幕間・鷺ノ宮事件前
第68話 蓮華と瀬菜
周囲を田んぼに囲まれたような二階建ての一軒家。庭は少し小さいが充分で、裏庭にある土地は農家に貸し出していて、柿の木がながらんでいる。
さて、どうしてここに
赤色の装束で戻った暁は、そのまま風呂場を六時間ほど占拠し、出てきたと思ったら躰を動かし始めた。あれはおかしい。翌日から鍛錬を始めたので、たぶん頭もどうかしてる。
そもそも。
まず問題になったのは資金だ。学生をしながら生きられるだけの資金を稼ぐのは難しい――そこで、
いずれにせよ住居の問題もあったため、VV-iP学園で生活しよう、そう決めた頃合いだ。
瀬菜は携帯端末の契約をしたのである。
ごく自然な流れであり、ほかの三名もそれぞれ新規に購入したのだが、理由があって瀬菜が一番最後になった。
というのも、一ノ瀬流小太刀術に関してどうすべきかを雨天の師範と相談し、中途半端は良くないという合意の上で、習得を進めることにしたのだ。
だから。
購入してすぐ、音を立てた時には驚いた。何故もなにも、誰も登録していない、知るはずがない番号なのに、連絡が来るだなんて、想像できるはずもない。
どうすべきか悩んだのは、一瞬だけで、すぐ連絡に応じたのは、瀬菜が武術家だったのも一因だろう。とにかく判断は早く、成功や失敗よりもその場の選択を何より重んじるのが、戦闘経験者だ。
「はい」
『あ、応答早い。どーも、こちら
「はあ……状況は理解しました」
『敬語はいらんよ、適当で。そろそろ麻酔が切れて帰ってくると思うから、瀬菜に出迎えを頼もうかなって』
「それは……」
『ここで行かないとあの子、雲隠れよ?』
「行くわ」
『はあい』
即決であった。迷う理由がない。
予約をしたわけではないにせよ、久しぶりに行った診療所は、相変わらず嫌な感じであった。
三日も
腕は確かだ。
……腕は、確かなのだ。
「クソ面倒な手術をさせるな、クソガキ」
性格に難あり。まあ、まともな医師の知り合いなどいない。
狩人育成施設にも顔を出している
「一番ひどいのは足だねえ」
ほかの仕事があると、すぐ出て行った吹雪の代わりに、御影が言う。だが、言いながら足をぺちぺちと叩くのはいただけない。
「随分と硬く固定したじゃねェかよ」
「杖は嫌でしょ?」
「足を叩くなよ……」
「大丈夫、壊したら治すから」
こういうところが駄目なのだ、撤退しよう。
「しばらくは安静ね?」
「おう。ここへ来るたびに、次は嫌だと強く思う」
「いいことだね、私も面倒が減るし」
御影は面倒が嫌いだ。
仕事も嫌いだ。
そして、嫌いなものはとっとと済ませるようにしている。良いのか悪いのかは知らないが、とにかく正確で手早く、面倒を終わらせる。
ベッドから降りて両足で立つ。麻酔も抜けているし、固定はされているが痛みはあったが、歩けないほどではなさそうだ。
「けど、良い仕事はするんだよなァ……」
「そりゃそうよ、仕事だもの。次はなくていいからねー、面倒だし」
「おう、俺だって望んできたくはねェよ」
「センセが塩撒いておけって言ってたけど、撒く?」
「なめくじかよ、掃除の手間が増えるだけだぜ」
「そだね、じゃあ見送りもいらないか」
通路でわかれ、階下の受付で手続きをして外に出れば、日差しが眩しく、八月下旬の暑さに少しウンザリする――と、そこに。
「お疲れさま」
「……一ノ瀬?」
驚きに目を丸くして、一歩を出した右足に鈍痛。それを表情に出さず近寄りながら、いくつかの可能性を考察して。
「あー、姉貴か」
「ええ、契約したらいきなり連絡が来たわ。――歩ける?」
「さすがにわかるか……まァ、武術家だから、隠しても無駄だよな。一通りの治療は終わって、あとは安静にしとくだけだよ。近況報告を含めて、とりあえずうちまでの護衛を頼む」
「――あら、素直ね」
「断ってもしょうがねェだろ」
そもそも、嫌っている相手ではない。
「今はもうVV-iP学園に移ったか?」
「ちょうど、そうしたところよ。忍は理事長の席に座ったし、二ノ葉はそれについて行った。とはいえ、私もそうだけれど、学業はあるわね」
「ああ、そこらの情報は拾ってるよ。その件で一つ、一ノ瀬には頼みがある」
「頼み?」
「
「ええ、同い年ということもあるけれど、生徒会で一緒だもの」
「咲真と逢わせてやってくれ。難しいことはいい、二人がツラを合わせれば、あとは喫茶店なり何なりで話し合いをするだろうよ」
「つまり、紹介をしろと?」
「そう」
「そのくらいなら、私にもできそうね。折りを見てやっておくわ」
「頼む。それが咲真にとって良いことかどうかは、わかんねェけどな……。あとは
「あの子がどうしたの?」
