第88話 橘の分家、数知の物語
夜が来る。
終わりの夜がやってくる。
始まりのための夜だ。
忘れられない夜になる。
多くの人にとっては、昨日と同じ夜に違いない。
おおよそ二ヶ月ぶりに躰を動かすことができた。
人形に魂が宿る。
髪が伸びる人形だとて、人の手でどうにかすることが可能なのだ。いくら三四五だとて、人間としての活動に限界は来る。
誰かの代わりに生きた人生を、短かったとは思わない。
悔いはあるのかと問われれば、もちろんあるし、やりたいことだってまだあった。
けれど、ああ、けれどでも、最大の望みは、自分が終わることであり、その結果として兄という存在がこちらへ戻ることなのだから、それでいいじゃないか。
ふらふらと歩く。
あちこちを歩く。
これが最後、もう見慣れてしまった
「見納めは終わったのか」
「――ベル」
入り口で待っていた小柄な姿に、小走りに近寄った。
「手伝ってくれるの?」
「ああ、俺くらいがちょうど良いだろ。まだ時間はある、見て回るか?」
「学園には、あんまり来てなかったから。場所、どこがいい? グラウンド?」
「普通学科棟の屋上なら、景色も良いだろ」
「あーうん、じゃあ行こうか」
学園の内部でもっとも高いのは、教員棟だが、屋上には
普通学科棟は学年ごと三ヶ所並んでいるが、屋上は開放されており、花壇やベンチなどが設置されているため、休むのにも適している。
どうやって入るのかと思えば、ベルが学生証をかざして開けていた。
「あれ? 在籍してるの?」
「前借りしてるだけだ。こっちも年齢不詳だから、来期から通う予定ではある。日本はまだ四月入学が一般的だからな……」
「ベルに高校卒業資格なんているの?」
「あって損はないだろ」
付き合いはそれほどないが、顔見知りであるし、三四五としてもベルの実力は信頼している。
「よく動けるな」
「無理をしてるって感じはないよ? ないけどね、ただ終わりは見えてる。何がどう転ぼうと」
「どう転ばせたいんだ?」
「私の消失と同時に、兄さんがこっちに戻ってくることが大前提」
「それは知ってる。どこまでやる?」
「んん……欲を言うなら、兄さんには肯定して欲しいし、
「お前が判断するか?」
「ううん、ベルが判断して。きっと、まどろっこしいだろうから」
言って、三四五は笑う。
「我慢できないでしょ」
「俺の役割は、あっちとこっちを繋ぐことじゃない。繋がりを切るだけだ」
「切れば?」
「
「うん、そこらへんはエルムから聞いてる」
階段をのぼって屋上へ到着し、そこもベルの学生証で開いた。
不思議と、寒さは感じない。ただ広がる夜空が
「
「ああ、橘の分家で、高校時代は一緒にいただろ」
「うんそう」
「今は寮の管理人をしているな。ワケアリを囲ってるみたいだが、まあ、身内の危機には敏感だから、そういうのもアリだろうとは思ってた」
「だいぶ心配されちゃってたからね、暇があったら見ておいてくれる?」
「俺がか?」
「ベルなら立場が中立だから」
「……」
「ん、知ってる。私を起因にして、世界へ干渉するために橘一族を使うって話でしょ? かつて東京の時、十一の家名を使ったみたいに」
「聞いてたか」
「命に別状はないって、エルムに言われてるから」
「多少の影響はあるだろうけどな。野雨に入り口を作るんだ、柱くらい必要だろう。おかげで、橘一族を野雨に留まらせるために、あれこれしてたんだけどな」
「楽しめそう?」
「やることが多いうちは、そういう面倒なことを考えずに済むさ」
「あはは。――あー良かった、私に将来を考えるような思考がなくて」
ベルが煙草に火を点ける動作で、はたと、三四五は気付いて空を改めて見上げた。
「雨、降ってたんだ」
「昼過ぎに少し強くなったが、今は小雨だ。俺の煙草で気づくなよ……」
「そういう感覚もなくなってるのかなあ」
三四五に悲壮感はない。ただ現実を見ているだけだ。
「
「あ、忘れてた。
腰から引き抜いた拳銃のフラッシュライトを使って、点滅で合図を出した。
「なに使ってんの」
「家出る時にライトが見当たらなかったから、これでいいかと」
「すごいなあ……」
「そうか? 代わりになれば、なんだっていいだろ。雨じゃなきゃ小さい花火の一つでも上げればいい」
「だからって銃器所持はさ、ほら、確かランクD以上じゃなかったっけ?」
「忘れたな、そんなことは」
適当な人だ、と思う。
ただ、こうして話に付き合ってくれるだけ、優しさと、懐の深さもある。
咲真が顔を見せた。
「――
「うん」
黒色の服に、黒色のアイウェア。それと当たり前だが、黒色のコートも着ている。それほど厚着ではないにせよ、機能性を重視したジャケットを羽織るだけのベルがおかしいのだ。
そして。
咲真は。
「そうか、今日かね――よりにもよって」
「違うだろ朧月、今日だからだ」
「……」
「お前には何が見えてる」
「歯車、だ」
大きく、吐息を落とした咲真は、右手から左手へと、槍の入った包みを移動させた。
「夜に起こされて、見えるのは金属の歯車の山だ。既に動いているが、その音までは届かない」
「そうか、お前には聞こえないか」
「――聞こえるのか?」
「俺みたいなただの駒が、聞こえるはずがねえだろ」
「
「それも、もう、終わるさ」
「何が起きているのか、
「なるほど? お前の立ち位置はそこらへんか。じゃあ、今夜に
「いや」
それは聞いていると、それ以上は言うなと、やや強い口調で言った。
「――始まるぞ」
ベルが言った途端、紅色の空に、同じ色の月が出現した。
雨が降っている、雲が出ている、それなのに紅月は、空を覆い隠す。
まず感じたのは強い圧迫であり、紅色が与える影響なのか、得体のしれない恐怖と、足が地についていないような錯覚。
何より、強くなったその
「堪えろ」
「ん……ありがと、大丈夫」
そうして。
早くも遅くもなく、半透明になった姿の男性が、現れた。
知っている。
朧月咲真は知っている。
「
「なんだ、これは。……ここは? そして、君たちは? 僕は――」
「変わらん姿だな、一二三。それとも、かつてのよう、こう言えばわかるかね?
「――君は、咲真なのかい?」
「そうだ」
その会話の合間に、三四五は膝から力が抜けるのを感じた。
わかる。
ああ、わかってしまった。
一目見て、いや、こうして一度でもいいから、最後の最後に、それでも、兄の姿を見てみたいと、そう願っていたことが、今ここに叶って。
三四五は満足してしまった。
それは。
満足とは。
――そこで終わり、という到着点だ。
ベルに視線を投げ、背中を支えながらゆっくり立ち上がり、できるだけ、笑顔で。
「初めまして、兄さん」
「――君は」
「ありがとう。私の代わりに、未来をお願いね」
引き抜かれたのは、大振りのナイフ。
刀身の根本に刻まれるは、製作者の名であるエグゼ・エミリオン。そして、紛うことなき四番目のしるし。
それは。
ベルの意図通り、狙い通り、ある法則を切断した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます