第145話 彼らの一年間、憧れの一念か

 昼食を終えた頃合いを見計らって、彼はいつも屋台の準備を始める。自分が食事をすることも当然だが、それよりも、昼食と一緒に酒を出す店と混合されないための配慮だ。どうせ、早くても四時ごろ、夕方と呼ばれる時間帯から客が来るので、それまでは屋台の中で端末に触れたり、仕入れなどの仕事をしたり、いろいろである。

 だが今日は、屋台の準備を終えるかどうかというタイミングで、来客があった。それ自体は珍しいが、対応できないこともないし、面倒な客でなければそれでいいと、カウンターの中から顔を上げれば、そこにいたのは少女であった。

 紺色のワンピースを着ており、やや配色は地味に映るが、黒色の猫を抱いており、座ってすぐに猫を膝の上に。こんな屋台に来るような恰好じゃないと思えば、情報を買いにきた客かと思考が繋がってすぐ。

「――朝霧じゃないか」

「私がほかに何人もいたら、困るのは貴様だろう……?」

 揃えることもなく、ただナイフで切っただけの髪は、耳を隠す程度の長さだが、その長さもばらばらで、睨むような視線が強く、服装との対比が酷い――のに、どういうわけか、全体を見れば、服に着られているような感覚がないのは、何かの術式だろうか……。

「ビールをくれ、種類は任せる」

「それはいいが……軍服はどうした」

「ん? もう質屋に出したぞ。今頃、私の同僚は伍長の階級章を、訓練校で受け取っていることだろう。私は退役して、例の組織――〝見えざる干渉インヴィジブルハンド〟に引き取られる」

「軍部に間借りしつつも、独自の方向性を持った組織か……あれも、軍部の意向がだいぶ反映されてるだろうに」

「それでも米軍ではなくなるわけだ。あとで同僚もこちらに挨拶へ来る」

「客が増えるなら、ありがたい話だ。――その黒猫、どうした?」

「ん? ギニアでの作戦中、迷っていたので私が保護したのだ。こっそり艦に持ち込んで、こっそりここまで持ってきた」

「お前それ、密輸って言うんだぞ……?」

「上着に入れておいてだな、胸が大きくなりました! ――どうだ、笑いが起きなかったのが何故なのか、今でも不思議だ……」

「お前に逆らうヤツがいなかっただけだろう」

「情けないことにな。まあそろそろ一年だ、経歴作りはこんなものでいい」

「ふん」

 小さめのグラスにビールを注いでテーブルに置いた彼は、すぐに中の椅子に腰を下ろし、足を組む。

「ギニア撤退戦――か」

「耳に届いているか?」

「酷い情報ばかりな。公式には基地からの撤退、戦線の放棄。そこに添えられた政治的な理由に、被害は明かさず七割の実員が帰還した戦地――ま、世間の声は批判的なものも多いが、撤退した事実には、それ見たことかと、後出しジャンケンだな。喜んでいるのは中ロ連合も同じ。立場上、戦闘を続行しなくてはいけなかったが、割に合う経済効果はなかった」

「だろうな。そして軍人に言わせればこうだ――なにをもって、七割という数字を出したんだ?」

「こっちで掴んだ実情では、少なくとも撤退戦の増員と現地配備員を含め、生存者三割だ」

「――ああ。同僚も、他部隊の生存が確認できず、悔しがっていた」

 名前を知っている相手もいれば、知らないヤツもいた。

 最初はドッグタグだけ見せられても、何も感じない。もういないのだと思っても涙も出ないのに、――戦地から退いて艦に乗った直後、便所にこもれば涙が流れる。

 いなくなったことへの悲しみ? ああもちろんそれもある。あるはずだが、それ以上に、自分が死ななくて良かった安堵と、――自分が死んでもドックタグだけになる、そんな現実を自覚して、泣くのだ。

 隣で同僚を亡くした者も、多くいただろう。三割、それは五人部隊でも三人は失ったという意味でもあるのだから。

「現場を見てきたお前でも、酷かったか」

「私はそれが戦場だと、知っている。少なくとも仲間を守れたことには、安堵したとも。生き残ったことは、その次だな……いくつかの報告を耳にした限り、LDルディが最低でも三体は投入されていたそうだ。一人は私が相手をしてやったが、な」

