第104話 瞬刹
昔の人は、日本に来ると醤油の匂いがする、なんてことを言ったらしいが、刹那小夜にとって二年ぶりの帰国ではあったものの、何かが違うなと思うことはあれど、その正体がなんであるかと考察に至るほどではなかった。
ただ、出た時と同じく
日本がどうであれ。
この、
封印指定区域にいた頃の感覚は、もちろん忘れるはずがない。軍部にいた頃、戦場は三ヶ所に顔を見せたが、そのどれとも違っている。
かつては、感じなかったのに、今はわかるのは何故だ。
重くなったような錯覚のある右足を強引に動かせば、ぞくりと背筋に違和が走り、背筋が正される。それなのに、肩を上から押されるような圧力が増した。
何もかもが混ざり合っている――そんな、直感。
怖さはないが、警戒心が浮かぶ。
何がどう、と口に出すことは難しい。少なくとも周囲を歩いている人たちは気にしていないようだ。
魔力が濃い、という感じでもない。それこそ、小夜の故郷だったあの場所の方がよっぽど濃密であったし、敵意がある何かとも思えない――つまるところ、わからないことが警戒に値するわけだ。
さて。
とりあえずコンビニで握り飯を買い、ドル札でも対応されたことに疑問は抱かず、ただ飯の美味さに少し驚きながら、向かう先はベルのマンションだ。
そもそも日本において、小夜が行く先はそこしかない。
煙草を吸う場所はなかったが、歩いているとそれなりに
ベルのマンションまでは、のんびりと歩いた。
以前と同じ光景だったが、感じることは違う。広すぎる駐車場には、車が一台もなく、ガレージに入っているのはおそらく、ベルの愛車だろう。ビルほど高くないが、三階建てのマンションは、一階につき二つしか住居がなく、三階は壁を多く抜いていて、ベルの家になっている。
無駄が多いとも思えるが、住んでいる人間が少ないのだから当然だろうし、このくらいの不動産が持てるくらいには儲けているのだろう。
入り口のセキュリティは、指紋と網膜。登録してあったらしく、そのまま中へ。
これまた広いエントランスを抜け、奥のエレベータで最上階に行くと、すぐに玄関がある。
『おかえりなさいませ、小夜様』
「おーう」
室内AIに言葉を返しておき、中に入ってすぐ左の部屋は、かなり広いエリアになっている。大理石の柱が点在し、窓側は床から天井までがガラス張りで見通しが良く、家具は中央やや奥に、一対のソファとテーブルだけ。
そこに。
「おう」
「おー、戻ったぜ」
ベルが座っていた。
「常識は得られたか?」
「ま、ほどほどにな。オレの煙草は?」
「部屋に積んである」
「そりゃ助かるね。あとは入手経路を作っておきてーんだが……」
「そこらの知識はねえだろ、勉強しろ」
当然だなと言いながら対面に腰を下ろした小夜も、持ってきた煙草に火を点けた。香草入りではないが、とりあえずは問題ない。
「で、何か必要なものは?」
「んー……あ、そうだ、CZを探してるんだよ」
「あ? 型番は?」
「75だ、骨董品のやつ。スチールの削りだし」
「また特殊なものを……現物を見たのか」
「ああ、三十くらい撃った、ありゃ面白い。今だとやっぱりオークションか?」
「常時チェックしておいても、美品が表に出ることはまずねえよ。ただでさえ、当時のものなんて残ってないから、内部は必ずほかの部品が入ってる。それをどこまで許容するのかが問題だ」
「今の技術なら、金さえかけりゃ同じものが作れるんじゃねーのか?」
「使うやつがいないし、再現したところでそいつはただの
「ああ、そういう評価になっちまうか……レプリカとフェイクの違いってのは、いつだって曖昧だな」
「そういうことだ。倉庫に飾ってあるやつを一つやるよ、持っていけ」
「――は? 持ってんのか?」
「あるよ、二丁な。どうせお前の手に合わせるんなら、カスタマイズは必要だろう。店も紹介してやるから、頼め。面倒な仕事をしたついでに、ちょっと奪っておいたものだから、登録もなし。譲渡は簡単だ」
「すげーな」
「なにが」
「相当に苦労すると思ってたからだ」
「ああ、まあ、今のお前じゃ金があっても無理だろうな。一応こっちでクレジットカードと携帯端末は用意しておいた。使い方はわかるな?」
「さすがにそのくれーは覚えたさ。休息日に飯だって食うんだぜ」
「軍部で働いたぶんの金額も口座に入ってる。念のため資金洗浄をしたから、軍からの報酬だとはわからないようになってるが、あまり気にしなくていい」
「……よくわかんねーけど、軍からの金だとわかると、面倒があるのか?」
「言っただろう、念のためだ。それが面倒になることもある」
「ふうん」
「とりあえず、だいたい半年後くらいに狩人認定試験があるから、それまでに電子戦と――野雨のことを知っておけ」
