第164話 隠居に似た青色
住宅街というのは、似たような家が並んでいる。違っているのは庭の景観くらいなもので、だいたいは同じ敷地、同じ建物、同じ色。ただ指定された
以前は、記憶にある限り、雨天の家で顔を合わせていたので、こちらに来るのは初めてだ。蓮華のことも、なんとなく覚えている程度である――が、相手の方がよく知っているだろうし、緊張はない。
インターホンを鳴らせば、返事はなかったがすぐに玄関が開いた。
「よう」
男性にしては少し小柄な蓮華は、笑って出迎えた。
「暁から聞いてるぜ、久しぶりだなァ鷺花。つっても、お前は覚えてねェか」
「うん、ほとんど記憶にないくらいだけど、ぼんやりとは。よろしく、蓮華おじさん」
「まァ入れよ」
案内されたのはリビングで、並ぶようソファに座る。正面には小型のテレビと、両側には大きなスピーカーが鎮座していた。
「
「まァな、よく話をしてるよ。今はエルムのところだろ? どうよ、日本が恋しいか?」
「んーどうだろ。あっちにいる時間の方が長いから」
「――あ? あいつまたサボりか」
玄関から物音がした。
「ただいまー」
すぐにそんな声があり、ひょいと顔を見せたのは、少女。
蓮華の娘である、
「あれ? お客?」
「――っ」
目が合う、おそらくほぼ同時に、鷺花は書物を幻視した。
厚い装丁でありながらも、表紙は黒く、何も描かれていない両手で抱えるほど大きな本が、目の前で開き、ぱらぱらと内容をこちらに見せるが、中身もまた黒塗りで何も読めとれない。
知っている?
記憶にはない、ないが、もちろんそれを読み取れもしないが――それでも。
それを知っていると、そんな確信があって、きっと鷺花が違う認識で見ているものが、彼女にとって、連理にとっては本そのものなのだと理解する。
そして。
手元に落ちていた視線を上げれば、そこに。
灰色の世界。
広い世界。
そこで存在感を示しているのは、無数の、大小の歯車が埋め尽くす空間。
それが、ギチリと、不協和音を奏でる。
その音で頭が痛む。
回ろうとしている。
回りたくて仕方がない。それはそうだ、歯車という装置は、全てがかみ合って回ってこそ、真価を発揮するのだから。
けれど――回らない、回れない、だから嫌な音が出ている。
その原因は――。
「ちょっと、大丈夫?」
飛び込んできた声に、小さく吐息を落とし、左手で軽く額を押さえた鷺花は、苦笑を見せた。
「うん、ちょっと頭痛がしただけ。久しぶりね、レン。覚えてないかもだけど、鷺花よ。暁の娘」
「ああー、鷺花かあ。え、何してんの」
「今は国外で暮らしてるからね、久しぶりにこっちに来たから、蓮華おじさんに挨拶。そっちは学校じゃないの?」
「退屈だから帰ってきた。邪魔してもあれだから、お茶だけ出すよ。ゆっくりしてって鷺花、主に父さんの相手をお願いね」
「はいはい」
ちゃんとこちらの用事をわかっていて優先するあたり、ちゃんとしている。
連理が飲み物を持ってくるまでは黙っていたが、蓮華はお茶を一口飲んでから、口を開いた。
「落ち着いたか?」
「ん……だいぶね」
「感受性が高いのは、お前の法式が関連してるのかもな。今はもう封じ込めてるんだろうけどよ」
「……私の反応でわかったの?」
「揃ってる条件を改めて確認しただけだよ、こんなのは。俺一人じゃ反応しなかったのに、連理が顔を見せた瞬間に合致した。見えたのは本か?」
「うん。あれは連理が持ってるのね」
「どこまで理解した?」
「あの本が世界そのものだってことだけ。それと」
「歯車を見たか」
そこまで、わかるのか、この男は。
「いやこっちも大したことじゃねェよ。頭が痛いッて時は、嫌な音を聞いた時だろうし、繋がりもある。暁は何も言ってなかったが、お前の聞きたいことも似たようなことだろ?」
