第72話 父親が持ってきた刀と少女
幼い頃、
覚えているのは、布団にいる母ばかりだ。幼いながらに、台所に立っていると、心配で仕方がなかった。
――父親は、母親を亡くしたのを前後して、家に寄り付かなくなった。
とはいえ、関係が悪くもない。何しろ、その時点で既に雨天
戦闘を避けるのは、構わない。だが、できないは許さない。
戦闘ができない時は、死ぬ時だけだ。
まあそんな理由も含め、躰を動かしていたのだが、午後の鍛錬を終えて道場から出ると、その男は庭石に腰を下ろしていた。
「よう」
「――親父か」
今は確か米軍の関係で仕事をしていたはずだが、軽装である。
「こっち戻ってたのか」
「お前、もうちょい驚けよ」
「俺が気配を掴めない手合いは、それなりにいるからな。つーか……ジジイがいる時に戻って来いよ」
「ああ? なんでそんな面倒をしなきゃいけないんだ。捕まって説教されてみろ、二度と帰りたくなくなる」
「説教されること前提じゃねェか……」
「そりゃされるだろ」
自覚があって何よりである。
「
「耳が早いなァ。さすがに
「じゃ、最初の一本だな」
右手で持っていた刀を、彼は、
「――」
重い。
「親父のか?」
「以前からエミリオンを頼りに、刀を作っててな。副産物として俺の得物もあるにはあるが、そいつは暁、お前が使うことを前提にしてある」
「抜くぜ」
右手の親指で
もちろん、実際に滑っているわけではない。刀としての機能はそこにある。
半分ほど引き抜き、そこから全てを抜いてみて。
「……いつ、鍛冶屋に転職したんだ?」
「馬鹿言え、次はもう作れねえよ、そんなもの」
まるで刃の上に、雨が落ちているような錯覚。重いと感じたのも最初だけで、腕の延長として使い込まれた刀のようだ。
納刀、左足を一歩、居合い。
「こいつは……」
「へえ、腕を上げたじゃないか」
「そりゃそうだろ、腕が落ちてたら問題だ」
返事をしながらも、躰の内側がぞくりと震える。
居合いなのに、落ちてくる水滴を切っ先に乗せたような感覚は、なんだ。
この得物は、あまりにも、暁との相性が良すぎる――そして、業物だ。
「
「
「……」
反応に困る。
雨天流抜刀術、その極意とされる居合いの技が、五月雨と、そう名付けられているからだ。
「ジジイに怒られるぜ?」
「得物を見せれば納得する。つーか、させとけ。まあ、そんなことより本題だ」
「おう」
それは最初からわかっていた。
何故なら、庭をあちこち移動する少女が一人、いたからだ。
「どっかで拾ったのか?」
「隠し子だとは言わないんだな」
「親父にいるわけがねェだろ」
「はは、まあそうだが、拾ったのとはちょいと違う。
「なるほど、な」
話せないことが、既にこの状況を作る要因になっている。
話したら、状況が壊れてしまう。
聞いてはならない、問うてもならぬ。ただ現状を見ろ、だ。
「で?」
「お前が預かれ、暁。ジジイじゃ駄目だ」
「条件は?」
「詳しくは本人から聞け。存在しない人物を、存在しないままにしておく」
「わかった――が、ガキの世話なんぞしたことはねェぞ」
「ガキじゃない」
少女が近づいてきて、言う。
「あんたより一つ年下なだけ」
「……」
「なによ」
「半信半疑だったが、女の年齢を聞き出す手法として、上手くいくもんだなァ……」
「相手が警戒してなけりゃな。おう、ジジイが来る前に俺は退散する。そう難しいことじゃないが、気をつけろ」
「また顔を見せろよ」
「おう、そのうちにな」
ひらひらと手を振って去る彬を見送り、右手に持った刀に視線を落とし、吐息。
「ま、とりあえず中に入るか。鍛錬後だ、風呂で汗を流してくるから、適当に探索でもしておけ」
「
「名乗りはできるんだな?」
「うん。……そこまで配慮してたんだ」
「まだ何も聞いていねェからな」
母屋に入り、暁は風呂場へ。シャワーを浴びながら思うのは、どうやらかなり重大な、そして深い事情を抱え込んでいることへの懸念だ。
良いか悪いかはともかく。
できれば、新しい同居人が増えたくらいの感覚でやりたいものだ。
風呂を出て作務衣に着替え、それから居間に呼ぶ。新しい座布団を取り出して座らせ、暁は定位置の廊下側。
「さて、雨天についてはどこまで知ってる?」
「一通り」
「ん」
僅かな音と共にお盆と湯呑が二つ、テーブルに置かれた。翔花もまた、音に気付いてその現実を視認する。
「今のが家の中を管理している
「……うん」
「空いている客間の準備もしてる。生活自体にはそう困らないだろうが、何かあるなら言え。質問は?」
「えーっと、うん、予想外なことがいくつか」
「言ってみろ」
「私を受け入れることに賛成しているの?」
「……? お前がここにいて、今のところ問題は起きていねェし、起きたらその時に考えればいい。嫌なら最初から拒否してるし――俺が拒否したら、親父はそもそもお前を置いて行かねェよ」