「はは、あいつは俺に対して、現状をどうにかしてくれと頼んできたからな、その報酬。ああいう当たり前ッてやつは、俺にとってありがたいンだよ。それなりに手を貸したくもなる。んー……ちょいと早いが、一人暮らしならどうよ」
「……心配にはなるわね」
「ははは、言いたいことはわかるが、本人は喜びそうか?」
「たぶんね」
「諒解だ。つーわけで、ちょっと連絡を入れるよ」
「ええ」
蓮華は携帯端末を取り出し、付属のインカムを引き抜いて耳につける。
相手は四コール目で応じた。
『お疲れさん』
「もう情報は拾ったか?」
『拡散はしてねえな』
相手、ベルは詰まらなそうに言う。
『〝
「姉貴は過保護でな」
『その回線に乗って、ダイジェストを作ったのがうちのAIで、それをざっと見ただけだな。セキュリティが甘すぎるって忠告しておいてくれ』
「今から帰るところだ、そうしておくよ。――で、お前ンところのマンションで、住人を引き受けるつもりはねェか?」
『五木の妹か』
「わかるか」
『そりゃな、ああいうヤツは見ていて安心するし、ほどよく手を貸したくなる』
特異性があるわけでもなく、一般人という囲いの中では少しだけ突出して、それでいて当たり前の感性と、それを当たり前だとそれほど自覚のしていない手合い。
自分とは違い過ぎる相手だからこそ、それでいいと、認めたくなる。
ただし、距離が近すぎれば違いを自覚させられ、遠すぎれば他人と同じ。この距離感も重要だ。
『ついでだ、それもいい』
「じゃ、
『嫌ッてほどの会食が待ってるだろ』
「そういうことよな。だから早いうちに家でも買わせりゃいい。それと地下に顔を出せと伝言を頼む」
『お前が助けた理由をそこで知る、か』
「どう受け取るかは、あいつ次第だ」
『わかった、こっちも今しがた帰国したところだ』
「お疲れさん」
『どこまでだ?』
「忍には伏せなくていいよ、舞枝為には伏せろ」
『おう。――で?』
「
『空席にしとけ、俺が座る』
「そのつもりだ。――またな、ベル」
『はいよ』
そこで通話を切り、視線を左下に落とした蓮華は、しかし、隣に瀬菜がいることを思い出して苦笑して、インカムを外した。
「悪いな」
「いいわよ、そういう仕事に関わろうと思わないもの」
という流れで、家まで送ったのだが、そこからの展開は未だによくわかっていない。
「おかえりー」
猫を三匹ほど抱えながら、ずるずると這うようにして玄関横にある和室から顔を出した女性が、蓮華の義姉である、
「ごはんつくって」
「まだ昼には時間があるだろがよ。心配しなくても、料理くれェはなんとかなるさ」
「瀬菜は?」
「……なにが?」
「ごはん」
「猫の? そう猫……いいわね、猫」
「そうじゃなく、料理」
「得意ではないけれど、それなりに」
「じゃあ今日のごはんは瀬菜が作ってね。材料は適当にあるから。二階の左側が瀬菜の部屋、右側が蓮華の部屋。よろしく」
「……え?」
蓮華はただ、笑っていた。
そんなこんなで暮らし始めたのだが――蓮華は、よく自己管理ができている。
自室にいることが多く、瀬菜がひょいと顔を見せても特に気にした様子はない。だから休日などは、よく蓮華の部屋で本を読んでいたりするのだが、当人は。
何をしているのか、よくわからない。
デスクにはディスプレイは二つ並べられ、何かを表示して作業をしていたり、動画を見たり、音楽を流したり。据え置き端末の電源はだいたい入っている。
「その気がありゃ、高等部の学業なら、独学で充分」
言葉を投げかければ返答があるし、心地よい空間ではある。
ただ。
蓮華は仕事になっても、その雰囲気のままだ。
「そういえば、
「
「……え? 狩人なの?」
「高卒くらいで取得して、兄貴とは同級生だよ。旧姓は
「見えない」
「その通り、匣にこもって出てこねェし、金があるから自炊もしねェと、典型的な自堕落タイプだ。兄貴も警官だから、あまり帰ってこない時もあるしな」
「蓮華は?」
「なにが」
「職業」
「俺は来年にVV-iP学園へ入る、今のところは中学生」
「……そう」
どうなのだろうか。
世間的にわかりやすい記号を持つ者と、持たない者。その厄介さは、瀬菜が考えるべきものではないだろう。
ただまあ、とにかく。
「ごはんー」
階下からの呼び声は、いつも一時間前。どうやら昼食の用意をしなくてはならないらしいと、瀬菜は立ち上がる。
「蓮華、なににする?」
「軽めのもので。それと、そろそろ連絡を取って
「そうね」
そういう先を見通した物言いは、まだ少し慣れないが。
瀬菜はこんな、当たり前の生活を楽しんでいた。
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