「――野雨にあるの、この歯車は」
「あるのは、もちろん世界だ。けど鷺ノ宮事件の時に、俺が通した道がここにあるぜ」
「……蓮華おじさんが?」
「おゥ、場所としちゃ野雨西から入ったが、まァ入り口は今となっちゃ閉じてる」
「閉じてはいるけれど、道が一度でも通じたのなら、解釈次第では、野雨のどこからでも通せる」
「野雨の空気がおかしいの、それが原因?」
「いや」
それはちょっと違うと、蓮華は頬杖をついた。
「理由の一つではあるぜ、そいつァ間違いねェよ。突き詰める――ッて話よな」
ところでと、そこで一息入れて。
「そういやお前、まだ鷺花のままか?」
「あ、うん、今は鷺城鷺花」
「それでか」
納得だと、蓮華は言う。
「さて……どこから話したもんかな。話さないと理解はできねェ、話すぎりゃエルムが文句を言う。丁度その中間を上手くやらなきゃなァ」
「長い話になるの?」
「現状、お前がわかってることは何だ」
「歯車にはさまったナイフ、たぶんあれエミリオンのもので、東京の中心に置いてあるってことくらいは予想したけど」
「まァ気付くよな。じゃあここで疑問の列挙だ。何故――と、始める。まずは鷺ノ宮事件が起きたこと。東京事変が発生したこと、歯車があること、それに野雨からは接触できること。エミリオンのナイフ」
「――全部繋がってる?」
「そりゃァそうだろ、なに一つとっても孤立してることはねェよ。ただなァ鷺花、鷺ノ宮事件の後始末をしたのは俺だけどよ、当事者じゃねェよな、こいつは」
「当時、何が起きたの?」
「知ってるだろ、鷺ノ宮家が潰れたンだよ。現実としてはただ、それだけだ。けどまァ、わかりやすく言うと、あの歯車が回った。エミリオンのナイフをつけたまま、ガチガチうるさくてなァ」
「……」
「全ての始まりは、あの歯車の発生だぜ、鷺花。けど俺やエルムに言わせりゃァ、歯車は常にあった。いつまでもあるし、どうやっても消えない。ただそれが必要な時に回るだけの代物だ。それをクソッタレと蹴り飛ばしたのが、始まりの一人」
「――始まり?」
「鷺城が元は
「え、ああ、うん」
「
「――違う」
そんな単純なものではない。
譲渡なんて、自分の持ち物を他人に渡すことだとて、魔術式の中では厳密なルールがあって、それはいうなれば、世界そのものが定めた規則でもある。
誰かに譲って違う名を使い始めるのだとて、完全に本人が忘れたのならばともかく、そんなことはまずないし、人はいつだって認識を外せないものだ。
はいそうですかと、切り替わるものでもなし。
けれど。
「
「それはジニーなら、当事者だった?」
「おいおい、ジニーを引き合いにする理由は推測できちまうが、それは置いておくとしても、お前にはもっと身近な相手がいるだろうがよ」
「……?」
「始まりの一人、名もない少女が一番最初に接触した相手――そのハジマリは、その刃物を創るだけの男に、
「――っ」
「そこが始まりだ、何もかも。俺の動きなんてのは、先読みよりは立て看板を読んで、できることをやっただけだよ。まァ何にせよ、当時の後始末ッてのは、結局のところ鷺ノ宮を鍵にして歯車が強引に回るもんだから、その余波があちこちに出て、それを収束させることだ。俺一人でやったわけじゃねェよ、状況から利用できるもんを利用して、やることをやっただけ」
部屋の換気扇を作動させると、悪いなと一言断って、蓮華は煙草に火を点けた。鷺花はジニーで慣れているので気にしないと伝えた。
「それと、鷺ノ宮事件の当事者は翔花だぜ」
「え、母さんが?」
「身内だと見えなくなるもんか? 小波が魂ノ宮のものだって言っただろ。自分と似たような事情だと、そこから推測の手を伸ばすんだよ。そこらは本人に聞いてみろ。エミリオンはともかく、翔花なら簡単に話しそうだ」