「裏は洗ったのか?」

「それはこれから、私が組織に引き抜かれた先でやることだ」

 LDと呼ばれる商品は、作るのにも売買にも、必ず足がつく。できれば施設を叩いておきたいし、それがもうなくなっていたとしても、研究員の掃討はしておくべきだ。それは芽衣の仕事ではないかもしれないが、最低限、使われていた毒物の解析くらいはしておきたい。

「経歴作り、か……」

「まだほかに客もない、貴様の見解くらい聞こう」

「見解も何もない。ぽっと出てきた何者でもない朝霧芽衣に、軍人という経歴が追加された、それだけだろう。ただ俺が調べた結果として、お前、戸籍上の名前と違うだろう……?」

「ほう、気付いたか。まあ隠してはいないし、ほとんど朝霧芽衣の名前で何でもできるくらいに浸透しているので、そもそも戸籍上の名前が偽名のような感じになっているが」

 ジニーの日本名が、天野あまのまもる。だから引き取られた時点で、芽衣もまた、天野さちの名が与えられている。

「しかし、もう一年だというのに、今更か?」

「天野さちの経歴を使って、朝霧芽衣として軍部入りしたのなら、もはやそれは二人分の経歴になる。一般的な調べ方じゃ辿れない……」

「まあ、ごく一般的な場合、新しく経歴を用意しておいて、別人として投入されるわけだが、私の場合は同一人物であり、いちいち経歴を用意する必要もなかったからな。私とは別の〝天野さち〟が歩んだ経歴を、私が時間を積み重ねている期間、順を追うようにして追加していった結果だ」

 存在はしないが、あたかもそうした人物がいるかのよう、学校に通って家庭に帰る、そんな経歴を、芽衣が生活するのと同じ時間で作ったのだ。完全な別人の生活を、本人が成り代わる――が、天野さちをなんて、面倒な現実だ。

 情報屋に言わせれば、これ以上なく探るのが面倒な手合いである。何しろ、芽衣は隠していない。つまり、相手が隠していることを探るなんて有効的なセオリーも、それに類するものも通じず、そこに違和もなかったから、こんなに時間がかかった。

