第151話 空間転移の構成における考察
ウェル・ラァウ・ウィルは鷺城鷺花にとって、師匠の次に頼れる相談役ではあるが、それと同時に、師匠の次に面倒な相手でもあった。
部屋に入ると、丁寧に整理されてはいるが、本棚に入りきらない本が山ほど積んである。当の本人はずっと本に目を落としている――まず、最初の難関が、ここだ。
没頭しているウェルは、何をしてもこちらに気付かないのである。
しかしだ。
「あ、ガーネいる」
「鷺花様、ウェル様にご用事ですか?」
「うんちょっと聞きたいことがあって」
「はい、わかりました」
本を整理していたガーネは、ふうと立ち上がってから、後頭部を結構な強さでごつりと叩いた。
「む……」
「ウェル様」
「なんだ、なんだガーネ、僕は今のところ痛い、痛い、なんだガーネもう食事の時間か?」
「ウェル様」
「聞いている、大丈夫だ。僕だって人の話くらいは聞く。それでなんだガーネ、それほど空腹は感じていないし、今の僕は――痛い、だから何だ? ん? ……んん? どうした、鷺花じゃないか」
「はい、気付いたようですねウェル様、その通り鷺花様です。話をきちんと聞くように。よろしいですか? はい、とりあえず本は閉じましょう」
「ん、ああ、そうだな、そうしよう」
「では鷺花様、お茶を持ってきますね」
「ありがとねガーネ。すっっごく助かった!」
「いえいえ」
いつも世話をしているガーネは、さすがとしか言いようがない。あと、頭を軽く撫でるように髪をぼさぼさにしたウェルが、あまり痛そうじゃないのも不思議だ。
「それで鷺花、僕に用事か?」
「うんちょっと聞きたくて。
まだ僅かに目が泳いでいるので、こちらの話を聞いているかどうか知らないが、とにかく始めようと鷺花は術陣を周囲に展開した。
「えっと、あ、読めないか。んとね」
「いや、いい」
席を立ったウェルは、それなりに背丈は高いが、男性としては平均的だろう。年齢そのものも、シンより少し老いているだけで、まだ四十には至っていない――が。
その姿のまま、シンも同様に、百年以上の刻を生きている。
そういうものだと、今の鷺花は認識している。
「なるほど、術陣をベースにしているのか……理由は?」
「ずっとこうだから。じーちゃんがナイフ作るの見たのが最初でさー」
「そうか、そうか」
ひょいと鷺花を持ち上げてテーブルに乗せたウェルは、周囲を見渡しながらしばらく歩き、頷きが一つ。
「空間転移におけるアプローチは?」
「指定座標との連結かなあ。対象と現在位置の誤差をなくして、同じものにするかたち」
「
指先で術陣に触れながら、ウェルは視線を鷺花に向けず、口を開く。
「本来あるはずの距離を誤魔化す手法としては、簡単な部類のものだ。
「う、うん、まあ、うん」
一気に言われると口を挟む余裕がない。
「でもなんか、違う? そういう感じ?」
「言葉にできるか?」
「なんていうか……実際にできるんだけど、違うっていうか。ホットコーヒーをガラスのコップで飲んでるみたいな?」
「そうだろうな」
「っていうか、ウェルこれ見てわかるの?」
「お前の展開式だろう?」
「そうだけど、普通は読めないんだよね」
「いや、単に勉強不足なだけだ。普通は読める」
「ふうん……じゃ、勉強する」
もちろん、それは普通のことではない。展開式なんてものは、本人ですら全て把握するのは難しいものなのだ。
「さてと、僕はこうしてどこから説明すべきかを考えているわけだが、いいか鷺花、最初に言っておくが、この手順は不正解ではない。しかし、お前が違和感を抱いたよう、確かに着眼そのものがズレている。つまり、そう、僕ならば――いいな?」
「うん」
「僕ならば、あらゆる術式が、状況が変わっても使える前提を保つ。この術式を使う場合、障害物を回避する前提だな?」
「うんそう。ぶつかると痛そうだし」
「この場合の思考は、こうだ。確かに障害物を迂回しても目的地にたどり着くが、しかし、障害物をないものとして目的地へ行く方が早い」
「あ、そっか。何でも迂回すればいいって思ってたけど、ないものとして移動できれば、いつでも使えるね」
「これを魔術用語では、曲線運動と直線運動と呼ぶ。お前のこの構成の場合は直線運動だ」
「迂回してるのに?」
「現実として迂回していたとしても、歩く道筋は直線だ。当たるものがないからな。しかし、当たるものがあるなら、人は曲線を描くよう歩く。避ける行為であり、これを迂回と呼ぶが――そうだな、こう考えろ。目の前に石があって、向こう側に行く時に、最初から横に移動して直線で動けば、当たらないだろう? しかし、まっすぐ歩いて、近くで横に避けると、曲線を描く」
「うん、なんとなく。魔術だと逆なんだね」
「そう捉えて構わない。そしておそらく、お前が違和を抱いているのは本質的な部分だろう。そもそも、勘違いしがちだが、
「んぇ? 時間なのこれ。でも――時間の操作は原則、できないよね?」
「そうだな、それは術式の範囲から逸脱している」
「いつだつ……ああ、外れてるってことか」
結構な難しい言葉を平然と使うのも、少し苦手だ。
「時間を短くする? んー……?」
「それほど難しい話では――む」
「うわっ! なに消してんの!」
「すまん、すまん。まさか防護をしていないとは思っていなかった」
気軽な動作で、術陣の外周を指で撫でるようにして、一つの円を消してしまったウェルは、悪びれもせず、言葉だけの謝罪を口にする。すまんとは思っていないのを証明するよう、首を傾げながら二つ目の術陣も消していた。
「この術陣をそのまま戦闘には流用しないのか?」
「戦闘かあ……変更するより、そのままの方が楽そうだし、それも考えておく」
「その場合、防護は必須だ。ただでさえ術陣は見た目で内容がわかりやすい。それが利点でもあるが――」
「ウェル、そっち違う」
「ん?」
「時間の短縮!」
「ああ、そうだ、その話だったな。つまり車だ」
「……車? ん? ――あ! そっかそっか! わかった!」
それだー、と言いながら一気に術陣を展開すると、テーブルから降りた鷺花は視線をあちこちに移動させ、素早く術陣の内容を変えていく。ウェルは椅子に戻り、その流れをぼんやりと見ていた。
簡単な話だ。そもそも、時間の短縮とは、時間軸に干渉することではない。
徒歩では遅いから、車にしよう。
渋滞が嫌だから、電車にしよう。
距離が長いから新幹線にしよう。
海を渡るのなら飛行機にしよう。
これらは全て、時間の短縮だ。空間転移の術式そのものも、移動に対する時間の短縮を目的としたものであり、それが構成の基本となる。
二つの位置を変える
気付いてすぐ着手できるのは、それだけ鷺花が理解を深めていた証左だ。それだけ研究をきちんとしており、魔術の知識も増えている。
「だからこうで、あっちと連立させといて、こっちが、だからー」
口出しはせず、ただ、推移を見守る。何をしているのかもウェルは把握していた。
はっきり言って。
魔術知識だけにしても、鷺花と比較すればウェルは十倍から百倍まで所持している。それは生きている時間そのものの差であり、魔術師としての研究してきた長さの違いだ。
「鷺花」
「んー? 聞いてるよー」
「座標を指定して移動するのは前提だが、実用性はない」
「――ん?」
ようやくそこで、手を止めた鷺花は作業を一時停止して振り向く。
「そうなの?」
「出口がわかっている迷路で何を楽しめる?」
「そういう言い方が意地悪だよね、ウェルって。でもだったら……んー、出口を一杯作る?」
「考え方は、こうだ。たとえば二百メートルの空間転移が可能だったとしよう。この場合、二百メートルの半径で描いた円の中ならば、どこにでも転移できる――違うか?」
「あ、そっか。出口じゃなく範囲指定……どこでも出口だし、どこでも入り口って状況を作れるなら、そっか、うん、だとすると、あーこのへんの複合に手を入れないと」
構成を横に繋ぐ連立式、混ぜ合わせる混合式に、ただ合わせるだけの複合式。
これら三つを使うことで、構成するのが、魔術式だ。
何を繋ぐのか、この何かが、術式の本質であり、理論であり、効果を発揮する部分だ。
「失礼します。紅茶をお持ちしました」
「ああガーネ、いつもすまない」
「はい、きちんと起きていらっしゃいますね、ウェル様」
「僕を何だと思っている、ちゃんと起きているとも。こうして相手もできている」
「鷺花様も」
「あ、うん、いろいろ考えないとなーって」
「テーブルに座れ鷺花、この部屋では構わない。ガーネ、直線運動の空間転移だ」
「またそうやってウェル様は……どうぞ」
ガーネから、作った剣を貰ったウェルは、剣の表面を撫でるようにして確認すると、立ち上がる。
そして、軽く一振りを真横に行えば、刀身が一瞬にして消えて――。
「これが直線運動の弱みだ」
ガーネの首筋で剣が停止しており、小さなナイフがその間に差し込まれていた。
「相変わらずガーネの反応は早いなあ」
「ありがとうございます」
「曲線運動だと、基本的にはナイフも通り過ぎる?」
「そもそも振る必要がない」
「ん? ……、――あ! そもそも体内に直接転移できる! こわっ! 対策しなきゃ!」
「ほう……」
どうやるのかではなく、防御の意識、つまり対策を真っ先に思考するのは良いことだ。戦闘の現場に立っても、実用的な術式を構築することもできる。
「返すぞガーネ」
「はい」
「仲良いよねー……というか、どうしてウェルはこの屋敷にいるの? 師匠に誘われたってシンは言ってたけど」
「いや、僕はエミリオンと――ん? ガーネ、確かそうだったよな?」
「はい、そうです」
「だそうだ」
「ウェルって……」
「何故睨む」
「呆れてんのー」
「ウェル様は、この屋敷では最古参ですよ。まだ私どもが生まれてすぐの頃、若様の奥様もまだ一緒ではなかった時期に、ウェル様は屋敷にいらっしゃいました。時間に取り残された人を集めてみようと、若様が考えた切欠でもあります」
時間に取り残された者は、シンもウェルも、そうだ。
厳密には、実際時間と体感時間に差が出ている。肉体の成長が限りなく遅いと一言で済ませることも可能だ。
一年の時間が経過すれば、人の肉体もまた、一年の時間を得る。
だが彼らは、一年経っても、ほんの数秒の時間しか得られない――だから、否応なく長寿になってしまう。馬鹿馬鹿しいほどの時間を、
「そうだ、思い出した。何もかもを後悔で埋めたエミリオンを見て、そこに類似を見出したのは、他ならない僕自身だ。そして、ああ、そうだ、まったく……年老いて死ぬエミリオンを、羨ましく思った。懐かしい話だ」
「ふうん……そうだったんだ。よくわからんけど」
「それでいい。ただエミリオンのナイフは、さすがとしか思えないな。ガーネもまだ至っていないだろう?」
「はい、まだまだです」
「え? じーちゃんのナイフ?」
「聞いていないのか? 刻印入りは四本、あいつの作品だ。五本目は注文品だから除外してもいいだろうが――……はて? なあガーネ」
「なんでしょう」
「僕はしゃべり過ぎか?」
「それを私に聞かないでください」
「まあ変な方向に行っても、僕以外が止めるだろうから、それでいいか。さて鷺花、ほかに聞きたいことはあるか?」
「ううん、とりあえず改良する!」
「そうしろ……ん? ところでガーネは、何か用事でも?」
「部屋の掃除をしに来たのです、ウェル様」
どうしたって。
このウェルと話をすると、こうして呆れることが多いので、疲れるのだ。それでも、やたらと迂遠な会話をする師であるエルムよりは、会話が成り立てば、楽な相手である。
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