「うん? でも、
「だから、俺は最初から拒否しないッてことだろ? 妙なところを気にするんだな」
「いや、普通はまず、私に質問するから」
「ああ……じゃあ、お前の存在を知っている人間は?」
この男は馬鹿ではない。
むしろ鋭い。
武術家において、ここまで思考の手を伸ばす相手を、翔花は知らなかった。
「それなりにいる」
「うちに来る相手に限定したら?」
やはり、そうだ。
外で話すつもりはない。あくまでも来訪者のみに絞る言い方から、その意図が伝わってくる。
「少なくとも
「なら、全部あいつから聞いておく。必要ならお前も相席でいい」
「ああ、うん、それはいいんだけど……」
「なんだ?」
「や、ちょっと拍子抜けしてるだけ」
「ふうん、そんなもんか。――ああ、風呂は好きに使っていいが、覗かれたくなければ、俺に一声かけろ。まァ、寝る前と鍛錬後と、朝と、それくらいは間違いなく入るが、それなりに頻度が高い」
「はあい」
「日頃は何をして過ごす?」
「暇潰しは得意だし、本を読んだり考えたりするのは好きだから。躰を動かすのも、それなりに」
「まァ、蓮華がそのうちに来るだろうし、改めて話を聞いてから、こっちでも対策をしておく。退屈だとは思うけどな……」
「暁は退屈してるの?」
「躰を動かしてるし、学校の勉強もあるし、やるこたァあるさ」
「へえ、真面目にそういうの、やってるんだ」
「学業の話か? まァ最低限、高等部卒業くらいはな。息抜きには丁度良いさ」
「……うん、まあ、いいや」
煮え切らない返事にも聞こえたが、苦笑した暁は立ち上がり、翔花の頭に軽く手を置いた。
「なんとかなる。じゃ、出迎えをするから、好きにしろ」
「出迎え?」
「言ったろ、蓮華が来るンだよ」
障子を開いて廊下、庭側に出ると、蓮華が入り口からくるところだった。片手を上げて、暁は縁側に座り直す。
「よう」
「おう、
「そりゃ俺じゃなくて、忍がやることだろうがよ。タイミングとしちゃァ、ちょいと早いかと思ったンだが、もう来てたのか翔花」
「……?」
「先読みしたわけじゃねェよ? この状況なら、俺が顔を見せるッて確信を暁が持っただけだ」
「ああ、そういう。付き合い長かったっけ?」
「いや数日だ」
「暁が柔軟な思考をしてンだよ。――さてと」
「おう」
「名前は聞いたよな? 元をたどれば
「――」
翔花が息を飲むのも、仕方がないだろう。確かに生まれは鷺ノ宮だが、ある理由によって、翔花は鷺ノ宮を名乗ってはいけないし、これから名乗ることもない。そして、それは、誰もその名で呼んではいけないことでもある。
それなのに。
「繋げて呼ぶな、だな」
「わかってンじゃねェか」
「言の葉に関しては、こっちの領分でもあるし、慎重になるだろ。俺が知りたいのは、どこまでかッてところだ」
「そこまで厳密に区切られちゃいねェが、むしろ怖いのは事故だ。翔花がここにいることを知る、これは構わないし、それ以上はねェよ。だが外を出歩いている時に、何かしらの因果関係で特定人物と接触しちまうと、これまでの仕込みが全部消える」
「その人物ッてのは、特性されてると考えていいのか?」
「ある程度は。俺も含めて、それを避けようと動いてる。たまに買い物へ出たりするくらいなら、何の問題はねェし、翔花自身がそれを自覚的だよ」
「なら、やっぱり俺の負担はほとんどねェな。それでいいのかと疑問にも思ったが」
「ガキに何を期待しろッて?」
「それもそうか」
「けど翔花、気をつけろよ? こう見えて暁は、女には甘いぜ。敵になりゃそうでもねェが、内側ともなると、気遣いをしやがる」
「そりゃするだろ、気遣いくらい」
「お前のは卑怯なんだよ」
「そうか? ……そんなもんかねェ」
「……初めて見た」
「あ?」
「蓮華がそんな楽しそうにしてるの」
「そりゃお前、オフの時くらいは気楽にしてるだろうがよ。まァ、怪我も大して治ってねェ」
そういえばそうかと、暁が頷けば、蓮華は笑ってその肩を軽く叩く。
「忘れンなよ、お前ェら武術家と一緒にすンな。瀬菜が心配するから、すぐ帰るぜ」
「おう」
「つーわけで、また様子見には来るぜ、翔花。怪我が治ってからな」
「はいはい、適当にどーぞ」
さてと、暁は立ち上がって。
「鍛錬の続きだ」
「え? さっきお風呂入ったのに?」
「まだ夕食には時間があるだろ」
「あ、そう……」
これから、武術家のところへ来た事実を、嫌というほど翔花は味わう。
というかそれは、暁の生活そのものかもしれない。
不満はなかったが、その生活はあまりにも、一般人から見れば過酷としか表現できないようなものだった。
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