第82話 久我山の一人と梅沢和幸
それが訪れるのは、わかっていた。
がちりと、歯車が回る音が合図となり、自分を構成するあらゆるものが、別の情報に書き換わる感覚を味わうのは、これが最初で最後だろうと、
そのまま床に倒れ、まばたき一つできなくなったことにも、気づけない。
耳元で誰かが叫んでいるような気がした。
たぶん
遅く。
兄だった者のそばで泣きわめく風華がいて、その横を通り過ぎて、いまだに稼働を続ける据置型端末のコンソールに触れる。
――多くを語らない兄だった。
それでもたぶん、一番近かったのは自分だし、幼少期の頃の癖も知っている。そして、紫月が知っていることも、兄は知っていたはずだ。
だから。
コンソールの三段目を左から順番に押し、実行させればそのままフォーマットが始まった。
まったく、本当に面倒が嫌いな男だ。
さて。
だからって、半狂乱に限りなく近い女の世話を押し付けられても、紫月だって嫌だ。
このまま去ろうかとも思った。だいぶ本気でそれを決断しようとした。
けれど。
こんなでも、兄のそばにいたのは事実で――。
「――ええ加減にせえ」
ああ、冷静なつもりだったけど、声色に怒気が混じったのを紫月は自覚した。
何より、驚きとおびえが混じった風華の表情が、それを物語っている。
「なんでも何もないじゃろ。おんしが一番そばで見とって、――兄貴のことをなんも見てなかった結果とちゃうんか」
腕を引っ張り、乱暴にソファへ投げた。
「おんしは、ただ、兄貴を利用しとっただけや」
「――っ」
これ以上はさすがに、やっていられないと紫月は外へ出た。
――大きな吐息が落ちる。
それと共に、肩と膝の力が一気に抜けそうになり、慌てて姿勢を戻した。
躰が重い。
異様な雰囲気に背中を押され、
喪失感がある。
誤魔化す必要はない。疎遠になっていたとはいえ、――兄を失ったのだ。
これで、紫月の親族は、誰もいなくなった。早死にの家系だとは思わないが、ただ、もう逢えないという現実に、涙が出そうになる。
くそったれ。
そうやって毒づくことで、足を前へ動かした。
帰りたくはない。
けれど動かなくては。
紫月はぼんやりとした思考のまま、涙をこらえて、足を進めた。
※
そもそも、
そのおかげと呼ぶべきか、一般人の防犯意識は高まったし、
ではなぜ、
――
――鷺ノ宮家で事件。
野雨には、一般人がある程度は関われる情報収集機構が存在し、和幸はその一員としてアクセスが許されている。
どういう仕組みになっているのか。
複雑なことはわからないが、第一段階として、どんなものでも一般人が書き込めるサーバが存在する。
第二段階として、その情報の選別をする権限を持つ人間がいる。和幸はこの段階のアクセス権を持っており、あきらかに嘘だとわかるような情報を削除して、第二サーバに残った情報を送る役目だ。
そして第三段階として、情報の選別に際して、現実的であり、必要と上部構造に判断されたものを、現場を見るなどして調査をする人間がいる。
――それ以上は、和幸にはわからない。
わからないが、第三段階の情報にまではアクセスできるので、信憑性のある情報を手に入れることができるわけだが、その情報を利用することは禁じられていた。
そして、どうやらこの二つは、
何故と、疑問を抱く。
刑事を目指す和幸は、行動する前によくよく考えることを常としていた。それは現役の刑事から教わったことであり、その重要性に関しては理解している。
まあ、考えるのは鷺ノ宮の件であって、橘家はついでだ。同い年で同じクラスに、知り合いがいるから気になっただけのこと。
しかし、単なる学生の和幸がいくら疑問を抱いたところで、わかるはずがない。ただそれでも、わからないのならば、何がどうわからないのか、状況を細分化して自分の力量を見極めろ――そう、
ちなみに和幸は、その男が
「――?」
うす暗い部屋の中、テーブルに置いた携帯端末が点灯したのに気づいて。
表示されたのは通話連絡――。
出るべきか否か、迷うのは当然だ。特にこの時間帯、そして何より事件があったと知っているのなら。
いや。
知っているからこそ、出るべきか。
「おう」
『かずやん』
「どうした久我山」
『鍵、あけてや」
「――あ?」
『うちの前におるんじゃー、鍵あけてやー』
正気か? と思ったが、武術家ならば夜間外出もお手の物なのかと、ひとまず納得しておいた。あまり詳しくないので、深く突っ込めない。
室内AIに声をかけて五秒間のロック解除を申請すると、すぐにアパートの扉が開く音がしたので、慌てて立ち上がって向かえば、確かに、そこに、
「かずやん、ごめんなあ」
「――こっちだ」
言おうとした言葉をすべて飲み込み、リビングへ。何か飲み物を用意しようかとも考えたが、とりあえずソファへ座らせた。
「久我山、俺は何も聞かない。だから――全部吐き出せ。湯船の中で顔を突っ込んで言うより、少しだけマシだ」
「――」
それを示すよう、和幸はノート型端末のディスプレイをのぞき込み、状況の推移を見守りながら、思考を続ける。
そして、しばらくして。
「……兄貴が、おらんなってん」
ぽつりと呟いたその言葉を聞いて、作業は続けながらも、意識を紫月へ向けた。
「事前に聞かされとって、頭にきたから殴ってやったけどのん、腹に収めたつもりじゃっどん……ほんに、いなくなると、いろんなことを思い出しちょる。母ちゃんがおらんなった時も、兄貴がいたから大丈夫やったし……いたから、うちも好きに生きれたんやなあ」
こういう状況を、和幸も慣れているわけではないのだ。
ただ、顔を見て、思い詰めているのはわかったし、それに対して何かをしてやろうなどと、できるような方法も知らないけれど。
吐き出せるなら、吐き出した方が良いと、そう思う。
どうして自分のところへ来たのか、そういう疑問も全部棚上げして。
「ちょっと待ってろ」
風呂場へ行き、洗っておいた新しいバスタオルを手にして戻り、それを紫月の頭にかぶせた。
「――泣け、久我山。無理してでも泣け。今できるのは、それだけだ」
和幸には、まだ、死を目の前にしたことはない。そもそも施設育ちだ、育ての親はおらず、兄や姉たちに育てられたようなもの。親族の顔も思い出せない――けれど。
想像することはできる。
生きている人間ができるのは、現実を認めて、前へ進むことだけで。
足を止めて振り返るのは、未来にいつだってできる。けれど、悲しみに
――泣き声は。
聞こえないことにした。
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