第120話 子供にやってはいけないこと

 覚醒した意識が捉えたのは、テンポの良い足音だ。近づいてきて、遠のいて行くその音に朝の走り込みかと、壁から背を離して立ち上がると、ソファに転がったジニーに一瞥を投げる。規則正しい寝息だが、意識が起きているのもわかっていて、無視した。

 膝を片方だけ立てて、壁を背中にした状態でも睡眠は問題ない。かつては刀を抱えていたものだが、それがなくても同じことだ。

 顔を洗って、歯を磨いてから外に出る。昨夜はだいぶ飲んだが、翌日に引きずるような下手は打たない――が、それにしても久しぶりの良い酒だったのは確かだ。

 いや、いつだってそうか。

 友人との酒ほど美味いものはない――過去を思い出せば、苦みもあるが、それすら楽しみにするものだ。

 庭をぐるりと見れば、道路の脇に水のボトルが二本、タオルと一緒に置いてある。時計を見れば五時半、しばらくすると足音がまた聞こえてくる。

「――む、おはようアキラ」

「おはようさん」

 立ち止まり、ふうと吐息を落として水のボトルを手に取った。アキラは知らないが、今の芽衣はキャップを自分で開けられる。

「朝は走り込みか。普段のスケジュールはどうなってる?」

「決まっているのは、朝の走り込みと昼食後のかくとう訓練だけだ。だいたい午前中は畑仕事、午後からはてきとうに遊びながら、夕方からは読書、そんな感じだ」

「格闘訓練はどのくらいやってるんだ?」

「まだ二ヶ月……くらいだろう。げんみつには、きそをやっていたので、あまり」

「――ああ、基礎って重心とかそういうの」

「うむ。ほかにあるのか?」

「ほかっつーか……実際にジニーとやり合うとか、そういうのはどうした」

「最近はやっているとも」

「へえ? ものは試しだ朝霧、ちょっと打ち込みを一発やってみろ」

「いいとも」

 軽く掌を出せば、芽衣の右拳が放たれて吸い込まれ、やや乾いた音が一つ。速くはないにせよ、足腰がしっかりしており、踏み込みも充分。その上で体重が乗った一撃だ。

「なるほど、確かに基礎はできてるってところか」

「そうか?」

「できているが、攻撃にはなってない――それが現時点での、俺の判断だ」

「……しゃくだが、ししょうには一発も当ててない。いつもぼうせんばかりだ」

 まずは防御から、というのは悪い教え方ではない。しかし、後手を踏んでからの切り替えをどうするか、更には防御することを攻撃の視点に移すタイミングが難しい。はっきり言ってしまえば、おそらくジニーも認めるだろうけれど、この点においては誰よりもアキラが得意とする領分だ。

 体術、そう呼ばれるものにおいて、アキラはおそらく、世界中を見渡しても五本の指に入るほどの技術を有している――何故ならば彼は、生粋の武術家だからだ。

 日本にある武術家の中において、あらゆる得物を扱いながらも、一つの得物だけを追い求めた武術家をはるかに凌駕する、雨天うてんという家名がある。アキラはそこの生まれであり、今は軍部にいるが、それも免許皆伝を受けたからこそ――単独で雨天を名乗るだけの技量を継承したからこそ、好きに仕事を選べているに過ぎない。

 もっとも、妻を失ってからはしばらく、本気で武術家としての戦闘はしていないが。

「力が止まってる」

「――どういうことだ?」

「どうやらジニーは、こと重心移動に関しては、徹底して教えたらしい。お前は今の一発に関して、体重移動と共に存在する、力の移動まで感じられているだろう?」

「ああ、そもそも重さは力になると教わっているし、感覚でつかめとも言われた。今のだと、左足のふみこみから、こしのひねり、それらの力を肩、肘を伝わってこぶしへとつなげて、そちらへ届かせた。ちがうか?」

「合ってるよ、それは俺にも見えた」

「見えるのか……?」

「そりゃそうだ。だがな、お前の力はそこで終わってる。意識を向けてみろ朝霧、拳が当たった時点でその力はどうなる?」

「どう……伝わるんじゃないのか?」

「仮に、水の中で同じ動作をした時、お前の拳は水をで、その先に何も伝えちゃいない」

 というか、こういうのを教えるためにジニーは呼んだんだなと、半ば確信を抱きつつ、まあ弟子ってわけでもなし、遊び程度に教えるのならいいかと、そんな軽い判断もあって。

「叩くんだよ朝霧。殴るとはまず、対象の表面に衝撃を与えることだ」

 ゆっくりと、それこそ三秒かけて右足が軽く浮き、踏み込みまでに六秒をかけて、いざ作られた拳が正面に突き出されるまで、ゆうに十秒は要して、まるで見世物だなと芽衣は思っていたが――しかし。

 拳の先で、ぱんっと空気が破裂したような音を立てた。

「――、なにをした!?」

「言ったろ、叩いたんだよ。空気の表面に衝撃を与えたんだ。肩から肘、拳へと繋げた力を、その先にある対象の、空気へと伝えた。この場合、点ではなく面として意識すると、少しわかりやすくなる」

「面……」

「押すんじゃなく、叩く。これが攻撃――基本四種と呼ばれる中の、一番ありふれた〝ボウ〟ってやり方だ。力任せに殴ることも、これに含まれる。外部破壊ってやつ」

「……木の表面をけずるようなものか?」

「ああ、その通り」

「四つもあるのか」

「しょうがねえな……」

 興味深げな視線を向けられれば、相手が子供ということもあって、どうしたって教えたくなる。ただ、できるかどうかは疑問であるし、あくまでも武術家としての基本だ――徹底して教えるわけにはいかない。

 といってもこのくらい、ジニーは経験によって会得している。アキラのように、基礎として叩き込まれたものではない。いずれにせよ至るのならば、今教えても問題はないのだろう。

「肩から肘、そして拳に力が動くのなら、その先も行けるだろうって考えを持てば、障害物そのものを使って、その向こう側へと力を伝えることもできる。それが〝トオシ〟と呼ばれるものだ。動くなよ朝霧」

「ん――」

 掌を軽く、ぽんと芽衣の腹部に当てれば、先ほどと同じ空気が破裂する音が、芽衣の背中側で発生した。

「うしろか!」

「お前の躰を通り抜けて、反対側に徹した」

「つまり、これはあれか、わたし自身を、肘にしたようなものか!」

「そうそう、そんな感じだ。まずはこの二つを覚えたら、今度は二つを一緒にやる。つまり、手前と奥、両方に力を与える。それが〝ヌキ〟だ。これができるようになると、そもそも、普通に防御しただけじゃ意味がない」

「ガードごと体にも、両方に力が加わるのか……」

「まあな。で、力そのものを一点集中させ、対象を内側から破裂させるのが〝ツツミ〟――これらが、基本四種。力というか、衝撃用法ってやつだ」

「待て」

 小さく手を上げてから、癖なのだろう、芽衣は腕を組み。

「それらが基本だったとして、きさまらは、せんとうの最中に、相手のこうげきがどれであるかを見抜きつつ、たいしょしていると、そういうことか?」

「どうしてそう思う」

「一発を食らえばそれで終わり、それがせんとうだと、言われている。しかし、かいひだけでなく、守りも必要だ。トオシというのは、あれだ、遠当てだろう? えんきょりになる。わからなければそこで終わりだ」

「まあ――そうだな。通じるかどうかはわからんが、俺なんかだと攻撃の意図を感じた時点で、種類に当てをつける。だが安心しろ、仮にお前が基本四種を使えるようになれば――それらを、どうやって防御するかもわかる。衝撃用法とは、放たれた衝撃そのものに、どう衝撃を与えれば相殺できるか、そこまで含めるからな」