「うん。……わからないことだらけだ」
「そりゃそうだろ。わかってるなら訊かないだろうし、その場合はエルムが話してるッてことになっちまう。あいつの性格上、それはねェよ」
「師匠はね、なんかまともに師匠らしいことをしないから」
「あいつは昔から、理解してることの方が多くて、話さないことを選択しがちだからなァ」
「というか、蓮華おじさんの思考にもちょっと追いついてない。飛躍してない?」
「んー……どうだろうなァ。連理とはこういう話はしねェし、理解できねェ相手に話すこともそうないから、よくわかんねェよ」
「そっか。うん、ありがと。いろいろ考えて、母さんとじーちゃんに話を聞いてみるわ」
「そうしとけ。また逢う機会もあるだろうし、今日で全部詰め込まなくても良い。五年やそこらなら、――まだ大丈夫だ」
意味深な言葉だ。まるで、十年先になれば、大丈夫じゃないようにしか聞こえない。
「で、こっちに拠点を構えるのか?」
「ああいや、まだ経歴作りの途中かな。それなりにやることもあるし」
「なんだ、そうなのか」
「これからベルのとこ行って、馴染みの医者に逢って、一日早く戻って屋敷でじーちゃん……エミリオンと話して、それからは米国かなあ」
「忙しい合間を縫っての帰国だったか。でも去年だって戻ったンだろ? 暁が言ってたぜ」
「まあね。そりゃ実家にだって顔を見せないと」
「ふうん? ……ま、だいたい予想できたけど、俺からは黙っておくか。ここ一年で何してたのかも」
「わかるの?」
「お前と違って、見え方も捉え方も違うからなァ。先の予測なんてもんは、振り返った過去の積み重ねから来るもんだし、エルムが絡んでるとなりゃァ、そこからの縁を辿ってやるのが一番早い。加えて、お前の育ち方だな。最初の頃がどうだったかは知らんが、何を積み重ねて、今がどうなっていて、こっからどうなるのか――そういうのを見るんだよ」
「単純に、すごいわね」
「育ってる最中と、落ち着いた俺を比較する必要はねェよ。ただお前、間違いなく同年代の連中と混ざり合わないから、そこは諦めとけ」
「……? そう?」
「自分の弟を見て、まともに対峙できると思うのかよ」
「そう言われれば、私は頷くしかないんだけど」
「連理だって、あのザマだ。……いや、そのうちわかるか。どうせこのあたりは、いずれとは考えつつも、暁のアドリブだ。俺がとやかく言う話じゃねェ」
「そういうとこ、弁えてるね」
「余計な面倒が嫌いなのは、誰だって同じだよ。それに俺は引退したようなもんだ、気楽にやってるよ。まァなんだ、余裕があるなら野雨の情報も集めておいた方がいいぜ。特に同世代」
「混ざり合わないんじゃなかったっけ?」
「だからだよ、知っておいて損はねェ。たとえば、橘の四番目や、九番目とかな」
「覚えておく。というか、知らないことの方が多いし」
「そうか。んで、ベルに用事か?」
「
「あいつは駄目だろ、まだ勉強中だぜ。なんか目的があるのか?」
「最低限、電子戦公式ライセンスA級は取っておきたい」
朝霧芽衣と同じ土俵にいなくては、また嫌味を言われそうだから。
「いいんじゃないか? 一度くらい爵位を取ってもいいと思うが、まァそこまでの暇はないだろうよ。目的があるうちは楽しめ、焦る必要もねェよ」
「うん、ありがと」
そこからは、ありふれた世間話だ。主に、イギリスの屋敷にいた時の内容が多かった。
蓮華は多くを知っていて、話さない。
なんだかエルムと似たような雰囲気を感じた。
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