第86話 帰る場所、帰れるところ

 たちばなななは人に見られるのが苦手だ。いや嫌いと言ってもいい、目立つことは大嫌いだ。

 というのも、職業柄なのだろう。

 七は生まれた頃から当然のように橘として育てられた。そのために橘の暗殺技術を会得しており、使うことができる。

 暗殺技術とは何だろうか――この問いに七はこう即答するだろう。

 気付かれず相手を殺す技術だ、と。

 殺されたことにすら気付かずに相手を殺す。そこが基本であり、それができるようになってから派生した技術を会得する。

 だから常として身を隠す術を教えられ、使っていた。人と話すことも、日常生活もそれなりに送りつつも、自然体でいることがそもそも目立たないことに直結する――の、だが。

 しかし。

「おはよう」

 先導するように陽炎かげろうが教室に入り、その後ろから七が顔を出す。声に反応した中にいた生徒の過半数がこちらを見て、おはようと陽炎に言いかけてから何故か、ぎょっとした表情をして硬直し、やがて言葉の続きを放った。

 その様子に陽炎は笑みを深くし、二度ほど頷いてから席へ移動しようと――。

「あれ?」

 ノート型端末を開き、渋い顔で画面を見つめる男子学生を発見した。体格がよく、やや凶眼な梅沢うめざわ和幸かずゆきは更に瞳を細めて見入っており、こちらには気付いていないようだ。

「おはよう和幸。珍しいね、今日は普通学科かな?」

「ん……おう、陽炎か」

 振り向かず、軽く眉間をほぐしながら躰を小さく伸ばした。和幸は警察官志望らしく、普通学科に在籍していながらもその多くは公務学科に顔を出している。どうやら普通学科を志望したのには理由があるらしいけれど、陽炎は聞いていなかった。

「いやちょっと――ん? ……うおっ、よくみりゃ橘じゃねぇかそっちにいるの」

「……よく見なくてもあたしじゃん」

 言って七は前の席に突っ伏した。

 ここへ来る最中、陽炎と一緒だったため目立つのかと思った。いやに振り返って確認する人が多く、どこか落ち着かない様子でも我慢するしかなかったのだが、学園に入った辺りで何がそうさせるのかに気付く。

 かなり遅く、だ。

「はあん、これ陽炎の仕業だな?」

「仕業って人聞きの悪い言葉を選ぶなあ。俺は、ただ七さんに化粧をしただけだよ。こうなることは予想していたけれどね。素材が良いから」

「うー、あー……意趣返しだ」

「俺としては対価だと思うけど?」

「むー……」

「それで和幸、今日はこっちで何をしているの?」

「何を? 昨日と今日、変わったものは明白だろうが」

 そこまで言えば、視線が合うだけで通じる。

「橘も、面倒があったようだな?」

「あー、あれねー」

「さすがに、陽炎のところへ行ったのは、思い切った決断だと思うけどな」

「ちょっと後悔してるから言わないで」

「してるんだ?」

「ちょっとだけ」

「ふうん……ま、とりあえず世話くらいはするよ。これからどうするか、それを決めるのは俺じゃなくて七さんだ」

「犯人の目星は」

「ついてる。っていうか、会話もしてる。相手は認めなかったけど」

「認めないのに放置か?」

「そこらは事情があって」

 殺せたか、と問われれば、わからないと返すしかない相手だった。

 狩人ハンター

 少なくともあの場で殺すことは難しかったと思う。とはいえ、七に誰かを殺す理由なんて、ほとんどないのだけれど。

 殺しはしない。

 やりたくない。

 そう思って生きてきたから。

「和幸は、七さんの邸宅炎上に関して、何か見解は?」

「見解、ねえ。繋がりがあるのかどうかも定かじゃないが……家ってのはなあ、まあ、何だと思う」

「なにって、寝床じゃん」

「七さんはシンプルだね。まあ僕も同じように思っている部分はあるけど、そこまで割り切れないなあ」

「お前らって……どっか配線が違うよな」

「あ、ごめん。続けてよ。和幸の見解を聞きたいんだ」

「実際に〝家〟ってのは個人によってその位置に差異を持つもんだが……たとえば親父が建てた家なら、親父にとっては背負うべきものだ。中にあるものも含めて、守るものになる。ただな、誰にとってもきっと家ってのは――帰る場所だと、俺は思う」

「帰る場所か」

「ああ。ただいまと、言える場所だ」

 なるほどなと陽炎は微笑みながら思う。まさに正鵠せいこくている――が、しかし七はその意味をよく捉えられなかったらしい。

「でも、ほとんど一人暮らし状態だったよ? 姉さんもいないし、親もいないし」

「それでも、だ。たとえば橘の姉さんとやらが家に戻ってきた時、言うんじゃないか? ――おかえり、と」

「あ……」

「その姉さんとやらも、言うだろう? ただいまと」

「……うん」

「不思議なもんだが、そうした家族の繋がりも〝家〟を中心にしているんだろう。それがなくなった、失われた。どうだ橘、少しは実感したか?」

「うわあ……聞かなきゃよかった」

 ひどく寂しい気持ちにさせられた七は再びうつ伏せになり、顔を見られないように隠してしまう。

「うん。じゃあ和幸、それを踏まえた上で、目的は?」

「わからん。ただ、家を狙うってのはな……火付けは昔から重罪だが、そういう意図はなさそうだ。言った通り、帰る場所を……今、お前の家か」

「そうだね、いい迷惑だ」

「それは知らんが……そうか、拘泥か」

 促された和幸は、全身から力を抜くための吐息を落とし、普段よりもやや騒がしい教室内を見渡してから腕を組んだ。

「大切なもの――に、たぶんなるんだろう。何かを失った人間は、失われたものに拘泥する性質を持つ。ああ一般論だが、それでも新しい住居を構えよう、そう考えても近場を選択したくなるものだ。それは家が、生活が、範囲を持っていることを示す。その範囲から出ようとするのは――存外に、難しい」

「それが嫌いであっても?」

「好きも嫌いも、拘泥の一種だろ。それに――帰る場所がないってのは、逆に言うと外に出られないんだ」

「逆じゃないの? 帰れないから、外をうろつくんじゃないか」

「帰る場所がないなら、――旅行も旅もできないだろ」

「ああ、なるほどね。でも旅行と旅は違うものかな」

「ん? 宿を取ってから向かうのが旅行で、旅は目的地だけ決めて向かうものだろ。まあ旅の場合は目的地すら曖昧な場合もあるが、その身一つだ」

 帰ってこれるからこそ、旅行に出る。旅もまた、戻る場所があればこそだ。

「さすが、和幸は聡明だな」

「よせよ、柄じゃねぇって」

「けど着眼点は良いと思う。うん、やっぱり和幸の見解は面白いしためになるよ」

「褒めたって何も出ねぇよ。それに、本当の意味で現場に足を運んだわけじゃねぇし、まだまだだ。それより俺は、陽炎の見解を聞かせて欲しいくらいだぜ」

「俺の?」

 そうだと、和幸は腕を組む。

 七には悪いが、、だ。

 鷺ノ宮事件と呼ばれるようになったそれの方が、不可解だ。


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