第163話 一年で変わってしまった故郷、いや、変わったのは
一年ぶりの帰郷だが、なんだか日本へは戻る感覚が強く、もちろん実家に帰省することは悪くないけれど、ただいまと言って安心感があるのは、やはりイギリスの屋敷だ。
理由は過ごした時間だろう。ただ、親戚の家へ行くような感覚はなく、家族に逢えるんだという気持ちはあるので、あまり気にしないでもいいかもしれない。
以前もそうだったが、日本に戻る時は公共の空港を使わず、
去年も同じことをした。
鈴ノ宮
だが。
一年前と違った。
――なんだこれは。
たった一歩、鈴ノ宮の敷地、つまりはその区切られた結界から出た瞬間、鷺花は勢いよく左右を見渡し、それから足元と空を見上げた。
「なんなのこれ……」
去年から今までに何かがあったのか?
いや、違うなと鷺花は二歩目を踏み出して考える。たぶん、去年は気付かなっただけで、この場所は、
何故だ? その答えは出ないので、何がどうなっているのか、目の前の問題に取り掛かる――この思考もまた、朝霧芽衣の影響を受けたものだろう。想像力を働かせて理由をあれこれ出すよりもまず、目の前の分析から始めるのだ。
魔力が濃いのか?
自然界の魔力は、場所によって濃淡があるものだが、濃いと表現するのは少し違う。ただ、一般的な――自然なものでは、ない。
かといって作為的でもない。
鷺花の直感的な答えを口にしたのならば、それは。
「――混ざりものだ」
もう一度、見上げた空の上には、日中には姿は見えないけれど、間違いなく、夜間には見ることができる、紅月の存在がある。そして紅月からは、独特な
では、いつからだ。
そして、何のために。
過去のことなら、確定事項。であるのならば、手段は棚上げしてしまえば、おのずと正解は見えてくる。何しろ既に起きていることだから。
けれどここから先は、わからない。
それこそ想像するしかない。
いろいろと考えながら歩いて、自宅に到着する頃までに出した結論は、野雨がある種の特異点になっていて、それがまだ終わってはいないこと、この二つだけだった。
入り口から入れば、相変わらず落ち着く
「ただいま」
「うむ、おかえり鷺花。ちゃんと覚えておるぞ」
「うん。じゃなきゃ返せって言うところだったよ」
「ははは、なあに、忘れんとも」
どうだかなと思いつつ、人の気配がある道場へ。
邪魔をしないよう声をかけなかったが、すぐに。
「おゥ」
「ただいま」
「おかえり。――よし、少し休憩だ
「うん助かる。おかえり鷺花」
今日は小太刀の扱いがメインだったようだ。自然な動作で納刀した小太刀を引き抜いた、父親である
――そのまま、呼吸をするよう抜刀した。
居合いである。
紫花は、この怖さをよく知っている。呼吸をするように攻撃をするなんて言われるし、今まさにそうであるし、さらに言えばそれを受けたこともあるが、そもそも感知が難しい。
だって、日常的に相手の呼吸を見る人間なんて、ほぼいないじゃないか。
戦闘ならば、呼吸を読む。だが、普段の生活で会話をしていて、相手の呼吸を見るなんて、一般人なら想像もしないだろうし、意識もしない。それは誰だって同じだ――武術家だとて、似たようなもの。
ただ、初動の起こりをどう把握し、察知するかが重要になる。
ぴたりと、刀が停止する。
寸止めではないことに、紫花は驚いた。ちょうど鷺花の肩の位置、どういうことだと半歩躰を動かせば、暁の躰で隠れていた部分が見える。
「ん……止めなくてもいいのに」
肩よりもわずかに外の場所で、鷺花の右手、ちょうど手の甲が刀の腹を下から押し上げているところだった。
「鷺花、お前この一年、何してた」
「へ? 何って」
なんだろうかと考えれば、必然的に思い出すことになり。
「そりゃまあ」
刀が納刀の動きを見せたので腕を組み、首を傾げた時点で舌打ちが一つ。
「サバイバル生活に近いような」
足で二度ほど床を叩く。
「――クソッタレな戦闘訓練みたいなものを、してた。まだ消化はしてないけど」
腹が立ってきた。
「なにイラついてんだ」
「いろいろあったから」
去年も似たような居合いを見せたが、その時はこんな対応をしなかった。自然な動作で、軽くやったのにも関わらず反応できたとなると――。
「まず紫花」
「なに?」
「鷺花とはやり合うな」
「わかった。やらないけどね……」
「それから鷺花、質問が一つ」
「どーぞ」
「対武術家戦闘」
短いその台詞を聞いて、ああと頷く。