「そいつだ。なあベル、ここは何なんだ?」
「なにが」
「空気がおかしいだろ、どー考えても。戻ってきて初めて気づいたけどな」
「いくつか、物事の中心になったから、その影響だ。あと二年もしたら野雨の管理狩人になるから、お前は実務の面で野雨で動け」
「あ? 使い走りか?」
「俺の、じゃないだろうけどな。何も野雨から出るなと言っているわけじゃない、そのうちお前なら理解できる」
「ふうん……どのみち、この奇妙な感じの正体がわからねーと、落ち着かないけどな」
「とりあえず、野雨でのやり方は教えてやる。暗黙の諒解はそれなりに作ってきた」
「たとえば」
「野雨周辺において、少なくとも人質を取るようなやり方は、やる馬鹿はいねえ。手の施しようがないが、かろうじてまだ生きているような見せしめを並べたからな。ほかにも、日中における作戦行動は封殺するつもりだ」
「あー、狙撃銃なんかを構えて仕事をしてるやつらの排除か。日中だけなのか?」
「夜間は一般人の外出禁止令が出てる。その点で俺らみたいなのは過ごしやすい」
「逆を言えば、ベルみてーなのがうろうろしてんだろーが」
「まあな。
「生活してりゃ覚えるだろ」
「馴染めば、これ以上に過ごしやすい場所もないな。――レィル」
『はーい』
室内AIが使うスピーカーから少年のような声が届く。
『初めまして小夜さん、レィルです。簡単に言うと電子生命体ですねー』
「おー、オレのサポートか。適当に頼む」
『はーい』
「わからねーことは、レィルに聞けばいいんだな?」
「そうしろ。俺は仕事で、家にいることはまずないからな」
「忙しいのか?」
「ランクが上がれば暇になる、それまでは実績を作らねえとな……軍は、どうだった」
「良いところだ」
素直に。
思うよりも先に、自分の口からその言葉が出た。
「オレには愛国心なんてものはねーし、押し付けてやがると最初は思ったもんだが、仲間意識はあったし、そりゃ隣にいたやつが死ぬこともあるだろーけど、誰かを守ってるんだと思えるんだ。クソッタレと感じることもあるけどな」
「そうか」
「つーか、なんで軍に入れたんだ? 常識を覚えるためとか言ってたが、あんなの口実だろ?」
「いや、六割くらいはその理由だ。馬鹿を更生させて兵士にするのが、訓練校の役目だ。その点ではお前に合っていただろう」
「四割は?」
「何かをやったら片付けるってのを、徹底させられただろ。部屋の片づけが習慣として身に付く。――ま、何事においてもそれは同じだが」
「そんな理由かよ……」
「あれこれ散らかすと、それがミスに繋がりやすい。とりあえず半年だ小夜、認定試験までは楽しんで過ごせ。暇なら仕事をいくつか回してやる」
「退屈はしなさそーだな」
「レィル、まずは
『わかりました』
じゃあ出てくると、ベルはすぐに出ていった。
――半年後、小夜は狩人認定試験を受け、合格する。
試験官だったイヅナは、二度とやらないと心に誓う。そのくらいには荒れた試験になった。
何故って。
お互いに嫌いあっている、そして友人である
小夜がまだ、野雨の封印指定区域で生きていた頃、ちょくちょく外に出ていた時に知り合った間柄だ。
紫陽花はどちらかというと身長が高く、どこかぼうっとした顔をしているのが特徴的だった。何を考えているかわからないし、のんびりとマイペース。
それでも。
小夜は紫陽花を嫌い、紫陽花は小夜を嫌う。
波長が合うとも言うべきか、彼女たちはお互いが近くにいると、既視感を覚えるのだ。
こういう光景があったかも、こんな話をした気がする――そんな既視感が、常に、当たり前のように、傍にいるだけでずっと続く。
相手の言葉を知っている。
相手の行動を知っている。
未来を読んでいるわけではないのだから、それはきっと仕組みに理由があり、明確な理論として、理屈として存在しているのは確かなのだが・
――それ以上に嫌悪する。
きっと誰だって、既視感が一時間も持続したら、そんな気持ちになるはずだ。
知っていることがわかるのに、それは、現実となるまで知らないのだ。いわば過去――訪れた現実があって、目の前にきてようやく、ああそれは知っていたと気づかされる。
反吐が出る。
だから二人は、友人でありながらも、殺意に似た嫌悪をお互いに滲ませる。
その年の狩人認定試験は、正常に行われなかったと考えるのが、一番近い。
試験前に、受験者が集まっていた時点で二人の殺意に当てられて、辞退者が続出したどころか、イヅナ以外の試験官のほとんどが、その威圧に負けて動けなかったくらいだ。
そして、小夜は狩人として動く。
ベルの
野雨の街を主戦場にしながら。
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