 気付けば、そういうことかと納得できるのに、気付きにくい――ああ、それは、芽衣の性格も同じか。

「実年齢を見た時は、目を疑ったけどな……?」

「ははは、さすがにサバを読み過ぎだろう? あれには、私も笑ったとも」

「いやお前、東洋人は若く見えるってのを差し引いても、本気で見た目通りのガキと同じ年齢じゃねえか……今は十二か?」

「うむ、そうなる。なあに、年齢など大したハンデにならん」

「だろうよ。さすがはあいつの――いや」

「ああ」

 芽衣は頷き、ビールを飲んで。

「まったく、師匠の教え方が上手かったのだと、今更ながらに舌を巻いている。まだ私には、同じようなことはできん」

「――そうか。ならば、そうなんだな?」

「そうだ。私がほかでもない、だとも」

 わかっていたし、気付いていた。そうだろうと、そうに違いないと――思っていても、それでも。

 弟子が、自らの肯定を示した現実に、彼はどこか、ほっとしたように躰の力を抜いた。

「だよなあ……」

 けれどそれは、諦めにも似たものだったのかもしれない。

「ジニーの弟子なら、そりゃそうだよなあ」

 今まで、全てのトラブルや出した結果にも、頷けるだけの意味合いが、そこにはあった。

「ところで、俺は言うつもりもないが、知っている連中は多いのか?」

「いや? せいぜい五人前後といったところだ」

「…………今、俺は物凄く後悔している」

 聞くんじゃなかった。これでトラブルが起きても追及できない。

「私とあいつを一緒にするな。そう簡単にトラブルを起こして文句を言うとでも?」

「文句は言わないかもしれんが、トラブルは起こすだろ、お前……」

「さて、どうだったかな。というかそもそも、貴様はジニーとどういう関係だ? あいつはお前のことを、いいヤツだと言っていたが」

「いいヤツ、ねえ……」

「うむ。都合の良いヤツ、使い勝手の良いヤツ、上手く誤魔化せる――ふむ、なにやら渋面になってきたので、これ以上は止めておこう」

「そうしてくれ……もっと言えば、追加の言葉はいらなかった」

「現実を見た方がいいぞ」

「うるせえ。だいたい野郎は、俺より先代の付き合いだ」

「ほう、そうなのか?」

「よく師には、あいつと悪だくみをして遊んだと教わったよ。直接の関係は、俺がジニーに拾われて、師に預けられたことと――まあ、スプリングロールの件で、きっちり清算をしてくれたことだ。もっとも、組織はそう思っちゃいないだろうが」

「あの春巻き野郎ども、いい加減鬱陶しいな。いっそ潰すか……?」

「――おい」

「ははは、まあ今すぐには無理だ。上手く相手をする方がうま味がありそうだから、あまり前向きには考えないとも――おっと、来たようだ」

 のれんから躰を出すようにして手を上げれば、グアラとファーゴが並んでこちらへと来た。

「へえ、本当にこんな屋台があるなんてな。おやっさん、俺はビール」

「僕も同じものを」

「いらっしゃい」

「ん? エリザはどうした」

「そんなことよりお前のその服装が似合ってない件について、撮影込みでちょっと話し合いたい気分だけど、エリザならまだ手続きしてるよ。メイと同じで退役すんだろ?」

「その通りだが負傷兵、女はまず褒めておいた方がいいものだぞ」

「うるせえよ」

 そう言うグアラの右腕は、首に括った紐で釣っている。

「だいたい負傷ってこれ、帰還時のジープから、まだ気を抜くなってお前が荷台から蹴り落してヒビ入ったヤツだからな⁉」

「この男、まるで私のせいだと言いたげだな……?」

「お前のせいだろ!? 俺は心に決めたことが一つある!」

「いや、これで道が分かれるから、最後にエリザを抱いておこうなどと、そんな性欲の相談を私にされてもな」

「しねえよ言ってねえよこっちから御免だよ! もう今後一切お前にゃ関わらねえことを決めたんだよ!」

「僕も同感だが、でもトラブル吸引機が近くにいるからこそ、周囲のトラブルが全部吸い込まれて、結果的に良かったという総評もある。――吸引機の間近にいた僕たちはとばっちりだったが」

「店主、どうだこの反応は」

「ザックさんは既に顔を見せていない――彼の方が賢そうですね」

 だろうなと頷けば、ビールを受け取った二人はこれ以上なく嫌そうな顔をした。

「だけど、やっぱりアサギリの言った通りだったなと、さっきエッカートと話していたよ」

「ん? 私が何か予言でもしたか?」

「もう二度と戦場になんか行きたくねえ、そう思えば昇進するしかない。けど、俺の代わりに誰かが、戦場に行くんだって話をしただろ」

 そうだったろうかと、芽衣は首を傾げる。そんな当たり前のことを口にした覚えはなかったが、まあ言ったのだろう。

「だからできることは、せいぜい、目に見える仲間を守ることだけだ。どの立場でもそれが変わらないのならば、誰かの代わりに戦場へ出た方が良い」

「ああ、それは言った気がするな。だが一つだけ、忠告はしておこう」

「なんだよ」

「いいか、何を信じるのもいい。何を決めるかも好きにしろ。だがな、人はたとえ、どんな選択をしても後悔する生き物だ。正しい道があるなどと思うな、けれど、自分が決めたことが間違いであるとも、思うな。良いも悪いも一緒にして、足を一歩でも前へ、踏み出せ――私はただ、そうやって生きてきた。成功も失敗も必ずある。だから、せめて同じ失敗を二度する間抜けにだけはならんよう、やっていけ」

「……厳しい言葉だなあ、おい」

「ん、僕はまだ若いから耳は痛くないけどな」

「まあでも、間違いなくメイが敵になったら、何が何でも逃げるから大丈夫だろ」

「名前を聞いた瞬間にそうなるかもしれない」

「おい貴様ら、一体私を何だと思っている……?」

 その問いに、二人は視線を逸らしてビールを飲んだ。

「――ん、ごっそうさん」

「なんだもう行くのか?」

「行くさ、充分だ。これ以上は腹いっぱいになっちまう」

「一年も話したんだ。次は空白の思い出話になるだろうな。僕は少し、アサギリの生き方に憧れを持った時期もあったけれど――どうやら、それほど楽な生き方じゃなさそうだ、諦めるよ」

「楽な生き方なんて、どこにも落ちちゃいねえさ。ただなメイ、お前の背中を追う一念で、なんとかここまで来れたってのも、嘘じゃないんだろう。お前が俺らより先にくたばることはないだろうが、またな」

「案外、先にくたばるかもしれないが、その時はせいぜい笑ってやればいい。じゃあな」

「言っていろ。貴様らこそ、下手を打って死ぬなよ――もう、そこに私はいないんだからな?」

 ひらひらと手を振って去る背中を見送り、芽衣は二杯目を注文する。

「……まったく、この背中が最後だったと、そうならないでくれと願わずにはいられんな」

「若い兵隊は死ににくい」

「わかっている。一番死者が多く出るのは、新兵で、次に老兵だ。新兵は初陣もあって、やり方を知らず、命令をどう聞けばいいのかわからない。そして老兵は、――自分よりも若い兵隊をかばう。だが、連中の言った通り、近くにいる誰かを失いたくはない」

「誰だってそうだ。だから、そのために、自分が死なないようにする――だろう?」

「まあ、そうだがな」

「……そういやあいつら、猫はスルーしてたな?」

「共犯者だからな」

 言って視線を落とせば、それに気付いたかのよう黒猫は顔を上げ、欠伸を一つして首についた鈴を、小さく鳴らした。

「お前はここで続けるのか?」

「ん……ああ、弟子を取るつもりはないし、上手く生きたまま引退できりゃいい」

「ふん、老後の資金を貯めながらか? 悪いとは言わんが――次に、お前から情報を買うこともないだろうな」

「なに言ってんだ……」

 この女は、最初から最後までずっと、情報を求めたりはしなかった。

「だが、どうしてだ?」

「ん?」

「どうして情報を求めなかった? 俺はまだ、お前が最初に持ってきた情報の代金すら、返済したとは思っちゃいない」

「お陰で今日もタダ酒だ」

「おい」

「情報の使い方、いや、扱い方に関しては嫌というほど教わっている――が、それを実際に使うことを、私は経験していない。それは今も同じだ。はっきり言おう、まだ私は情報の売買に手を伸ばすのが少し、――怖い」

「……」

 それは、特定の人種に表れる感情でもある。

 鼻が利く、肌がチリつく。踏み出そうとした一歩を、待てと自制して留めることができるそれは、経験則と呼ばれるものだ。特に手酷い失敗をした者は、類似した空気に対し、ここから先は怖いと、そんなことを笑いながら言って、手を引く。

「何が怖いのかは、よくわからん。失敗した時なのか、それとも失敗に誰かを巻き込むからか――情報を上手く使って、有利に動くことは可能だろう。しかし、それは私自身の行動でしかない。情報で場を動かすような真似は、どうもな……」

 その感覚を、まだ経験していない彼女が既に知っている――。

「そうか。てっきり、俺が持ってる情報くらい、全部知ってるって思ったよ」

「それはどうだろうか。知っている振りくらいはするだろうが――そこまで思い上がっていないとも。餅は餅屋、そんな言葉もあるからな。私は情報屋ではない」

「――だとして、兵隊も辞めたお前は、軍部に間借りした組織に行くお前は、一体なんだ?」

 問えば、決まっていると芽衣は笑う。

「私は朝霧芽衣だ。――

 だから、彼も笑ってそれを受け取る。何故って、同じ台詞をジニーから聞いたことがあったから。

 ただまあ、一つだけ心配事があるとすれば――情報屋として、ここからの芽衣の情報を積極的に仕入れるべきかどうか。

 まったく……本当に悩ましい問題である。


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