「父さん以外なら、まず足を踏むところから。あれ、意外と効くんだよね。そうでなくとも武術家って、基本的に相手の足を踏まない踏み込みをするから、そのあたりの操作も組み込むと効果倍増。あとは相手の得物次第」
「なるほどねェ」
「父さん」
「おゥ悪い、水浴びして着替えていいぞ」
「よかった。このままじゃ落ち着けないからね。鷺花、あとで母さんの相手もちゃんとするんだよ」
「わかってるって」
弟との距離感は、楽でいい。そもそも遠いと思ったこともないが。
そして、紫花が道場を出てしばらくしたら、暁は笑う。
「足、踏まれただろ」
「初見の時にね。やられた、とは思わなかったけど、結果的にかなり劣勢に追い込まれた。綺麗な戦闘ばっか経験してたんだと、痛感したわよあれは」
「鍛錬が中心の生活をしてると、基本的にはそうだ。――で、本当は何してた」
「時間を決めての殺し合い。六時間から八時間くらいが平均値」
「へえ、加減は?」
「んー、どうだろ。あいつ死なないし、大丈夫だって思ってたから」
お互いに。
「まずいって思う瞬間はあったけど、まあ、死んでないから大丈夫。腕の良い医者もいたからね」
そういえば、悦はこっちに戻っているはずだ。時間があるなら、逢っておこう。
「でもまあ、言うほどじゃないでしょ。それより父さん、訊きたいことが一つ、頼みが一つ」
「おゥ、言ってみろ」
「野雨って、以前からこうだった?」
問えば、暁は苦笑して道場の外へ。鷺花もそれについていく。
「変わっちゃいねェよ」
「原因は鷺ノ宮事件?」
「お前、こっちにいつまでいるんだ? 次はどうする」
「へ? ああうん、予定は五日くらい。次は、師匠の指示でなんか軍だったか組織だったかの、教官やれって。半分以上、育成じゃなくて私の痕跡消しのためだと思うけど」
やるからには、手を抜けない。
「予定は特にないんだろ? 明日、
「蓮華おじさん? そういえば、私が向こうに行ってから、逢ってないけど、今でも?」
「正月やお盆には顔を合わせるさ。お前が疑問に思ってるあたりは、蓮華の方が詳しい」
「わかった」
「それで頼みってのは?」
「
「いや……知らねェな。用件は」
「電子戦を覚えたくて」
「あァ、それならベルのところ行け。その方が早いぜ。そっちも連絡を入れておいてやるよ――つっても、それは
「うん、じゃあ私から頼んでおくよ。蓮華おじさんの方はよろしく。……紫花は順調?」
「本人がどの程度を望んでるかにもよるなァ。俺はべつに後継者を作ろうと思ってるわけじゃねェし、望むのはいつだって紫花だ。ただまァ現状じゃ、百回やっても鷺花が百回勝つ」
「勝つ?」
「そう、勝つンだよ。殺し殺されッて段階でもねェ。もちろん体術のみなら話は別だ」
「んー……そんなに術式を使うつもりもないんだけど」
「お前が知ってる通り、術式なんてのは補助だ。それをどこまで見抜けるか、対応できるかッてのは、知識よりも経験が重要視される」
「ああうん、ここ一年でそれは充分に痛感した。同じことをやるのを間抜け、改良して当たり前、裏を掻いて二流、通用してようやく一歩目」
「はは……そりゃ随分と厳しくやったなァ」
厳しいというか、これも朝霧芽衣の台詞である。
「四年後とか、そういう話だけど」
「おゥ」
「武術っていうか、得物? 一通り教えて。たぶんこれからの仕事が落ち着いて、こっちに拠点作ってからだとは思うけど」
「どの程度だ?」
「私が使えるかどうかって話は、当時にならないとわからないけど、一通りの技は見ておきたいかな。ただ武術家にはなれないから、そこらは任せた」
「まだ先の話だな。そういや、
「あーそっちはまだ、出てないから。年齢は私と同じくらい? なら……」
たぶん芽衣の方がと言いかけて、やめて。
「運が良ければ、生きて戻るでしょ。私も覚えておく」
あくまでも、この一年は、正式になかったものの方が良いはずだ。少なくとも、今は。
「とりあえず、今日は家でゆっくりする」
「おゥ、そうしとけ。――あ、鷺花おまえまた
「それは知らん!」
さあ、早めに今日の昼食をオーダーしておこう。母親の料理を食べるのは久しぶりだ。
ずかずかと玄関へ向かう後ろ姿に、こりゃたくましく育ったもんだと暁は苦笑する。
――たった一年だ。
子供の成長というのは、侮れない。
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