第70話 久我山紫月との顔合わせ

 これはまだ、蓮華れんか五木いつきの領域へ足を踏み入れる前の話だ。

 現段階では、どうやって解決するかを考察しており、それほど本腰を入れていない。その日は朧月おぼろづきの道場で、雨天うてんしずかと遊んでいた。

 静にとっては真面目というほどではないにせよ、それは戦闘であり、蓮華にとっては朝のラジオ体操で躰を動かすくらいな気分だ。

 実力差ではない。

 ただ、同じ土俵ではないだけだ。

 三十分ほどやれば躰も暖まり、それなりの運動量になったので、その来訪はタイミングが良かった。

「たのもー」

「よう」

 道場に顔を見せた久我山くがやま紫月しづきに対して、蓮華は躰ごと振り返って片手を上げ、追撃の首への斬戟をしゃがんで避け、胴への棍の突きは身を捻り、更に槍の突きを側面に回って回避し、無手の静の肩を二度ほど軽く叩く。

「……当たらねェなァ、おい」

「当たったら死んでるだろーがよ」

「いや、マジで当たるならお前、そりゃ止めるだろうよゥ」

「あ? 本当にそうか?」

「わっかンねェなァ、ははは。おう山の、どうした入ってこい」

「笑ってンじゃねェよ……」

 当たる気もないと、蓮華はタオルを首にかけて水のボトルを――。

「ああ悪い、俺は蓮華れんかだ。お前ェのことは多少知ってるよ、久我山紫月」

「なにしとんの」

「あ? 運動不足の解消だろうがよ、見てわかンねェか」

「ジジイ相手にようやるわ……」

「それなりの相手じゃねェと、運動にならねェよ。おい静、お前は茶を淹れろ。どうせ水は持ってねェだろ」

「ん、そいつァ啓造けいぞうの仕事だろう」

「そりゃそうか。おう山の、ちょっと蓮華と遊んでろよゥ」

「余計な気遣いよなァ」

 頭一つとは言わないが、背丈には差がある。蓮華は男性平均よりも小さいので、だいぶ慣れた。

「お前ェの兄貴について、少し話すぜ」

「――なんじゃあ」

「納得してンのかよ」

 端的な問いかけに、紫月は口を噤んだ。

「本来なら立ち入るべきじゃねェンだが、そういうわけにもいかなくてなァ。経験上、どうしようもねェ問題ほど、目を反らして逃げてッと、悔いが残る。お前ェはどうなんだ?」

「……」

「挑発のつもりで言うなら、目を瞑ってたッて、何も変わらねェだろうがよ」

「変わらんのじゃったら、どうしたらええねん」

「それがわからず暴れてるガキッてのが、お前ェだろうがよ」

「――っ」


 紫月の両手から糸が一気に展開する、戦闘の合図。

 否だ。

 合図は、その瞬間に紫月が蹴り飛ばされて壁に当たった音だ。


「ほれどうした、かかってこいよ。それとも武術家ッてのは、ていのいいサンドバッグか何かか?」

「このっ」


 蓮華はそもそも、戦闘ができない。武術家と同じ土俵でやり合うなんてことをしたら、二秒とせずに殺されている。

 踏み込みも、回避も、何もかもが素人と似たようなもので、基本的には攻撃をしない。

 極論を言えば、避けてもいない。

 たとえば、絶対に当たる攻撃があったとしよう。そもそも攻撃とは、当てるためのものであって、当たらないものを複雑に組み合わせ、最終的に当てるのが技であり、それこそ雨天にはそういう、絶対に当たるものが山ほどある。


 仕組みは簡単だ。

 蓮華はただ、いるだけである。


 刀を抜き、斬る。

 その瞬間にはもう、蓮華は縁側でお茶を飲みながら、ぼんやりと見ている。

 この状況で、攻撃が当たるだろうか。

 当たるはずがない。

 常に間合いの外にいれば、それは鍛錬を見学しているのと変わらない。

 もちろん、簡単にできることではない。未来の可能性を見ることができる蓮華でなくては、おそらく不可能だろう。よほどの錬度に差があれば、あるいはできるかもしれないが、武術家が相手だと、そういう話ではなくなってくる。

 久我山くがやま糸術しじゅつ

 そもそもが捕獲術の発展であるため、範囲が広く、それこそ逃げ場がない。ないが、そんなものは雨天の技だとて同じだ。

 逃げ場を作り、なくなる前に逃げるだけ。

 身体測定で反復横跳びを真面目にするくらいの消耗はあるので、それなりに疲れる――と、武術家に言えば呆れられるが。


 十五分ほどだった。


 仮にこれが鍛錬であるのならば、短すぎる時間だ。準備運動もまだ半ば、といった状況だろう。戦闘においては一撃で勝敗が決まるものだが、それはさておき、疲労で動けなくなるための十五分だ。

 攻撃は、当てるよりも、当たらなかった時の方が疲労は大きい。

 これが難しいのだが――当てない攻撃は、存在する。いわゆるフェイントなどもそうだが、蓮華を含め、熟練者というのは、これをと理解してしまう。しかも初動の時点で、だ。本人も当てる気はないので良いのだが、しかし、当たったと、当てると、そう確信したものが当たらなかった時の虚脱感もさることながら、当てたあとの動きを全てキャンセルして制動に向けなくてはいけないのも、疲労を重ねてしまう。

 十五分。

「おう、よくもった方じゃねェかよゥ」

 雨天の、武術家の筆頭である静は、そう表現した。

「な、なんやのこいつ……」

 静からお茶を受け取ったのを横目で見ながら、蓮華はタオルで汗を拭う。そして、足元に広がった糸の一つを手に取り――。

「あ、やべ、指が切れた。静、おい、なんか治療道具あったっけ?」

「お前ェよゥ……」

「いやに細いのを拾っちまったンだよ、あー血が出てる。……まあいいか」

 普通の人ならば、舐めておけばそのうちに血が止まるだろうけれど、蓮華はそうもいかない。この程度の傷でも、三日ほどは引きずるだろう。

 油断だった。

「裁縫はやめとくか……おい、俺の茶をくれよ」

「そこにあるだろうがよゥ」

「おう」

 湯呑に熱いお茶だ。運動後に躰を冷やさない――なんて理由よりも、静の嗜好だろう。

「で、多少は気が晴れたか、紫月」

「……兄貴は、どうにもならんのじゃろ」

忌忌いまいましいことにな」

 少し離れた位置に蓮華は座る。正直、顔を合わせて話したくはない。

「俺も含めて、あいつも世界に選ばれた。未来の可能性を予測し続ける俺と違って、あいつは、いわゆる記録屋レコーダーだ。厳密には、ノートだよ。ペンを持ってるヤツはもういる」

「なんや……?」

「そいつが本ならいい。けどな、人間に情報を記録するなんてこたァ――できねェよ」

 壊れる、という表現を蓮華は避けた。

 おそらくそれが現実になれば、世界という情報が書き込まれ続ければ、壊れるどころか、人間として消失するからだ。

 耐えられない。

 情報量が多すぎる。

 世界の記録をそのまま文字起こしする姫琴ひめこと雪芽ゆきめの、バックアップ。あるいは劣化版。

 それが彼女の兄、久我山くがやま桔梗ききょうだ。

「そう遅くはねェよ、いつかはわかンねェけどな。どうせあの野郎は、そこらへんも納得してンだろうが――」

 吐息を一つ落とす蓮華の横顔を、紫月は見た。

 ――怒っている。

 退屈そうな顔だ、湯呑を片手に頬杖をついているけれど、しかし。

 感情という感情を押し込めて、ただ、怒っている。

「――何が、納得だ。死ぬことにそんなもんはいらねェだろうがよ」

 何に怒っているのだろうか。

 世界の理不尽さか、それとも兄に対してか。

「お前ェもだ、紫月。納得すンな、どうしようもねェことを捨てるな」

「どうしようもないなら、どないしたらええんじゃ」

「あ? とりあえず俺からも話はするンだが、あー……一発殴っとけば、なんとかなるんじゃね?」

「適当やなあ」

「そこまで立ち入る理由はねェよ。ま、どうであれケリはつけとけ、キズなんて望んで作るこたァねェよ」

「……そやな」

「前向きに考えろ。――ついでに、ちょっと俺に手を貸さないか?」

「は?」

「ちょいと用事があって、五木いつきの領域を壊すンだが」

「おい蓮華よゥ、俺の前で言うことじゃねェだろう」

「聞き流せよ静、お前が関わるわけじゃねェ」

「うちに何をさせたいん?」

「おう、それな。クソ面倒なことに、九尾を封印するのに九つに別けちまってンだよ、あそこ。かなめはこっちで壊すから、お前ェ、個別の封印を壊してくれ。俺が先に入って、手引きをするから、入るぶんにゃ苦労しねェよ」

「雑用じゃのう、うちにメリットあんのけ」

「五つ目の森だぜ、あそこ。しかも外から入るンじゃなく、中から出られる。腕試しには丁度良いと思わねェか? 安心しろ、お前ェの邪魔はしねェよ」

「む……外に出るだけ、帰るまで遊べるんか。……ぬう」

「今すぐじゃねェが、早めに返事をしろよ。つーか、これで悩むあたり、本当に暴れん坊だなお前ェは。静、苦労してンじゃねェのかよ?」

「まさか、こんくれェじゃなきゃなあ、若いのは」

「適当言いやがるぜ。よーし、啓造けいぞうに風呂借りてくる」

 さすがに着替えもせずに出歩きたくはねェと、笑いながら蓮華は道場を出ていった。

「……なあジジイ、あれなんじゃー」

「ん? なあに、俺らのことわりからは外れた人種だ。遊ぶだけならいいが、突っかかるなよ? 俺らより、――容赦がねェ」

「そんなことはやらんきに」

「どうだかなァ。それと、口外はするな」

「言わんよ、なんもだ」

 第一印象は、とにかくよくわからない相手だった。

 ここから、五木の領域へ向かうまでに、三度ほど逢うことになり、その人となりもわかってくる。

 最終的には。

 頼りになる相手だと、そんな印象で落ち着くのだが、それはまだ先の話だ。



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