「安心はできんが」

「あまり急がなくてもいいんだけどな……力の移動を理解したら、今度は制御、その先に把握だ」

「気に入らんが、そこを見越して、ししょうはわたしを育てていると?」

「ま、そういうことだな」

「あいつは一回なぐらないとだめだな!」

「お前は弟子としてよくやってるよ……まったく。走り込みはいいのか?」

「今日はこのくらいだ。追い込みは毎日やるなと言われている」

「……、軍人に興味があるって?」

「ん? まあ、親がそうだったからな、どんなもんかと思っているくらいなものだ」

「軍人として生きたいわけじゃないんだな?」

「それは先の話だ、わからん。まったく、年寄りはすぐに人生かんを持ち出すからな。付き合うわたしのことを少しは考えて、同情してくれ」

「いつになるかわからんが、俺に連絡を入れろ。手配してやるよ」

「ならばしゅうしょくの心配はいらんな! ところでししょうはどうした、朝めしをどうするか聞いていないぞ」

「もう起きてるから問題はない」

「――どうしてわかる?」

「不思議か?」

「ししょうもよく、似たようなことをする。何を感じ取っている?」

「まず第一に、人の気配ってのは消しようがない。隠し、誤魔化し、紛れても、存在自体が消えるわけではないからだ。だが、人によって気配は違う」

「それもよくわからん」

「そこから動くな朝霧、もうちょい距離を取る。ったく、こいつもジニーの仕事だろうが」

「ただめしを食えるなら、そのぶんははたらいて返せ!」

「偉そうに……ま、んじゃわかりやすくやるか。行くぞ朝霧、たとえば戦闘態勢になると、こういう気配を見せるやつが多い」

「――」

 タオルに首をかけた芽衣は、その気配にすぐ腰を落とした。

 空気が張り詰め、温度が下がったような気配がある。胸中に浮かんだのは恐怖の二文字、笑っているアキラから今すぐでも目を逸らして逃げたいくらいだ。

 ――だが。

 逃げるだなんて、ありえない。しかも理由が怖いから、だなんて、許せるはずもなかった。

 故に。

 半歩、アキラが踏み出した瞬間に芽衣は前へと動いた。離れ過ぎている、芽衣の歩幅では踏み込みが遅くなるからと、一気に躰を瞬発させる。

「――と、まあ、瞬発力を使うだろうとわかってりゃ、対応できる」

「ぬう……」

 瞬発を使った踏み込みは、甘さが一欠けらでもあれば、自身の移動速度を把握できない。しかも、ほぼ直線移動になるため、通り過ぎた芽衣の背後から襟首を掴み上げるくらい、簡単なものだ。

「だが、前を選んだのは良いことだ。気配の違いはわかったか?」

「おろしてくれ」

「ああ悪い」

 襟首を離して下ろせば、すぐに芽衣は腕を組む。

「しかし、気配がちがったら合図にならないか? オールレンジアクティブもそうだ」

「じゃ、お前は五人が同じ気配を持っている中に、平然と当たり前のまま踏み入って、目立たないと思うか?」

「ぬ……」

「まあジニーや俺は、仕事なら何も変わらない状態で現場入りするんだけどな」

「きさまらはばかだからな!」

「それが効果的な状況もあるってことだ。話を戻すが――そういう気配を掴むんだよ。熟練者になればなるほど、その差異が小さい」

「だが、ちがいがある?」

「違いを作らないようにもできるし、それが馴染んでいても、ほどほどに変えないと生活にならないからな。ま、単純に寝てる時と動いてる時じゃ、空気の動きの量が違う。何をしているかまでは探りを入れないとわからないがな」

「探れるのか?」

「入れた瞬間にジニーが対応するだろ?」

「いたちごっこじゃないか……」

「戦闘の効率化や高速化に対応できるようになるまで、時間がかかりそうだな。残念ながら、そいつがわかった頃に俺とやることはない」

「きさまも老いているからな……安心しろ、わたしは年寄りにやさしいぞ」

「その割には、キリタニが妙に変な顔をしてたぞ?」

「それはあいつがまだ若いからだ」

「ふん。ほれ、まだ時間はある、かかってこい朝霧。遊んでやるよ。ジニーが相手じゃ防戦一方、回避に専念するくらいなもんだろ? 俺は手を出さない、存分に攻めろ」

「――いいだろう」

 防御と攻撃では、どう考えても攻撃の方が困難だ。たとえば武道において、型と呼ばれるものがあり、それは攻防の両方が存在するものとして、比較的最初に覚えることもあるだろう。だが武術との違いは一点――それが現実に通用するかどうかだ。

