第137話 錯綜に錯誤、もう降参
出された日本酒をちびりと一口含めば、ほうと吐息が落ちるほどの美味しさが、口から喉に流れる感覚があって、
酒を飲む時の雰囲気は大事だ。この酒が美味しいと思っていても、状況が変われば違う味にもなる。もちろんそれは精神的なもので――だからこそ、この店ではこの酒をと、そう天来は決めていた。
訓練校に近い路上の、移動店舗。昔から世話になっている屋台で待っていれば、一杯の半分ほどを飲んだ頃、ようやく、ケイオス・フラックリンが顔を見せた。
「いらっしゃい」
「よう。いつもの」
「遅いですよう、教官殿」
昼間の顔はどこへ行ったのか、冷徹な仮面をつけた姿とは打って変わり、だらしなく頬を緩ませるようにして、天来は出迎えた。こちらが素の顔である。
「教官はよせ、何年前だと思ってんだ。今じゃそっちはフタマルのファースト、こっちはヒトマルの一員。立場なんぞ同じだろ」
――そもそも。
天来穂乃花がどうして訓練校に顔を出していたのかと問われれば、ケイオスとの待ち合わせであった。厳密に言えば、天来の休暇がこれからあるので、恩師でもある、かつての教官と、久しぶりに酒でも飲もうと、タイミングを合わせただけなのだ。
「グロリアス、お待ちどう。あんたはずっと顔を見せないから、キープボトルの中身が腐らないか、いつも心配をしてた」
「捨てる時はお前が店をたたむ時だな」
「物騒なことを言うな……」
店主の対応は、つまり、情報屋としてのものになっている。そういう知り合いだ。
「何をしていたんですか。宿舎に顔を見せてもいないし、面倒な相談はされるし……」
「そりゃ、朝霧芽衣に関しての調査だ。芳しくなかったけどな」
「あー……A級ライセンス保持者ですよ、あれ」
「そのくらいはこっちでも掴んださ。というか、公式記録はそのくらいなもんだ。俺が調べた限りじゃ、訓練校に入るまでの経歴は真っ黒。綺麗すぎて話にならんくらい、偽造の痕跡すらありゃしねえ。つまりそこで痕跡は途絶えてる――ぽっと今、まさに生まれたばかりだと言われた方が、よっぽど信用できるレベルだ」
「きょうか……ケイさんが調べてそれじゃ、私にはどうしようもないですねえ」
「ですねえ、じゃねえよ。情報収集はそっちの専門だろ」
「アキラ大佐に言われましたもの。私の錬度不足だって」
「だからって開き直るな……アイスとまで呼ばれてるお前が、なんたるザマだ」
「望んで得た称号でもないですし」
そもそもの発端は、あのいけすかない女である朝霧芽衣が指摘した通り、あるいは不幸な事故だったのだろう。
地下鉄の自爆テロ――仕事の都合で国外に出ていた天来の両親は、その爆発に巻き込まれて亡くなった。それを知ったのは、待ち合わせをしていた馴染の料理店で、女性店長と会話をしていた時だ。
――どうして。
天来は泣いた。おそらく、一生分をその時に泣いたと思う。何故ならば彼女は、それ以来、泣いたことないから。
そして。
天来は憎しみを抱いた。
鉄を容易く溶かすほどの熱意を、全て憎しみへと変えた。
祈っても戻らない現実に、神を憎んだ。
テロを引き起こした者を憎んだ。組織も憎んだ。
防ぎきれなかった者も憎んだ。
何もできなかった己すら憎しみの対象にした。
そんな子供は、孤児院だとて世話をしきれない。手のつけようのない子供ならば――軍門を叩く、充分な理由になる。
はっきり言えば、売られたのだ。そして天来自身もそれを認め、士官学校へ入った。
そして、最初のブートキャンプ、この訓練校での基礎訓練での担当教官が、ケイオスだったのだ。
「憎しみって熱量を全部、自分の中に押し込めて、我慢してただけなんですけどね」
「だから、氷という仮面を張り付けてるって評価になるんだろ」
けれど、でも今は。
「二十一になった今じゃ――子供だったなあと、そう思います」
天来の中で憎悪は死んだ。いや、最初から大して強く残っていたわけではないのだ――感情と呼ばれる一時的な熱量を、失くしてはならないと、忘れてはならないと。
そうやって、憎悪を抱かなければ、天来は生きて行けなかっただけ。
「だから今も、立場上、氷の仮面をつけてるだけです」
「……辞めるのか?」
「それも考えてますよー。状況を見て、ですね」
「ふうん? つーかお前、まだ二十一だっけか……?」
「そうですよ! まだまだ若いんです! 軍門を叩いて二年、組織に入って二年です」
「見た目もちびっこいしなあ……懐かれるのは猫だけで充分なんだが」
「え? ケイさん、猫好き?」
「いや、好きも嫌いもねえよ。ただやたら懐かれるんだよ……椅子に座った瞬間、膝に三匹くらい乗ってきて、背中やら肩やら頭やら――どうでもいい話か」
「う……やっぱわかりますか?」
「朝霧芽衣から話を逸らしたいんだろ」
「私の経歴も見抜かれてましたし……あのう、店主さんはどうです?」
「何がだ?」
「感想を聞かせてください」
それはつまり、情報を売れとの催促ではなく、あくまでも持っている情報からの感想――これ自体が情報になりうるので、売買を前提としたいのだが、付き合いもそこそこ長い相手だ。
「昨日、
「――なんですか、それ。ケイさん知ってます?」
「……店主、それはどっちから振った話題だ?」
「彼女からだ。世間話程度のことだが、上手く本質を捉えていた。情報集めに余念がない……とも思えるがむしろ、俺には確認作業を一つずつ行っているように感じた」
「今まで知識として蓄えた、あるいは方法論として教わったことが、実際にどのような結果になるのかを確認してるってか?」
「そうだ」
「……ここのところようやく、俺だって情報の収集経路なんてもんを確立しつつあるって感じなのに、あの年齢でもう? 本来なら、軍部を出るくらいで始める社交技術だろ……狩人にでもなるつもりか」
「あるいは、
「そこらは全部、曖昧なままだ。可能性だけなら山ほどある。ただ、訓練校を出たあとはうちの組織が引き取るってのが、今わかってる事実ってやつだ」
「大佐は了承済みって感じでしたね」
「……、現役の狩人でも当ててみりゃ、面白いか?」
「――やめておけ」
半ば冗談ではあったが、やろうと思えばできる範囲での言葉に、店主は思わず制止してしまい、カウンターの中で頬杖をついた。
「結果どうなるかまでは知らん。だが俺は、彼女を敵には回さないと決めている」
「おい、本気か?」
「本気だし正気だ」
逆に、そのためならば何でも敵に回すと、彼は言っているのだ。
「どうしてそこまで評価しているんですか?」
「評価、なあ……ザック軍曹が、教官をやめたいと愚痴ってたのを聞いたか」
「あいつ以外に適任がいるかよ」
「私にも似たようなことを言ってましたね」
「気付かないのは、お前らの視野が狭いからだ。本人から、間抜けだの何だのと、さんざん言われたんじゃないのか」
「あー、果てしなく悪く言われました」
確かに――あのジニーとの繋がりを考えれば、優遇したくもなる。なるが、それは一切ないものとして考えても、返答は変わらないだろう。
「まず一つ教えておく。あいつには
「――意図があって手配されたわけじゃねえってのか?」
「そこまでは言わないが、手配された意図は彼女が持っているものだと考えた方が良いだろうな。これは情報じゃないから代金を受け取らない」
言えば、二人は頷く。つまりこれは商売ではないのなら、ここだけの話というわけだ。
「ザック軍曹の言葉をそのまま飲み込めば、彼女は訓練教官くらい、やってのけるだろう。それはどういう意味だ?」
「……単純に捉えれば、軍曹の経歴書に記載されてるものを、朝霧もやるってことだろ。つまり、階級における軍曹の働きぶんくらいはできるってことだ」
「お役御免ってことは、役を取られるってことでしょうし」
「そこまでわかっていて、どうして発想を広げない? お前らの上官の大佐が、錬度不足だと言うのも頷ける話だ」
あえて、アキラの名前は出さなかった。ジニーと同じような客だったが、それを彼らに教える必要はない。
「頷けるんですかあ……」
「俺が彼女と初めて顔を合わせた時、一つの符丁を使った。これは紹介を意味するし、
「あんた、業界じゃ結構な古株だろ……?」
その対応に、ため息が一つ。
「いいか、よく聞けヒヨっ子ども。情報屋にとって、情報の売買は基本だが、どうやって情報を仕入れるか、その手段こそが重要になる。あいつはそれを既に持っていて、売買するのは仕事じゃないという態度があったからこそ、そのデータを俺に無償で渡して、ある証明をした」
そこで言葉を一度区切った彼は、煙草に火を点けてから、二人を見て。
