第91話 雨の中の別れ
何度か、躰を斬られた。
この人間は強い。
速度では勝っているのに、
――雨? 雨が降っているのか?
そもそも、人間を食料にしよう、そんな考えは浮かばないが、本能からくる敵への衝動が抑えきれない。
殺さなくては。
いいや、だが、優位性はこちらにある。
――優位、か?
こちらは妖魔だ。妖魔とは現象である。
やまびこを殺すことも、捉えることもできない。人間にはせいぜい、それを認識するだけだ。そんなものを相手に刀を振り回したところで、存在のカタチが、躰が、少しだけ崩れるだけで元通り。
――待て。
首だろうと、胴体だろうと。
――待て、今何を言った。
斬られようとも構わない。
――刀を、今、刀を振り回していると、そう言ったな?
こちらに利はある。
――よせ。
このまま圧倒すれば。
――やめろ。
負けることはない。
――それでは通じない!
「――っ」
空を仰ぐ。
大丈夫だ、己の意思はここにあり、空から落ちてくる水滴を、今は、感じられた。
握りこんでいた手から、ゆっくりと力を抜き、開いて、握って、もう一度開いて、深呼吸をしてから、目を閉じて。
――俺は誰だ。
問いかける。自問自答、それがすんなり行えたのならば、ぎりぎりのところで自分はまだ、人間のままでいられる。
吐息を落とし、前を見た。
雨の中、右腰に刀を吐いたその男はたたずみ、詰まらなそうな表情でこちらを見ている。
――呼吸は?
それも問題ない、落ち着いている。
腰裏にある小太刀二刀、ああ間違いなくここにある。
まったく、優しい男だ。こちらの自我が戻るまで待ってくれるとは――いや、戻ることをわかっていたのか。
右手を腰の裏に回し、手首の近くの掌で押すようにして、わずかに上げておいてから右手で引き抜く――
「都鳥流小太刀二刀術」
雨が降っている。
だが、その声は、大声ではないけれど、相手へ届く。
「
相手は、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「
それが、正式名称。
雨の中の一人。すべての術を統合しつつも、ゆえに、あらゆる他門から外れる。天命である命の引き延ばし、枯れ果て、それすらも律する。
「――
ゆえに、総本山。
筆頭と呼ばれることもあるが、それは通称に過ぎない。
あらゆる武術家は、すべて、雨天に挑む立場だ。
武術家が、お互いに
さてどうする、そう思った瞬間に、胸部へ拳が吸い込まれるよう当たるのが見えた。
《
重いと感じた瞬間が、危うい。いわば直感に似た、致命傷を想像させられるような錯覚。
だが。
衝撃が背中側へ抜ける前に、踏み込みに出した右足の膝が伸びるよう前へ出て、そのままに、殴った拳を引きもせず、進んだぶんだけを利用して肘を当ててきた。
《
背中へ抜ける衝撃よりも、この一撃が
それこそが誘いだとわかったのは、腕を引かれ、小太刀が空を切ってからだ。
《
右腕、一本。
引いた腕で放たれる一撃は、伸び切った足が地面を蹴る動きと連動しており、全身を内部から
雨天の技は、三つで一つ。
違う得物の技、しかも締めとして扱う終ノ章を三つ組み合わせた、
一つの武術家であれば、それこそ奥義と呼んで差し支えないこんな三連続の技を、片腕一本で完成させるとは。
周囲に散らばった
この身はすでに妖魔なれど、その妖魔を討伐するのが武術家なれば、痛みを与えるなど造作もない。涼の意識がない間に行われた斬戟なんぞ、遊びでしかなかった。
仮に。
涼に同じことができたと仮定しても、その場合、一年以上は右腕が使えなくなるだろうし、下手をすれば二度と動かないかもしれない。それだけ躰に無理のある技だ。
――ああ。
やはり、知ってはいたが、
それもそうか。
雨天は武術家であり、そして、武術家とは雨天のことなのだから。
暁は本気だ。
今も、間違いなく心臓を狙った一撃だった――が、それでも、一撃で終わらせないだけの優しさもある。
「さて」
瓦礫ばかりで足場は悪いが、それを利用して、挑むとしよう。
それが、雨天以外の武術家に許されたことだから。
――雪が、降っていることに気づいた。
いつしか日付も変わり、まだ暗い中、月光もないのにそれが雪だとわかる。
冷たさは感じなかった。躰の感覚はとうになく、ただ、
終わったのかと、現実を認めた。
「――よう」
こちらを見下ろしたのは、いつもの暁だ。
「ま、そこそこだなァ」
「……そうだな、ああ、だが、出し切った」
ありがとうと、素直に感謝の言葉が出た。
十年の付き合いで、ここまで真面目に暁が戦闘をするところは、初めて見た。何度か手合わせはしたが――どれもこれも、涼が学ぶ時間でしかなかったように思う。
結果は。
すべてを出し切っても、暁の服さえ斬ることができなかった。
「悔しくはあるが、……誇らしくもある」
「あ?」
「俺の友人は強い」
「当たり前だろ、俺は雨天だぜ。それなりに見せたと思うが」
「無手の戦闘は初めてだ。予想していたよりも、恐ろしかったがな」
「雨天はこっちが本領だ。そうそう見せるもんじゃねェけどな。そこそこ、楽しかったぜ」
「そうか。――そうだな、俺もこのまま人として死ねる」
躰の感覚がないのは、たぶん、躰そのものが消えているからだ。
「すまんな」
「謝るな馬鹿、気にしちゃいねェよ」
「
「おう」
「――ああ、だが、伝言を頼む」
「なんだ?」
「
「お前なァ、そういう大事なことを後回しにしてンじゃねェよ」
「忘れていたんだ、許せ」
小さく笑って、いや、きっと笑えていたと思う。
だから。
「――行け、暁」
涼は言う。
「俺とは違う道を、お前は、ただ望むままに、
「……ああ、そうだな」
暁は、そばに落ちていた小太刀を二本、拾って。
背を、向けた。
「俺は往くぜ、涼。どこまでもな」
そうして、歩き出す。
涼はその背中を見送りもしない。
だから。
「クソ……」
暁は。
「勝ちたかったなあ」
泣き言に似た、涼の言葉を、聞かなかったことにした。
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