第130話 そして彼女は独りになる
かくして、鷺城鷺花の予言は、当たることになった。
2052年、十二月五日。
ゆっくりと、まばたきをしながら外の光を目に取り入れたジニーは、やや時間をかけるようにして深呼吸を一つした。
明暗がわかる程度の視界でしかなく、その瞳を見たのならば、薄く膜が張ったように見えていたことだろう。
「――芽衣か」
けれど、まだ動く感覚と、思考から導き出された推察が、そう言葉を発していた。
「屋内に立ち入れるのは私だけだと、そう命じたのも忘れたらしいな、師匠。一日と八時間も寝ていたのだ、もう満足に躰も動くまい」
「ああ……気付いてたのか、お前」
「鷺城との訓練で得たものだ」
「ま、そうだよな。……ああ、見えねえなクソ。リズィ、いるか? ――まだいたか、目を貸してくれ。芽衣が見たい」
それが誰を指すものか、芽衣は知らない。だが、推測くらいはできた。
「……はあ、終わっちまうか」
「――満足か?」
「こうなってみて、初めてわかるものもある。悔いはあるか? そう問われりゃ、あるさ。まだ、そうだな……あと十年、お前の成長を見ていたかった」
心底から、そう思う。だってここ一年だとて、相当な無理をしながらも、それでも、一日に一度は顔を見たくなるくらいには、気にかけていた。それがここで終わることを、否定したくもなる。
「だがまあ、満足は、してるんだろうな……こうなっちまったのは、俺の生き方の全てだ。お前には言っただろ」
「星条旗に誓いを立てるな、
「お前は、お前のまま生きればそれでいい……アキラに連絡を入れろ、あとは任せてある」
「……以前、顔を見せた時にか?」
「まあな。思った以上に、お前と過ごす時間が楽しかったからか、長生きになったけどな……」
無理をしてでも。
やはり、そうしたかったのだ。
「何か、欲しいものがあれば、アキラに言え」
「――必要ない。もう、欲しいものは師匠に教わった」
「嬉しいことを言いやがる。じゃあ、まあそこらは、好きにしろ。だったら、そうだな――」
少しでも、ああ、まだこれから、ほんの数秒でもいい。
芽衣と過ごせる時間を、伸ばしたくて。
「お前は、こっちに来るなよ? せいぜい俺を待たせて、生きろ」
「当然だろう……」
「ならいい。だから先に行って、俺が朝霧……お前の両親に逢っておく。何か言伝はあるか?」
「そうだな、では、軍人にはなるなと言われたが、守れなくてすまないと、伝えてくれ」
「はは、そりゃ俺にも多少の原因はあるな。伝えとくよ。あ、ガキ連中はどうしてんだ」
「銃器の使用を許可して二ヶ月だ、そこそこのレベルにはなった。一応、選択をさせるつもりだが、連中も一緒に訓練校だろうな」
「ああ……もう、任せても良さそうだな、そこらは。だから、――ああ、芽衣、師としてお前に、言っておく」
「なんだ」
「芽衣、お前は一人前だ」
「――師匠、だが」
「いいんだよ芽衣、べつに完成したとは言っていない。弟子なんてのはな、一人前と言われてからが、成長の本番だ。本当ならもっと先にした方がいいんだが……それでも、一人前だと認めてやるのは、師しかいない。俺しかいねえんだよ……だから、言っておく。大丈夫だ芽衣、お前はもう、一人前だ」
「……ああ、わかった」
「これから先、いつか、お前が弟子を見つけて、たとえば俺のように、全てを教えてやろうと思ったら――最後には、必ず、一人前だと伝えてやれ。そして……はは、笑い話だが、そう言えたことで俺が、師が、ようやく、完成したと、そんな事実を今、口の中で転がしてるよ……」
それは完成であり、成長や進歩の、――終わりだ。
想像していたよりも、ずっと、濃い味だった。
「情けねえ――まだ教えたいことも、山ほどあったのに、結局、本気でお前と戦闘することもなかったな……」
「ふん。今の貴様ならば、余裕そうだがな」
「馬鹿言え、お前なんぞに後れを取る俺じゃねえよ。けど――その必要もなさそうだ」
芽衣は、ベッドの脇に立ったままだったが、小さく笑うようにして言葉を受け取り、ポケットからそれを取り出し、ジニーの手に握らせた。
「ん? ――時計?」
「持って行け、師匠。お守り代わりだ。三途の川を越える時に必要な駄賃にもなる。師匠が私に、最初にくれた腕時計だ」
「ああ、あの女ものの……まだ持ってたのか」
「当然だろう? だが、もう必要ない。貴様が持って行け」
「じゃ、ありがたく、貰ってくよ……」
「私は生きる。誰に恥じることなく、私が生きることで、師匠に育てられた事実を誇れるのならば、そうしよう」
「背負う必要はないぜ」
「そのつもりはない。だが事実だろう、師匠――私は、貴様に育てられたのだ。弟子の腑抜けは、師を
「……芽衣」
「ん?」
「――ありがとうな」
そう言って、ジニーは瞳を閉じて、やはり深呼吸を一つした。
「ったく……人生、いろいろあったってのに、どういうわけか思い出そうとしても、クソ弟子のことしか浮かばねえや」
もう、それは芽衣に対する言葉ではない。問いかけのかたちを作らない、独白。であるのならば芽衣は、口を挟まない。
「なあリズィ……リズィ? ……ああ、そうか、ようやくお前も、ちゃんと死ねたんだな……付き合わせて、悪かった。お前はなんだかんだ……楽しそうに、……ありがとな……ああ。そうだ、俺は、ただ、何かを世界に、残してやろうって、
次第に小さくなっていく声が途切れ、その最後の、最期の一呼吸まで見送って、そして。
――この日、ジニーが旅立った。
「大丈夫だ、師匠。ちゃんと、私がこの世界に残った。だから安心してくれ」
瞳を閉じる、簡単な黙祷。
涙は――出なかった。
外に出れば、冬の寒さが身に染みる。既に準備していたものを使い、芽衣はまず使っていた小屋を燃やした。
これまでジニーに貰ったものや、暮らした証を、炎に入れて消したのだ。これで朝霧芽衣の存在が、ここで消えて、ぽつんと今の芽衣が生まれたことにもなる。想い出を捨てる行為にも近しいが――そんなもの、記憶の中にあればいい。
そして、ガレージにあるジープに乗り、まずは彼らの元へ。
「――ジニーが、死んだ。各自、家の中に入って見てやれ。手配は私がしておく、今後のことは来た連中に聞け」
「待て。お前はどうすんだよ、メイ」
「私はもう決めてある。だが、ここでどうするかは言わん。それを指針にされても困る――が、どうせ後で耳にするだろう。今は、あいつを見てやれ。いいな?」
「わかった……」
そのまま敷地を一周してから、山へ入り、頂上付近で一度停止して、芽衣は。
ハンドルに腕を乗せ、顔を突っ込むようにして俯いた。
「堪えるな……」
泣きたい、とは思わない。涙を出そうとも、我慢しようとも思わないのだけれど、ぽっかりと胸の中に穴が空いたような、比喩ではなく現実に、そうなってしまったような錯覚があった。
だって、そうだろう?
もう、ジニーはここに、いないのだから。
寂しさ? 悲しさ? ――どうだろう。
ただ、もう逢えないという現実が、どうしようもなく苦しいのだ。
……そうか。
「私がまだ、何も、返せてないからか……」
多くのものを受け取ったのに、まだ何も――。
もっと。
ああ、もっと、たくさんのことを、まだ知らないことを、教えて欲しかった。
「……」
だからといって、どうしようもない。過去を忘れるな、だが囚われるな。現実を見ろ、だがそれにも囚われるな――そう教わっているじゃないか。
一度エンジンを切り、携帯端末を取り出して連絡を入れる。といっても、一般回線ではない。一度衛星まで飛ばし、ジニーが間借りしている衛星サーバを経由しての連絡だ。こうしたものも形見になるのだろう――だから、これ以上は望まない。
『どうした』
アキラの声を聴くのは久しぶりで、どこか緊張を孕んだような硬さがあって。
「――ジニーが死んだ」
だからこそ、端的に芽衣は伝えた。
『すぐ手配する。野郎は、……どうだった』
「悔いはあったが、満足したと言っていた」
『――クソッタレが』
吐き捨てた言葉に、僅かな怒気。
『勝手に満足しやがって……残されたこっちには、不満が手に落ちる』
「……アキラ」
『わかっている。だが、そう言ってやらねえとな……』
怒りを滲ませ、不満をぶつける。だからそう、芽衣とアキラとでは、付き合いの長さも、付き合い方も、違ったはずで――そこにある積み重ねもまた、違ったのだ。
『どうする?』
「サンディエゴの訓練校への手続きを。こっちにいるガキ三名には一応、選択肢を見せてやってくれ……まあ、ほかに道もないとは思うが。私は先に現地入りして、やっておきたいこともある」
『わかった。用意してある通り、外注としてねじ込む。多少の年齢詐称は含まれるが、許容しろ』
「ああ、年齢か……問題はないだろう」
『好きにやれ。どうであれ、訓練校を卒業と同時に、うちの組織で引き抜く。お前の兵籍番号はRH601だ』
「諒解した。今から、キリタニのところに顔を出す……ああ、車は全部、野郎に引き取ってもらうが、構わないか?」
『こっちもそのつもりだ。……いいのか?』
「構わない。いいんだアキラ、心配するな。それよりも貴様はどうする? 形見分けなど、早めに差し押さえておいた方がいい」
『――必要ない』
アキラは、苦笑したようにそれを断言した。
『芽衣、お前がいる。それ以上の形見がどこにある?』
「違いない……」
だから芽衣も笑いながら答えて、通話を切った。心なしか軽くなった気持ちで運転を再開、山を下りていつもの作業場へ。
車の音に気付いたキリタニが、作業をしていた車の下から顔を見せる。
「芽衣?」
「キリタニ――うむ、どう言っていいか迷ったのでもう率直に言うが、ジニーがくたばったぞ」
「……あ?」
「ジニーがくたばった。そのうち、アキラの手配した人員がここを訪れるから、通してやれ。カートを含めた車三台は、貴様が引き取れ」
「あー……そうか、くたばったか」
「その様子だと、聞いていたようだな」
「薄情なクソ野郎はな、俺にこう言いやがった。お前が心配することは何一つとしてない。墓守になる必要も、芽衣の心配もだ。更に言えばお前に支払ったカードの残高照会ができなくなる心配もいらない。ハッピーだな? ――おい、こりゃどうだ?」
「はは、師匠らしいじゃないか。事実、私たちが勝手に利用していただけで、お前に非はない。それを冷たいと表現することは、ありがたいがな……」
「その対応、昔のジニーそっくりだ」
「ふん。……キリタニ、今までありがとう。私はこれから、サンディエゴだ」
「訓練校か? よくやるよ……俺はここで、相変わらずの日常だ。寂しくはなるが、何かあったら連絡をしろ」
「それはこっちの台詞だ。面倒に巻き込まれたら、真っ先に私のところへ連絡しろよ、キリタニ」
「いやまず、そうならないよう気を付けるところからだろう……?」
「……そう言われれば、そんな気もするな」
「お前もそれか! ジニーのクソッタレは毎度、トラブルになるとどこからともなく顔を見せて、ぱぱっと解決してありがとうってな具合なのに、よくよく調べると全部、ジニーが原因だって話なんだよ! 自業自得に俺を巻き込むな!」
「そんなことを私に言われてもな?」
「お前は弟子だろ!? 同じことすんなって忠告だ!」
「う、む……わかった、わかったから落ち着け。善処する」
「ったく、本当に師弟似やがって……」
「私は師匠ほど性格が悪くないぞ?」
「言ってろ。まあ、とりあえずは諒解だ。アキラが手配した人員が来たら、車を全部こっちに持って来いと言えばいい。残しておくか?」
「好きにしろと言えば、貴様は残しておくんだろうな……」
「まあ、そうなる」
「ならば解体しろ。そして、一台だけ私専用の車を用意しておけ、いつか金が溜まったら買ってやろう」
「理由があった方が解体しやすいって配慮か?」
「その通りだが貴様、それを指摘するのは性格が悪いぞ?」
「お前ほどじゃねえよ。芽衣、元気でいろ。俺より先にくたばるな。いいな?」
「それは私の台詞だ。頼むから、老衰以外で死ぬなよ、キリタニ。――さて、貴様のワイフにも挨拶をしてこよう」
「おう。……芽衣、大丈夫か?」
「――ああ」
いつしか、先ほどまで感じていた空虚さも、薄れていて。
「大丈夫だ。私は独りになってしまったが、まだ貴様もいる。そして、これから人と関わって生きられる――師匠の名に恥じない生き方を、したいものだな」
「そうかい」
そうやって前を向けば、これからのことが楽しみでもある。
何が待っているのか、それを想像することはできるけれど――それを越えた時、自分がどう成長しているかだなんて、その時になってみないと、わからないからだ。
芽衣は独り、足を進める。
けれどそんな時間は、最初のちょっとだけ――そして、ちょっと早い、独り立ちであった。
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