「――あいつが部下なら、俺のやる仕事はあるのか?」
ようやく、その言葉で僅かながらの理解を得た二人は、ぴたりと躰を停止させた。
「現状での立場は、あくまでも訓練生かもしれない。フラックリン、お前に振られた仕事をあいつができないとでも? アイス、電子戦技術であいつが勝てないとでも?」
そうだ、天来はそれを知っていたのに、気付いていなかった。
「お前ら、あいつがいれば、不要じゃないか?」
言葉は厳しいが、まさにその通りで。
結局のところ、彼はそれこそが重要であると考えていた。
「あいつは今、いろいろと試している最中なんだろう。俺に対し、情報の使い方を試す意味合いで渡してみたり、教官の真似事をして同僚の反応を見る。戦闘技術で派手なところを見せた際のお前らの反応、電子戦技術を利用した遊びへの対応――どうする? どうなる? 口が悪いのは期待の裏返しだ」
「簡単に言えば、イラついてるってか……?」
「この程度かと落胆したからって、それじゃ片付けられないくらい口が悪いと思いますけど」
「図星を言い当てられて怒るくらいなら、反省しろと、あいつなら言いそうなものだが?」
「う……」
「……似てるな」
二杯目を頼んだケイオスだが、視線を手元に落としながら、ぽつりと呟く。
「なにがですか?」
「いや……俺たちの教官というか、先生がいるんだよ。もう二年くらい世話になっているんだが――」
「へえ、ケイさんでも指導されるんですねえ」
「そりゃそうだ。お陰で軍人って立場から足を踏み外しそうだが、主に術式関係と立ち回りに関してな。ただ、指導と言えば聞こえは良いが、実際にはそうでもない。なんだろうな、努力を強制させられる感じか? 失敗は責められないが、手をつけないと責められる」
「え、どこが似てるんですかそれ」
「視点……か? 戦闘訓練を中心に徹底的に叩きのめされて、早く成長しろと待っている感じ――ああ、上手く言えねえな。勝手にトラブルを起こし、こっちの対応を見ながらも、その上で、早く対処をしろと暗に言われているような……」
おそらく、当人を見ていなければ、わからなかっただろうけれど。
ケイオスのその感覚はきっと、間違っていない。
「――まあ、年齢もたぶん、近いしな」
「ケイさんの先生、まだそんな?」
「嫌になるぜ? 初日の戦闘訓練で俺ら、全治二十日くらいだったからな……?」
「うげ」
「こっちからは傷一つ、未だに……、……待て、なあ天来」
「なんですか?」
「朝霧は、術式を使うと思うか?」
「えっと……私、そんなことわからないんですけど」
「おい店主」
「何故、その疑問を抱いた?」
「俺の先生は、顔を合わせただけで、相手の
「それだけじゃないだろう?」
追加の問いかけにようやく、ケイオスは顔を上げて新しいグラスを受け取って。
「格闘訓練の教官をけしかけて様子を見ようと思ったが――その最中、こっちを……俺を見ていた。おそらく事前情報は持っていただろうし、実際にその場の戦闘の結果は、そこそこだと思っただけだが」
「――ケイさん。そこそこですか」
「ん?」
「あの子はきちんと、殺さないよう加減したのを含みで、そこそこですか?」
「そう……言っていたのか?」
「ええまあ。本気でやっていたら心臓が壊れていたし、吹き飛ぶこともなかったと、そんなことを軍曹から聞きました。初めて技を使った時は、相手が外傷なしで、ガードした腕二本、肋骨三本に内臓破裂だったそうで」
「マジかよ……」
「見抜かれたのはどうやら、フラックリンの方だったようだな?」
「俺、しばらく近づかないことにする……」
「白旗ですか。まあ、ケイさんがそう判断するなら、私なんかもう、関わらないよう立ちまわるしかないですね」
「情けないな、フラックリン。そうそう、会話の流れだったんだが、あいつは狩人について、どう表現したと思う?」
小さく笑い、あるいは心を折るつもりで、彼は言う。ああだが、かつてJAKSと呼ばれていた四人組もまた、朝霧芽衣のような問題児だったのかもしれない、なんてことを思った。
「――町の便利屋さん、だそうだ」
やってらんねえと、ケイオスは呟いて、酒を飲む。いつもの銘柄なのに、やはり今日はどうも辛口だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます