第156話 久しぶりの実家へ

 2049年、十月二十日――。

 鷺城鷺花、九歳。

 ざっと数えて四年ぶりの帰郷は、長かったような短かったような、けれどそれが当然のような、考えただけで妙な感覚に囚われながら、自宅の入り口をくぐった。

 庭は広く、飛び石が母屋にまで繋がっており、手入れがされている池には今、泳いでいる魚がいるのだろうか。もう肌寒い頃合いだが、さして気にせずここまで来たが、一歩でも敷地に足を踏み入れた瞬間、早朝の山にある霧がかった冷たさと似た気配が充満していた。

 水気すいきだ。

 人を除外するようなものではなく、単純に水分が多い。これは雨天家における、雨天の住人が水気を持っているからに他ならない。

 そして。

 池の傍で日本酒を抱えて飲んでいた、人間にしては大柄な女性が、視線を向ける。和装の人型だとわかるが、かつて鷺花と遊んでくれた相手なのかと問われれば、そうだろうけれど、記憶にある姿がそもそも曖昧で、ぼんやりとしているため、類似点を見出すのが難しい。

 彼女たちの存在は、いつだって、そういう曖昧なものだ。

「ただいま」

「――ふむ?」

「あ、姉ちゃん忘れてるでしょ、私のこと」

「いや待て、待て……ん? あー、あれだ、そうだ、さては暁の娘だな?」

「さては、じゃないでしょうが。いいけどね。はいお土産」

「おお、国外の酒か、良いぞ、うむ、もう忘れんから次も頼むぞ?」

「はいはい」

 影から取り出した酒を渡した鷺花は、そのまま母屋へ。

 玄関から入って。

「たーだーいーまー」

 間延びした挨拶をして中に入り、ふと、そういえば部屋はどうなっているんだろうと、以前使っていた部屋に足を向けて戸を横に引けば、テーブルの前に座っていた弟の紫花しかが、広げたノートからこちらに顔を向けた。

「あれ、鷺花。帰ってたんだ、おかえり」

「ただいま。何してんの?」

「見ての通り、学校の勉強だよ。いくら武術家だって、学業を疎かにするわけにはいかない」

「うん、それはわかるけど、なんでジュニア?」

「鷺花、姉さん、それは僕が小学生に見えないっていう誉め言葉かな」

「……? え? ――あ! そうかそうか、小学生だっけ」

「双子なんだから同い年なんだけどね……?」

「ごめんごめん。私もうハイスクール終わって、カレッジどうしようって段階だったから、つい。んで、私の部屋どこよ」

「そっち、隣だよ」

「ありがと。かーさん!」

「はいはい、はーい」

 いきなり廊下で抱き着かれたので、しばらくそのままにしておく。嫌ではなかったし、愛情表現だ。

「しばらくいるけど」

「うん」

「また出てくけど」

「……うん」

「とりあえず、オムライス作って」

「ん? オムライス?」

「そう、母さんのオムライス。なんかこう、味の再現が上手くできなくて」

「なに鷺花、料理やるの?」

「そりゃやるよ? 結構いろいろ幅広く。はい、終了時間でーす」

「あー……!」

「父さんは外でしょ? いろいろ聞いておきたいから」

「はいはい、お茶でも持ってくね」

「ありがと。――紫花、そっち武術は?」

「誰かと比較はしないことにしてるけど、そこそこ。楽しくやってるよ」

「そりゃ良かった。父さんはまだ鬼?」

「うん、鬼のようだ」

「だよね」

 ちなみに、鬼のように強い、という意味合いである。

 隣室は空き部屋になっており、ふすまを開いて布団があるのを確認して、手荷物の小さな鞄を置いて、再び外へ。

 大きく呼吸をすれば、水気に馴染む――と。

 道場から。

「おう」

「ただいまー」

 袴装束の雨天暁が顔を見せた。

 昔見ていた通り、やや細い体躯に細い顔。頑丈さとしなやかさを両立した結果だと聞いたこともあるが、その一歩、一歩の仕草だけでシンやガーネとは違う何かを感じる。

「でかくなったじゃねェか」

「そりゃね。父さん、電話にも出ないし。なんか声だけの出演みたいなね」

「元気で生きてりゃそれで良い」

「まあいいんだけど。で、要求がいくつか」

「要求ッてお前……まァいい。俺にか?」

「うんそう。呪術式が見たいのと、手合わせして私に変な癖がついてないかどうか見てくれない?」

「手合わせくらいは構わねェよ。紫花は――まァ見とけ。お前じゃちょっと相手にならん」

「言われなくても、やらないよ僕は。観戦してるからどうぞ。昔から鷺花には、どういうわけか勝てる気がしなくてさ」

「そんなもん?」

「なんとなくね」

 ふうんと、適当な相槌を返し、影の中から槍を引き抜けば、父親は。

「刀くれ」

 その言葉と共に、顔の横に落ちてきた刀を右手で掴み、そのまま柄を左手で触れる。

「あー、父さん左利きだっけ」

「おゥ。鷺花は槍か」

「うん」

 ふうと、吐息を落とす。鷺花のその態度だけで充分で、開始の合図などいらない。

 正面、槍の切っ先が出現したかのような錯覚に陥る――はずの暁は、移動速度に合わせるよう上半身を倒す。

 投擲だ。

 槍を含んだ長物ながものには、視界の中でも特定の角度になると、棒状の線ではなく、点で見える場所が存在する。これは拳で直線的に殴る場合にも使われるが、槍であっても、点で見えてしまうと距離感が掴めなくなる。

