第161話 騙しのキツネと壊しのミカゲ
水場の完成まで二週間。鷺花の負傷もほぼ治っており、残り一週間で調整しつつ体力を戻す作業に入っていたわけだが、走り込みを終えた朝、芽衣が水場に足をつけていた。
「ふう……」
呼吸を軽く整え、拳を叩きつければ、勢いよく水が周囲に飛び散る。
一息、少しの間を置けばすぐ水は溜まり、一杯近くになると水路へと流れ、それは道路の横から
もう一度。
今度は水が波打つようにして、内部から周囲へと広がって、水路へ流れる。衝撃そのものを表面ではなく、内部へと与えたのだ。
三度目は、今の二つを同時にやって、大きく吐息が落ちた。
「――戻ったか。朝食の準備をしろ、鷺城」
「また肉でしょ。なに、衝撃用法の確認?」
「ついでに水場の強度確認もな。手で作ることはできるが、まだナイフを使うと上手く馴染まなくて、再確認だ」
地面に置いてあった水のボトルとタオルを手にした鷺花は、火の中に薪を入れて火力を上げながらも、視線を投げる。
「その点に関してはともかく」
「なんだ」
「朝霧、衝撃そのものを組み立てられる?」
「……衝撃を?」
「そう」
朝霧芽衣の
必要なのは溜め込むための
「ふむ、考えたことがなかったな」
「やるかどうかはともかく、汎用性は上がるはずよ」
「なるほどな――」
ぱしゃんと軽く手のひらで水を叩いた直後、周囲に紙吹雪が舞う。それを気にせず、小さな鍋で水をすくい、火にかける。飲み水は基本的に、こうして熱している。念のためだ。川などでも、上流に動物の死骸などがあると汚染されているため、綺麗だと思えても、直接飲むのは避けるべきだろう。
紙吹雪は芽衣の解体動作で発生する現象だ。
「そこにぶらさがってる肉にしろ」
「あら、昨夜に動いてたの、これ。キツネかあ、……網焼きでいいか」
「塩コショウの味付けばかりだがな」
「キツネで思い出したんだけど、知ってる?」
「なんの話だ?」
「あ、知らないか。武術家に関してはどう?」
「それは一通り知っている。雨天を頂点にして、それぞれ得物を持つ家名があるんだろう? いつか、小太刀二刀とはやり合ってみたいとは思うが、あくまでも訓練だな」
「そうね。たぶん、相手の領域でやり合うなら楽しめるでしょうけれど」
「――というと?」
「武術家も世界が狭いから。あんたみたいなのは天敵なの」
「言い方は悪いが、お行儀が良いと?」
「まあね。雨天は除外するけど、全体的にそういう風潮」
「道ではなく術を身に着けるのに、お行儀が良いとは笑い話だな。ルールなしだからこそ、武道ではなく武術なのだろう? 突き詰めれば殺しの技だ」
「完成した先では、そうなんだけれどね」
「完成までは順序があると?」
「理想が遠いから、手順を間違えると至れないって部分が、ある種の規則になってるのよ」
「ふむ、それなら理解できる。基礎ができていないと大成しないからな――と、こんなものか。次の訓練で使ってやろう、楽しみだな?」
「ああうん、そうね。使うことに拘って、窮地すら楽しむのは朝霧が好きそうな状況」
「楽しめなくなったら引退だ」
「ほどほどにして欲しいんだけどね。あ、たまねぎ使うわよ?」
「うむ。
「あんたが珈琲を落としてから」
「では、そうしよう。それで? その武術家がどうかしたのか?」
「ああうん、武術家や雨天の脅威がどのくらいか、知ってるかどうかわからないけど、似たような系列でありながらも、武術の家名に連なっていない存在が二つあるのを知ってる?」
「それでキツネの話か」
「知ってるじゃない!」
「なんの話だとは言ったが、知らないとは言っていない。それに、キツネと言えば師匠が若い頃、一緒に遊んでいた相手だ。昔話ついでによく聞いた――アレはおかしい、とな」
「私が聞いた限りだと、何も通じない相手って話だったけど?」
「表面上は、そうだ。とにかく受け流す。それが術式でも、あっさりと。師匠であっても、一度ですらまともな攻撃を通したことはないそうだ――が」
「本質的には違う?」
「後継者がいるだろう」
「
「そいつはどうか知らんが、キツネの最大の問題は、おかしいのは、戦闘をしないことだ」
「……なにそれ」
「そのご老体は、徹底して相手を騙す。まるで小学生のガキだ、相手を騙して驚かせて、それを見て指を突きつけながら大笑いする――わかるか? 戦闘をしかけても、そもそも戦闘にならん上に、騙され続けて攻撃が当たらない」
「最悪ね」
「私が随分とまともに思えるだろう?」
「それは比較対象が間違ってる」
芽衣はタオルで服の上から水分を軽く落としてから、沸騰を始めたお湯の鍋を手に取って、珈琲の準備を始めた。
「武術家じゃないけど、キツネは同類として危険視されていたわけ」
「なるほどな。では、そういうヤツがもう一人いると? さすがにそこは知らんぞ」
「たぶん悦が知ってる」
「ほう。では起こそう」
もう起きてる、と言いながら、もそもそとテントから出て来た悦は、欠伸を一つして立ち上がり、天幕に干してあった白衣を掴むと、上に羽織った。
「あー寒い。馬鹿にはわからないでしょうけれど、まだまだ寒い」
「貴様は肉がないから寒いのだ」
「ちっちゃいし薄いものね?」
「馬鹿にはわからないのよねえ……」
本当に寒そうにしているので、しばし間を置き、珈琲と軽い食事ができてから、改めて会話を始める。
「なんの話をしていたの」
「ああうん、それ。悦は
声をかければ、これ以上なく嫌そうな顔をした悦が、もにょもにょと口を動かしたかと思えば、意を決したように。
「……知ってる」
問いに対して肯定した。
「誰なんだそれは。悦が知っていること自体が奇妙なんだが?」
「医者なのよ、悦と同業者」
「その割には嫌そうに言うんだな?」
「嫌なのよ!」
珍しく、本気の声色であった。
「――そもそも」
更に乗った玉ねぎ乗せキツネ肉を受け取った悦は、パイプ椅子に腰を下ろして大きく吐息を落としてから、気を取り直すよう話を始めた。
「御影さんは、うちの母さんと一緒に診療所にいたの。十年以上前の話だけれどね。だからまあ……交流が? あるような?」
「え? つまり弟子みたいな?」
「そう、その頃はまだ助手の扱いだったみたいだけど。年齢は……二十代中盤くらいか」
「有名な医者なのか?」
「少なくとも母さんが助手にしてたくらいだから、腕は立つ。確か今は、軍関係……軍医じゃないんだけど、そっちの病院を持ってて、主治医をしてる……してた? どっかに引き抜かれたような気がするけど、そこまで覚えてない」
「ほう、つまり貴様が嫌っているのは医者としてどうのではなく、性格の問題か? 安心しろ悦、サディストなら慣れてる」
「私も慣れてきたわ」
「その割に、どうも貴様は私に突っかかるが?」
「うるさい」
「私はあの人以上に無精者を見たことがないわ」
「――え?」
「待て。医者で、……無精者?」
「そう。昔から、金だけ稼いで家から出ずに健康的な躰で何もせず過ごしたいって、医学書を読む私の横でごろごろしながら言ってた……」
そういえば。
実際に手合わせをしていたガーネが、むしろ、手合わせするまでが大変だったと言っていたが――まさか、そんな理由だったとは。
「腕は良いんだろう?」
「とにかく判断が的確で素早いのよ。平均手術時間が二時間だとしたら、あの人がやると三十分と少しで終わる。本当にもう、早く終わらせて休みたいことしか考えてないみたいに。だから人に頼まない。自分でやった方が早いから」
「だったら何故、そんなに嫌そうな顔をする?」
「できる相手には頼むからよ……!」
すぐ、二人には納得が落ちた。苦手意識というやつだ、これは。
「で、その医者が?」
「そう――対武器格闘の
「ほう? 油断できないくらいには、貴様の顔色で私は危険を察しているが」
「まあ、ね」
そもそも。
鷺花の父親が言葉を濁していたのだ。まだ対峙していない鷺花だとて、複雑な気持ちにもなる。
「武術家じゃないのは、その在りように技が存在しないから。キツネもそうだけど――まあ彼女、御影さんはね、衝撃用法だけを徹底してる」
「……」
無言のまま、芽衣は珈琲を傾けてカップの中身が空にすると、指先でこつんとカップの表面を叩く。
「――やめとけよ、芽衣。御影の一族と事を構えるな」
「師匠」
「おはようさん」
欠伸が一つ。視線を投げて彼女たちが生きているのを確認してから、いつものように煙草を一本。
「キツネさんとは質が違う。言うなれば御影とは、唯一、武術家へのカウンターだ。武術家とは
「え、ちょっとそれは初耳。え? 御影さんって、そこまで?」
「理屈上はな。だが、武術家には壊れない得物がある。壊したいのなら、殺すしかない――が、まあそこは、気にするだけ無駄だ。どうせ壊す。あいつらが壊せないと認めたものは、この世に、一つだけ」
「……じーちゃんのナイフ」
「ほう!」
「――あっ! ごめんちがっ、エミリオン! エミリオンのナイフ!」
「ところで師匠、取り繕っていた女がふとした時に隠せなかった本音を見せると、可愛らしいと男は感じるらしいが?」
「隠せなかった本音を取り繕えなかった間抜けが?」
「そうだ」
「いつものようにジュークボックスを鳴らそうかと思ったら、最大音量になってたのに驚いて転び、尻を打った間抜けをお前はどう見る?」
「クソ間抜けだな!」
「そういうことだ」
「あーもう! もう! うっさいわ!」
「芽衣、軽く右足を前へ出せ」
「どうした?」
「その動きによって発生する踏み込みの力で、9ミリの弾丸が飛来しても潰せるのが、御影だ。……さてと、そろそろ寝るか」
やはり、いつものよう、言うだけ言って戻ってしまう。
芽衣は何度か、足を上げて、下ろした。
「――ふむ。では理屈が得意な鷺城、どうだ」
「見たことあるから。その時は拳銃じゃなかったけど、指、手の甲、肘、肩で刃物を四本折ってた。その場から動かず、踏み込まず、右手を振るような動きだけで」
「なるほどな。衝撃用法がそこそこ使えるようになったと思ったが、私もまだまだ、成長の余白があるようだ」
「……」
「話がまとまったようなら、私から一つ。できる限り、私の前であの人の名前を出さないで。ほんっっとうにイヤ!」
「そうか、衝撃用法を使っての医療か。人体把握は可能だな」
そもそも、人体は水の割合が多く、そこまで衝撃を把握可能なら、心臓の鼓動による人体の震えから、異常を探ることも可能となる。
「よーし! 飯を終えたら銃器訓練だぞクソ女! 今日こそ千ヤードを7.56ミリで当ててみせろ!」
「当てるわよ! というか当ててるじゃない!」
「
「くっ――わかったわよ! 今日こそ当てて、あんたに言葉を撤回してもらうから! 横でぐちぐち言わないでよね!」
「ほう! 銃撃がうるさいから狙撃できませんなどと言うんだな!?」
「あーもう! もう本当にうるさいこいつ!」
「うるさいのはあんたよ、鷺城。文句を言いたいのなら、私のためにお風呂の準備をしながらにしてちょうだい」
「――、――! あー!」
「本当にうるさいな、この女は……」
いつの間にか、通常運転である。
ただ――人生において、彼女たちはキツネの後継者にも、御影にも、出逢うことになる。その時にこの会話を思い出すかどうかは、さておき。
いや。
間違いなく鷺花は思い出せないだろう。腹が立つ想い出だからだ。
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