第85話 それぞれの朝
寝起きの頭で、自分がソファに寝転がっていることに気づき、これはいつの間にか寝ていたパターンだなと、
高能率スピーカーが鎮座しているリビングだ。電源が入っていると残留ノイズが発生するので、電源を切り忘れたのかと視線を投げるが、点灯はしていなかった。点いていたのはテーブルの上のノート型端末だ。
はてと、首を傾げれば、肩に引っかかっていた毛布が落ちて、ようやく、昨夜のことを思い出す。
「……ああ」
「かずやん、起きたけ?」
声に反応して振り向くと、こちらに背を向けたまま、キッチンで作業している同級生、
そうだ。
昨夜、あのまま泣き疲れて寝てしまった紫月をベッドに運び、作業中にソファで寝ていたらしい。
「おはよう」
「朝ごはん、もうちょいかかるから待っとって。それとお風呂、使わせてもらったからのん」
「そうか」
洗面所に言って顔を洗い、歯を磨いて、便所から出れば頭も回ってくる。
「今日、学校行くんか?」
「ああ、そのつもりだ。事件そのものは俺に直接関係もないし、状況を肌で感じるのも必要になる。……だからどうしたって話だけどな」
「ええんちゃう?
「
実家は薙刀の武術家でもある、これまた同級生の中原陽炎。繋がりは紫月の方があるのだろうけれど、今は薙刀を握っておらず、けれど、いろいろな情報を持っている友人だ。野雨にある情報ネットワークも、元をたどれば彼から教えてもらったものである。
「できたぞん」
「おう、助かる」
冷蔵庫に何が入っていたのかもよく覚えていないが、ご飯に味噌汁、サラダに卵と肉みたいなラインナップ。いただきますと言って食べれば、素直に美味いと感想が口から出た。
「自炊してへんのな?」
「たまにはするが、材料を買ってきて作る感じだな」
厳密には、作る料理のための材料を買う。応用が利くほどレシピを知らない。
「……事情、聞かんのな?」
「ん? ああ、いろいろ考えたが重要な質問はなかった。それでも聞くなら、どうして俺のところだったのか」
「あー、それな? うち、知り合いと同居してんのやけど、兄貴を見送ってから、帰るのもちょう辛くてなあ。昔、おっかあがおらんくなった時、兄貴に言われたんよ。――泣いてもいいけど、一人で泣くのは駄目やって。そん時、浮かんだんがかずやんの顔じゃ」
「なるほどな」
「ごめんなあ」
「迷惑をかけたことなら、気にするな。男なら、自分が選ばれたことを嬉しく思っておきゃそれでいい」
「……男前やなあ」
「そう聞いたって話だ。俺はそこまで割り切れん」
「うちはそういう、素直なかずやんが好き」
「そりゃどーも」
「冗談やないよ?」
「だから、ありがとうと言った」
「そういうとこは素直じゃないけんのう……」
相手の気持ちに照れるほどではないにせよ、自分もそうだと肯定するほど相手を知っているわけではない。
どこの老人だ、と言われるくらいに、和幸は他人を疑っている。
※
じゃあ一体、何の問題があるというのか。
実害があるのかどうか。
問題があるのかどうか。
いずれにしても、朝の光景は変わらない。それなりに大きな公園なので、時間が時間ならば遊んでいる人もいるだろうけれど、まだ早朝なので人影はなく、たまに見かけるのは同じく走り込みをしている人物と――ベンチで寝転がっている少女くらいなものだ。
……はて。
おかしいな、見間違いかと同じ周回をする途中で、ぴたりと足を止めてみれば、うん、間違いなく少女がベンチで寝転がっている。
さて、知っている相手が朝の公園、ベンチで寝ていたらどうするだろうか。
正解はスルーである。
「ちょっと待ってよ!」
「やあ
寝息を立てる様子は見事だったが、それだけで寝ているとは思わなかったし、見抜けなくとも、あの
相手の反応を引き出しておいて、にっこり対応するのが、陽炎のやり方である。といっても、そう大げさなものではないが。
「実家の炎上騒ぎがあって、帰る場所もなくて、どっかに転がり込もうと考えた結果、とりあえず俺のところに決めたって感じで、でもやり方そのものは思いつかないし、玄関をノックするのはなんか負けた気がする――ってあたりかな?」
「性格悪いって言われない?」
「七さんから言われたことは、あったかもしれないけど、俺の回りなんてこんなやつばっかだよ。迷惑してるくらいさ」
「へ、へえ……?」
「それで、どうする? シャワーくらい浴びたいだろうし、余計なことをせず、素直に頭を下げれば朝食の用意もしてあげるけど」
「ごめんなさい、お風呂とごはんをください」
「うん、じゃあ行こうか。悪いけど、躰を冷やしたくないから、軽く走っていくよ」
「わかった」
素直にノックが正解だったかー、なんて言いながら、後ろをついてくる。会話をしなくてもいいかと、そこそこのペースで走ってマンションまで戻った。
「うへえ、知ってたけど、高いところ住んでるなあ……」
「こっちで仕事をするようになってから、それなりに稼げるようになったからね。去年くらいから、
「ありがと」
屋内は暖房が入っているので寒さはない。陽炎は手早くタオルをお湯につけて、首の回りを拭う。実家には兄と姉がいるため、特に姉は弟に人権はないみたいな態度で、つまり鍛錬後のシャワーは一番最後だったので、最低限の対処は覚えている。
さて。
姉の体格とそう変わらないだろうし、寝間着に使えそうな牛の着ぐるみを出しておく。シャワーの音が聞こえてから洗面所に運び、服は洗濯機へ。さすがに下着までは用意できそうにない。
朝食はホットサンド。バターを塗って、卵、ベーコン、チーズ。間にケチャップとマヨネーズを挟み、ホットサンドメーカーで焼く。飲み物は玄米茶だ。
まずは自分のぶんを先に作り、準備をしながら包丁で四等分したものを口に入れる。入れ替わりでシャワーを浴びたいから、先に済ませておきたい。
出てくる気配を感じた。
良いタイミングだ。
「うーい」
「食事、テーブルに並べておいたから。入れ替わりで俺がシャワーを浴びるよ」
「いいけど、なにこの服」
「うちの姉が使ってる寝間着だよ。――あれ、サイズがちょっと大きいかな? 七さんは小さいから」
「うっさい」
「可愛くていいのに」
ようやくシャワーで汗を流し、部屋着の作務衣へ袖を通す。
戻れば、まだ食事中だった。
「毎朝やってんの?」
「だいたいね。やらない時もあるよ、仕事の内容次第。組手がなくなると、どうしたって運動不足になるからさ」
「へえ? 陽炎のことだから、そんなのは気休めだって言うかと思った」
「うん、それも事実だ」
人によってそれは違う。
仕事だとスイッチが入らなくても構わない。
毎日のよう体力の維持をしなくてもいい。
基礎訓練や技術訓練を必要としない。
一年や二年で感覚が鈍ることもない――そういう連中だっている。
ただ、多くの人間は、この三つのうちの一つか二つを持っているだけだ。
「ご馳走様」
「お粗末さま」
食器を手早く洗ってから、さてと、陽炎は
「え? なに?」
「そこに座って。姉さん用の服が一通りあるから、んー……七さんの場合、間違いなく暖色系でまとめれば良いんだけど、それじゃ芸がないというか。動きやすいのはもちろんとして……」
「ええと、陽炎?」
「ああ大丈夫、ちょっとメイクをするだけだよ」
「……なんで?」
「手入れをしてないから、俺の我慢ができない」
「えー」
「うるさい、文句を言わない」
その部屋はクローゼットに囲まれた二十畳ほどで、工具箱に見えるものはすべてメイク道具。鏡の前に座らせた陽炎は、いつも姉にするよう、準備を始めた。
「あー髪も、適当すぎ。前から思ってたけど手入れくらいしようよ」
「気にしたことないから」
「気にするように。化粧水と、ファンデーションと……こっちは日焼け止め効果のあるパウダーかな。あまり派手な感じにはしないから」
「よくわからん!」
「はいはい」
若いだけあって張りは良い。とはいえ、姉だってそう年齢が変わらないので、そちらと比較してもしょうがないけれど。
ちなみに、これは趣味であって、ほぼ独学だ――と。
「あれ? 珍しいな、来客だ。ちょっと待ってて」
「うん」
足早に玄関へ向かい、確認もせず扉を開く。
「やあ、零番目。いや、
「七いる? 家、燃えてた」
「いるよ、どうぞ。ついでに零さんのメイクもできそうだ」
「……それ必要?」
「綺麗に見られたい相手がいるならね」
「じゃあやる」
即決とは恐れ入った、これは腕が鳴りそうだ。
※
色合いは白に近い青色で、袴には
右の腰には一振りの刀、庭に出て見上げた朝の空は明るい。
――朝だ。
いつものよう、当たり前に感じるその気配に、変わらないことを自覚した雨天
「――ん?」
こんな朝から、まるでこちらの準備を見透かしたかのような来客。頭を掻きながらそちらを見れば、肩に少女を乗せた少年がいた。
「ベルか」
「よう、雨の。頼まれてた荷物だ」
「頼む?」
「ブルーだよ」
見覚えのある顔だった。
――
「悪いが眠らせた。車を走らせると目立つから徒歩だ」
「なるほど」
ベルの移動に耐えられはしないだろうし、これからのことを考えれば、まともな精神ではいられないか。
身柄を預かり、縁側から中へ。
「
なあに、と返事があった。昨夜はずっと泣いていたのに、だいぶ吹っ切れたらしい。
「こいつを頼む。境遇はお前と似たようなもんだ」
「はあい。――あ、ベル」
「おう。気にせずにやってろ」
「姉さんは?」
「思い通りに、すべてを済ませた」
「……ありがと。よいしょお!」
空元気だなとベルは煙草に火を点け、まあなと暁は肩を竦める。
「
「今は、誰も知られないよう休んでるだろ。今夜が山場だ。――そのあとは、それからは、お前の舞台だと言っていた」
「そりゃのんびり行くつもりだったが、夜にしろってか」
「仕掛けの最中に雨を降らすなってことだろ」
「なるほどねェ……」
「俺は俺で、夜までは休めそうだ。野郎、忘れてたとか言いながら、いきなりだぜ」
「はは、本当にそうなのかは、わからねェが、まァ助かった。俺も帰りに拾えばいい、くらいの考えだったからなァ」
「そりゃしょうがねえ。お前がつける始末は、拾い物じゃないからな」
「おう」
そうだ、これから始末をつける。
――そういう約束だ。
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