はグレッグ・エレガットであります、マァム」

 きちんと直立しての挨拶を待ち、椅子に座った悦は珈琲を片手に、大して興味のない顔のまま。

「私は軍医じゃないから、配慮さえ忘れなければ堅苦しい態度は必要ないわ。というかここ、軍に間借りしているだけで、軍部じゃないでしょ。――鬱陶しいから止めな」

「……はい」

「吹雪えつよ。呼ぶ時は、悦を使いなさい。吹雪だといろいろと混同するから。詳細については調べれば出てくるからお好きに。ちょっと待ってなさい――で? ハコ、質問は?」

「あ、うん、そうね。考えさせられることはあるけれど……どうして朝霧中尉殿は、そこまで術式に明るいのかしら。というのは、準備が既にあった――のでしょう?」

「グレッグ、お前は朝霧をどう見た」

「は――、失礼」

 思わず直立してしまったのを睨まれ、咳ばらいを一つ。

「……痛いな」

「当たり前だ馬鹿」

「ああうん、だよね。ふう……いや、ぼんやりと聞いていたけれど、確かに最小限の使い方を改めて教わった。だが同時に、僕にもあの術式の使い方には疑問を覚える。まるで僕の〝プレス〟を利用したような……いや、そうであったとしても、特性が違うのによっぽど、僕よりも圧の特性を知り尽くしているような。ネッタさんに聞いた限り、高名な魔術師でもないとのことだったし」

「そうね。――ん、グレッグ、腹は減ってるか?」

「――ああ、うん、減ってる。もう夕方か、随分と寝てたみたいだな僕は」

「間抜けな顔は見飽きたから、次はもっと先にしなさい。あと薬に対する抵抗くらいつけとけ、死んでからじゃ遅いぞ。――で、飯を食ったらこの錠剤を三つ飲んどけ。今夜はとびっきりの悪夢だ、ハッピーね?」

「……ええ、まあ、そうかも?」

「あ? 文句あんのか?」

「ないです」

 なんだこの医師、ちょっと怖い。

「さて、どこまで話してもいいもんか――と、こういう状況を見越して境界線を提示しておいたあのクソ女が、上手くやってると評価するのが癪だなおい」

「……なあハコ、なあ」

「あとで」

 うんまあ、この状況で話し始めると、たぶん睨まれるだろうし。でもこの人、ちょっとマジで怖いんじゃないか? なんか朝霧芽衣とそっくりだ。

「魔術師――行使者として、あるいは研究者として、朝霧芽衣はたぶん、ネッタ以下でしょうね。ラックエットに関しては調べた?」

「ネッタさんの父親が、魔術師協会でも高い位置にいる魔術師っていうことは。今は退いて雲隠れ中」

「あれで謙遜はしているけれど、尻のデカさくらいには、あの子も魔術師としては飛び抜けてるのよ。こと魔術研究に関しては私も、朝霧もひよっ子として映っているでしょうね。デカいのは尻だけで、態度はそうでもないけれど」

 小さな袋にいれた錠剤を渡した悦は、テーブルに肘を立てて頬杖にする。

「唯一、絶対とは言わないにせよ、限りなくそれに近い断言をするのならば――世界中を見渡しても、朝霧芽衣ほど多くの術式を、見た者はいない」

「……は?」

「状況を詳しく説明はできないけれどね。一年間、私が朝霧に行った手術回数は三百……ええと、細かい数字忘れた。あーなんだっけ、まあ三百くらい。それだけの回数、違う術式を見て、受けて、対策を考えながら成長し続けた。だから当然のように相手の魔術特性を探るし、その結果として何ができるのかも、経験として知ってるし、想像力を忘れていない。――結論、朝霧はとっくに死んでいたってわけ」

 真似はしないようにと、悦は吐息を一つ。

「肩や肘、膝の役目はなに、ハコ」

「力の起点」

「壁を殴った衝撃を受け止めるのが躰なら、仮に、殴る力だけが〝増幅〟された場合、どういう結果が起こりうる?」

「――……そう、ええ、そういうことなのね」

「そして〝圧〟が力の作用ならば、増幅と同じ〝結果〟を出すことができる。その過程が違ってもね。まったく、朝霧の言いそうなことねクソッタレ。やり方は違っても結果は出せ、とかあんたら言われてんだろ。あーよし! もう帰れ、帰れ! おらグレッグ、ぼけっとすんな」

「え? ああ――いってぇ! この人マジで医者か? また血が出てきたらどうすんだよ!?」

「出ないようにやってっから安心しろ。あと、朝霧に殴られて内臓にもダメージ残ってんだから、ちゃんと薬は飲め。いいな? 悪夢を見てどうせすぐ起きるはめにはなるが、ちゃんと寝ろ。おら、ハコもとっとと立て」

「――ちょっと、なんで私の尻を叩いたのよ?」

「あ? ネッタより小さいから安心しとけ!」

 そのまま追い出され、ぱしりと扉が閉まる。お互いに視線を合わせて、とりあえずと食堂へと足を向けた。

「あ、――尻のデカい女がいる。ネッタ、あなた尻がデカいだけが取り柄じゃなかったのね。魔術師、そうねちょっとは尊敬できるかも」

「相手にしてもらえる野郎がいないのに、尻だけデカくなっても仕方ないっつーか……」

「うっさい! あんたら毒され過ぎ! そういうのは、私よりも魔術師然としてから言いなさい!」

 あーはいはいと、受付を通り過ぎてそのまま食堂へ到着すると、すぐにグレッグは食事を頼む。

「肉で。あと――肉を。それと米で。もういっちょ肉。血が足りないから」

「あんたいつも肉じゃない……あ、私も肉で。野菜多めね」

「あたしもハコと同じのくれー」

「……あ、赤毛ちゃんジンジャーいたのか」

「シシリ、あんた小さいから目に入らないのよ。もうちょっと背を高くする努力したら?」

「じゃ、その言葉に応えるかどうか、あたしと訓練してみるか? ――あ、軍曹殿がやめとけって言ってたっけ……」

 クソッタレと毒づいて、お盆を受け取ったシシリッテ・ニィレは近くのテーブルに座った。

「で、グレッグはさっそく医師の世話になったのか。朝霧中尉殿が相手なら仕方なし――ってところか?」

だな、あれは。勉強にはなったさ」

「あの医者、外面に騙されるなよ、。――ああ、もちろん医師としての話だ。特に観察眼が半端じゃない。探りに気付かないほど、自然にやりやがる――ん? ああ、お前らまだその段階じゃなかったっけか」

「未熟者と言いたげね?」

「馬鹿、――あたしやトゥエルブには必要だったんだ。何故か? そうしなくては、補うことができねえからだ。話は聞いたけどなグレッグ、トゥエルブはお前に力じゃ勝てないとわかっている。だろ?」

「ああうん、だから、最初から力で貫き通せば良かったんだと、中尉殿には言われた」

「実際には、その通り――そして大前提、トゥエルブはために動くわけだ。あとは、技術力の話」

「お前もそうなのかジンジャー」

「あたしか?」

「軍曹殿の話によれば、お前も随分と伏せたカードが多いらしいじゃないか」

「いや、そいつは勘違いだグレッグ、あたしはトゥエルブと違ってカードを伏せてない。むしろ今のお前らが相手の方が難しくて、逆にトゥエルブみたいなのが楽だ。ちなみにあたしの魔術特性センスは〝残影シェイド〟な」

「残影……か」

「私は聞いたことがないわね」

「あー調べなくてもいいぞ。簡単に言えば、自分と同じ姿の〝もう一人〟を作り出す術式だ。ただし、複数作って長時間稼働すると、どれが本物かわからなくなって自己消滅する危険があるけどなー。ははは、あの医者、開口一番にこうだ。――安全装置セイフティを過信するな。存在律レゾンを否定するな。……うるせーっての」

 しゃくしゃくと、ドレッシングがかかったレタスを食べながら、安堂暮葉とは違って、彼女は。

「たとえばこんなふうに」

 隣の空いた席に、見まがうことのないシシリッテと同じ姿の残影が出現する。吐息を落とし、食事に手を伸ばそうとするが、その前に消えた。

「ほぼ自意識、つまり思考回路そのものもあたしに準拠してる。違いがあるとすれば一点、本物あたしにはないが、残影には消去用の仕掛けが組み込まれているってところ」

「そこまで明かしていいものなの?」

「明かしたら、ハコはどうするってんだ」

「もちろん対策をするわ」

「その通り――初見、あるいは対策をさせないよう誘導するため、手札を使うのがトゥエルブだ。あいつはよーっくわかってる……だから手札を伏せて、ああいうやり方をした。けど、あたしは逆だ。そう、つまりハコ、一体全体おまえは?」

「それは……」

「ほら見ろ、その時点でトゥエルブが狙う〝疑心暗鬼〟は生み出せた。続いては? いざあたしが敵に回った時にすぐわかる――知っているからこそ〝二者択一〟だ。手の内を知るってのも、落とし穴が多い。逆だよ、あたしはを前提にしてんの。こっちもこっちで、綱渡りだけどな」

 何しろまだまだ、兎仔とこ軍曹にすら届かないのだから。

「ああ……まったくやることが山積みだ」

「んなことわかってんだろ。そういう時のあたしは、目の前のことを処理するぞ?」

「飯食って薬飲んで悪夢に耐える。朝日が出るまで」

「あーそいつは、……ため息も出るか。ざまあみろクソッタレ」

 いつかお前もやるんだよと、軽口を叩いて食事を続ける。

 さて電子戦の方はと口を開こうとして、グレッグはフォークを片手に動きを止めた。いや、止めたというか。

「おい、おいジンジャー、おいハコなんだあれ」

 返答はなかった。

 へそが出ていて、胸のボタンがぎりぎり留められているシャツは、明らかにサイズが小さいものを強引に着ており、それはスカートがずり落ちそうなのを見てもわかる。

 しかし、当の本人は。

「にゃんにゃんにゃー、にゃー、……おばちゃん肉! 肉! タンパク質!」

「あいよー、ちょっと待ってなよ、嬢ちゃん」

「うーい」

 服装なんて気にした様子もなく、嬉しそうな顔で食事を待っていた。

「あんな女いたっけか?」

「さあ……?」

 肩ほどで綺麗に揃った黒髪は艶やかで、振り向いた顔の瞳は僅かに緑色がかっている。間違いなく見たことのない顔だった。

「まあ中尉殿が、どこからともなく連れてくるってのが続いてるしな」

「ティオに続き悦も? どうかしら」

「なんだ、この感じ……」

「おい、どうしたジンジャー」

「いや、どっかでこの違和を……」

 そこに、受付業務が終わったのか、デカイ尻の女がふらりと顔を見せた。ネッタは周囲を気にすることもなく、カウンターに――。

「ちょっとスズ! あんたなんて恰好してんの!」


「「スズ!?」」


「ネッタ、うるさい。ヒステリックにきゃんきゃんと犬みたいに。ちょっと部隊に馴染み過ぎた?」

「服装!」

「これ? だって芽衣の部屋にこれしかなかったもの。タンパク質を躰が欲して――」

「はいおまちど」

「あんがと、おばちゃん! 肉だー」

「……、……私が買ってこないと駄目かー……」

「ネッタはいつものね」

「ああうん、ありがと」

 トレイを受け取って、スズと同じ席に座る。こういう面倒見が良い部分を、芽衣に見抜かれていたのだが、本人は気付いているだろうか。

「え、え、ちょい待ってネッタさん、え?」

「なに、まだ気付いてなかったの? スズは猫族よ、猫族。知らないなら調べておきなさいよ。――へえ? シシリッテは気付いてた?」

「ん、ああ、いや、納得してる最中だ。妙な感じがあったから」

「全部がこういう猫族じゃないけ――ちょっと! 私の肉を食べないの! あんた野菜食え野菜を!」

「んー」

「こいつ……!」

 呑気なものだ――が、普段からぴりぴりしているよしはマシで。

「――はは、ごちそうさん」

 ずっと力不足を痛感しながら、本当にこれで良いのかと疑問を抱きつつも毎日を過ごすのは、苦痛だ。必要だと割り切っても、やることが多すぎて迷いを生む。

 走れ、穴を掘れ、走れ――そうやって命令され、それを実行するだけの兵隊では、もうなくなってしまった。

 常に、考えながら動かなくてはならない。走るべきなのか、穴を掘るべきなのか、それすらも自分の判断だ。つまりそれは、責任を負うことに通じる――ならば。

「おー、薬飲んで悪夢の時間か。あはは、寂しくなったら言えよ? 録画して全員に回してやっから」

「あらそれいいわね」

「ねえよ……」

 笑って済ませろ。

 彼らはそう、朝霧芽衣に教わっている。だからそれでいい。

「ごちそうさま! 寝る!」

「あんた寝てばっかでしょーが! 太るわよ!?」

「え、ネッタと一緒にされても困るんだけど……?」

「うるさい!」

 ただ、元気過ぎるのもどうかと思う。主に一匹は、本能に赴くままである。


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