 通用は、あるいはするかもしれない。けれど生き残ることと直結するはずもない。何故? だって、武道は戦場での利用を前提としていないから。

 一度でも命のやり取りを行った者に言わせれば、攻撃の難しさは筆舌に尽くしがたいだろう。まず一つ目、――攻撃を回避された時の疲労は大きい。

 誰だとて攻撃など、最初から当てるつもりでいる。どれほど虚実を混ぜても、当てなければ攻撃ではない。フェイクを散らせて狙った本命を、ひらりと避けられた時の喪失感は心労も重なる。

 ゆえにまず、アキラは徹底して回避した。ひらりひらりと、あえて芽衣の姿勢が崩れるように誘導しているのだが、もちろん本人は気付かない。

「どうした朝霧、もう重心がズレてきてるぞ?」

「くっ……!」

 まずは接近するだけ、その選択は正しい。だが、当たると確信を得た場合にのみ攻撃をする方法だからこそ、それを避けられる。

 ではどうすればいい?

 方法はいくつかあるが、それを教えても今の芽衣に実践はできない。基礎を費やし、場数を踏まなくては。

 ――だが。

「根性があるな、お前」

「ひにくか!?」

 そうではない。これだけ当たらないのに攻撃を続けた結果、アキラの足元、地面が削れている。それだけの回数、攻撃を仕掛けてきているのだ。

 まったく、本当に根性がある。

「――おい芽衣、朝飯だ。シャワー浴びてこい、終わりにしとけ」

「ししょう! なんだこいつ、なんで一発も当たらないんだ!」

「ダンスパーティに誘われたクソ間抜けが、相手の足を踏むことすらできてねえほど、お前はダンスってもんをわかってねえってことだ。いいから汗を流して着替えろ」

「くそう……!」

 ジニーの脇をくぐるよう、玄関から入った芽衣に視線を投げてから、やはりジニーもまた、足元に視線を向けて確認した。

「二ヶ月だと?」

「ま、せいぜいそんくらいだ」

「重心を意識させたのはいいな」

「馬鹿言え、――それしかさせてねえよ、今までずっとそうだし、これからもそうだ」

「道理で、大した錬度だと思ったよ……」

「武術家の目から見てどうだ?」

「方向性を、上へやったのは良い判断だ、どっちにも転がれる。ここからどうする?」

「そりゃ、しばらくはずっと基礎だ」

「そうじゃない。将来的な話だ。どう転がす? 拳銃とナイフか?」

 その問いに、玄関に背を預けたジニーは、腕を組んで笑みを浮かべたまま、答えない。だが、その態度こそ答えそのもので。

「――冗談だろう」

「俺が生きている限り、俺の知る全てを、あいつに教えると、俺は芽衣に言った。知ってるか? 子供に対して一番やっちゃいけねえのは――嘘をつくことだ」

 だから。

「どう転がす? 冗談を言ってるのは、そっちだアキラ」

 ここから先など、決まっている。

「――。何もかも、俺が持っているものは、これから、あいつのものになる。だからせいぜい怖がってろ」

 どうしたって、弟子なんてものは。

「師を越えてこそだ。そうだろう?」

「ったく……」

 決して、ジニーは自分の痕跡を後に残したいわけではない、それが伝わるくらいの付き合いがある。

 ただ、朝霧芽衣という少女に、望むものをすべて与えたいだけだ。

 それでてめえがくたばった後は、任せたと言う――クソッタレだ、ああまったく。

「俺の友人は、我がままでいけねェよゥ」

 思わず、昔の口調が戻ってしまったが、ジニーはそこに突っ込みを入れなかった。

 内心では、すまないと思うけれど、相手は友人である。そんな言葉はきっと、聞きたくなかっただろうから、笑った。

「――はは、今更の話だぜ」

 さて、朝食の時間だ。


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