2041年10月17日、鷺ノ宮事件
第78話 鷺ノ宮事件
その瞬間に発生したできごとは、二つある。
世界が
東京事変の経験者であり、魔術の素養のある者でかつ、一部の熟練者は、その瞬間を捉えずとも、数日にわたって発生し続けたそれを、気持ち悪さと共に受け入れた。
そしてもう一つ。
表向きには、一家惨殺事件として扱われることになる。
事実、惨殺だった。
痛みによって強引に意識が復帰と下降を繰り返し、視界が点滅する感覚に
いや。
食事中だったため、全員が揃っていたこともあり、ダイニングは両親と、祖父母、そして自分の両足と片腕ぶんの血肉が散らばっていて、間違いなくこれから自分が死ぬことだろう現実を考えれば、不思議ではないのかもしれない。
激痛は短く。
すぐに痛みは消えた。それが悪い兆候であることを頭では理解したが、まあ仕方がない。
だって散花は、こうなることを知っていたから。
ずっと、ずっと前から知っていた。
覚悟もして、受け入れてもいた。
こうなれば、妹は必ず生きていられるから。
生きて――いる、だろうか。
そうあって欲しい。
どれほどの時間が経過したのか、彼女は知らないし、知る必要もない。もはや時間を数えるような真似をせずとも、終わりはもう、隣にまできている。
だから。
両扉がゆっくりと外側へ開いた時、散花は小さく笑った。
たぶん、笑えていなかっただろう。顔を動かすことさえ難しい。けれど、その気持ちは、気配は、伝わったはず。
「や……砂時計さん」
思ったよりも、声は出た。
「見送り?」
「動けるのが俺くらいしかいなくてな」
「僕の送迎だよ」
「彼女が立てた案内の先、その結末を見届けたくてね。安心してくれて良い、君の妹はもう、
「そう……か」
「おっと、気を緩めるのはいただけないな。安心するのは構わないけれど、まだ、君が死ぬのは早い。もう一人、きっと、客が来るだろうからね」
「あー、きちゃうか」
「そりゃそうさ。僕たちとは違って、きちんと正面からノックしてくれるはずだよ。ただ、彼の選択によっては、それなりに影響が出る」
「――なにが?」
「うん、頭はまだ回るようだね。彼は武術家だけれど、空間を渡れるんだ。いや、魔法師だから、世界を渡る仕組みそのものを背負ってる。彼女の仕掛けが一つあってね、そちらは君に直接関係はないんだけれど――その、世界を渡る仕組みが、必要とされているんだ。でもね、それ自体は問題じゃないよ」
大丈夫だと、少年は微笑む。
「その仕組みを使うだけだ、本人には影響がない。ないが、自覚はせざるをえないだろうぜ。もしも――もしも、君を見て、この場を見て、彼が逃げることを望んだのなら」
「……世界を渡ってしまう?」
「ああ死ぬわけじゃないし、異世界でもないよ。今は
「そう……」
「彼の選択だよ、君がどうするかは――いや、それもまた、君に
「じゃあ、一歩でも踏み込んだら、発動するようにしておいて」
「いいだろう、そのくらいなら簡単なことさ。しかし、ああ……なんだろうね」
血肉で染まった部屋を見て、少年は目を細めるが、パーカーのフードを
「美しい破壊だ、そう思うのも嘘じゃない。それなのにどうして、僕はイラついているんだろうね。まったく、彼女から貰ったのは言葉だけのはずなのに……」
「頃合いだ、もう行く……
「なあに、砂時計さん」
「何かあるか?」
その問いかけは、以前も聞いた。
だから、答えは同じ。
「ううん、なんにも」
「ならいい」
ああでも、きっと。
あの友人は、
次に意識が浮上した時、ああまだ生きてると、そう感じた。
まだ役目は終わっていないのかと思考が続いたのならば、もう受け入れができている証左だ。
「――入らないで」
一言、意志が乗れば相手の動きは止まり、散花は痛みを自覚する。
もう躰の感覚などないのに、脳の動きが痛みを伝えて、それが会話を成り立たせてくれた。
「駄目だよ
「散花……」
神鳳流柔術を学び、散花より一つ年上で、ここ二年ほど、一緒にいた。
一人では遊べない散花が、誰かと遊ぼうと考えて、護衛という言い訳、名目で傍においていた相手だ。
こうなることがわかっていて、巻き込んだとも言える。
だからだ。
「入れば、後戻りどころか、全部、台無しになるから」
「――」
何がどうなっていると、その言葉が口から発せられるのを、雪人は強引に抑えた。
奥歯を噛みしめ、拳を握り、大きく意識して呼吸をするが、躰のこわばりが解けない。
全部、台無し?
もうこの光景がすべてで、何もかもが終わっているじゃないか。
「散花」
やはり、小さく言葉を絞りだすだけだ。
「ごめん、雪人くん。私はこうなるのがわかっていて黙ってたし、こうなることを望んでた。そして、やっぱりこうなっちゃう。――ありがとね」
「……いや、俺は何かをしたとは思っていない」
「そんなことないよ。私が悔いなく、こうしていられるのも、雪人くんのおかげだから」
笑おうとしているのがわかる。
もう、口もほとんど動いていないのに。
「望みは?」
「――雪人くんも、悔いなく、楽しく過ごして」
「……お前は、そういうところが卑怯だ。はいわかりましたと、俺が言えるはずもないだろう」
「ほんと、義理堅いなあ……」
「お前のことを忘れて生きろなどと――お前と過ごした時間は、俺の経験だ。悔いはある、楽しいかどうかは、まだわからん」
「うん」
「だが、お前は看取ることも許さないと、そう言うんだな……」
「うん、それは駄目」
「なら、俺はこのまま、背中を向けるしか、ない」
ふざけるなと怒鳴りたい気持ちのまま、けれど、その一歩がなかなか踏み出せない。
一歩だ。
後ろへ向くくらいなら、前へ進むのが武術家だけれど。
決断は今だ。
まだ、まだ散花は生きている。自分の決断を後回しにして、相手に示せないのは、それこそ、武術家としては、――最悪だ。
だから。
「――行こう」
雪人は決断した。
「俺には、お前の判断を、見事と、そう言えるだけの度量もない。だがこれで別れだ」
「うん」
「今までに、感謝する、鷺ノ宮散花。そして俺は、お前のことを忘れないだろう」
「……うん、私も、ありがとう雪人くん」
いや、と。
短く言葉を落として、強引にその場に背を向けて、一歩を踏み出した。
何もできなかったし、何かができたとも思わない。
恋心とか、そういう関係でもなかったが、ただ友人であったと思う。
――もういいだろう。
思考も追いつかず、虚脱感も相まって、外に出た瞬間に気が抜けた雪人は、そのまま。
自分の意思とはべつに、その法式が作動し、――世界の隙間を渡った。
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