 つまり、上手いやり方だ。

 そして、視界の下側から瞬発を使った踏み込みにより、暁の躰が倒れきる前に、切っ先はピタリと停止した。

 投擲した槍を、鷺花が踏み込んで掴んだのだ。

「――っ」

 一つ、掴んだ槍を高い位置から真下に振り下ろす。

 二つ、その勢いを反発させるよう振り上げる。

 三つ、描いた線の中間地点に向ける突き。

「二秒か」

 最後の突きを回避して、ぽんと横向きに力をかければ、態勢が崩れるのを嫌った鷺花が距離を取った。

 いや。

 暁のその態度に、一時停止の意志を感じたのだ。

参ノ槍さんのやりとしちゃ及第点だ」

「そんな呼び方?」

雨天うちじゃ槍は全部、そういう呼び方だ。三度なら、全部が参ノ槍。けどお前、その槍はチェンの旦那から教わったろ」

「うわー、わかるんだ……」

「あの旦那の技は知ってるし、手合わせもしたからな。紫花、お前やるなよ?」

「だから、やらないよ」

「私もやんないけど、なんでよ」

「まだ早い。変な癖がつくだろうし、基礎はどれだけ積んでも良い」

「わかってるよ」

「……紫花って、ちょっと素直過ぎない?」

「自覚はないけど?」

「父さん」

「なんだ」

「紫花はわかったらしいけど、父さん。今の素晴らしい台詞をさ」

「あァ?」

「紫花と同じ年齢の自分に言って」

 瞬間的に、暁は遠くを見つめるような目をした。

「――紫花、お前もうちょっと遊んだ方がいいぞ?」

「父さん……」

「まァいい。鷺花、術式防御の精度は?」

「そこそこ」

「試すぞ、避けろよ」

 鍔鳴りの音が二度したのは、暁の優しさだ。けれど、音を聞いた瞬間に鷺花は最大限の空気障壁を張り、それが切断される角度と威力を知覚した瞬間、水を凝固させるような術陣を展開――するが、三枚割れ、その時間を稼いで回避行動をとれた。

 一秒に満たない時間で二度の居合い。早すぎるし、威力も強い。

「初手の意味あるか? 見えてただろ」

「見えてはないけど感じてた。それでも念のため、精査したかったから。相変わらず鬼だね、鬼」

「加減してやってンだろ。そして今、お前こう考えてる――居合いの初動を抑えりゃどうにかならないか?」

「うんまさに、それを今、どうしようか考えてた」

「考え自体は悪くねェよ。――できねェけどな」

「父さんに通用しないんじゃ、実用的じゃないよね。まあいいか」

 槍を手から離せば、影の中に落ちて消えた。

「次は経験を積んでからだな」

「そうね。これから術式関連の実地試験もできそうだから。槍は及第点?」

「まァ、そんくれェだな。基礎もそう悪くはなってねェから、あまり気にするな」

「ならいいや。父さんは相変わらず凄いのはよくわかったし」

「しばらくいるのか?」

「うん。といっても、ちょっとあちこち動くけどね。きよねえんところにも行くし、一夜いちやさんとこも」

「……ま、付き添いが必要な年齢じゃねェから、翔花に見つからないようこっそり行け」

「あーうん、そうね、そうする」

 あの母親はきっと、一緒に行くと言って聞かないだろうから。

 それはそれで良いけれど、やっぱり邪魔は邪魔なのだ。

「一日くらいは一緒に行動するけどね……」

「おゥ、そうしてやれ」

「紫花は? 一日くらい一緒に行く?」

「僕はいいよ。姉さんと一緒じゃ恥ずかしいからね」

「なんで」

「男なんてそういうものさ」

「まあ無理にとは言わないけど。さて――父さん、躰動かすから付き合って。槍は使わないから」

「なら道場に入れ」

「あー……」

「なンだ」

「神聖な場所に入ることへの困惑がちょっとある。父さんが良いなら、いいけど」

「それほど気にするな」

 悪いことではないのだが。

 どうにも、ちょくちょく電話で話していたとはいえ、距離感が掴めないのが、問題ではあるのだろう。

 慣れればどうということはないけれど。

 果たして、慣れるまでこちらにいられるかどうかが、わからないのだ。


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