第66話 雨の音色は彼のために

 わかっていたことだ。

 あかつきも、蓮華れんかも、そしてしずかでさえ、この状況は予想していた。

 いくら涙眼るいがんという天魔てんまの補助があるとはいえ、業物とは呼べない、かといって練習用ではない、その刀が。

 九尾という妖魔に対して。

 そして、暁の錬度に対して、耐えきれるはずがないと、そんな確信を抱いていた――ならば。

 ならば、この状況は、師であり雨天そのものである静も、納得している。

「――」

 まさか傷をつけられるとは、そんな誉め言葉を口にしようとした彼女は、直立して空を見上げ、雨を感じている暁のその姿に対し、驚きによってはじめて、ここに来てようやく、距離を取るように跳躍した。

 正解だと、蓮華は笑う。

 まさに今から、人間の天敵である妖魔、その天敵である武術家の姿を見ることができる。

 だから、間違いじゃない。

 天敵の存在の誕生に、警戒するのは当然だ。


「――」


 暁が口を開く。やはりこちらまでは届かず、けれど蓮華は内容を知っていて、そして、彼女は、藻女みずくめの耳には自然と言葉が入り込む。


「――あまおりにてクウを見上げるは、晴間はれまのぞシンもなく」


 おそらく、その言葉は暁自身の耳には届いていない。ただ歌うよう、詠うよう、自然と口から漏れる。


うは天よりの恵み、よろこびを上げし大地の声色こわいろ響き、ああ、惜しむは我が身を流れ落ちる水滴よ――」


 彼は。


「焦がれ求め欲するは、恵み受け歓びに震える我が身なれば」


 雨天だ。

 彼は、雨天うてん降卯こうう紅月あかつき


「――れを望み、至ろう」


 武術家の筆頭であり、――武術家とは雨天である。


 ゆらりと、躰ごと回転して彼女を視線で捉える、そこから五秒ほどの間ができた。


 空白の時間。

 雨音あまおとの時間。


 彼女の顔がこわばる。

 暁の足元にあった初動紋様が、外側から光を作るよう輝きを持ち、内側からは黒色になって染まり、それらは混ざり合い、上書きするよう描き終えたあとに、消えた。

 陰陽いんよう混じりこそ、人である。

 天魔の力を借りるなら陰気に偏るが、それを均衡してこその武術かなれば――あとは。

 場が動く。


 誰もが、その姿を見た。

 左足の踏み込み、左腕を伸ばし、拳を当てた姿勢。

 だがそこにいるほかの武術家は、おかしいと、そう思っただろう。

 暁は殴り終えている。それなのに、腕を伸ばしきっているのに、拳が彼女に触れているだけ。

 そしてあろうことか、暁はすぐ腕を引き、くるりと背中を向けて蓮華の傍まで歩くのだ。


 空気が弾けた。

 それは地鳴りに似た響きをもって、効果を表現する。

 三度。

 三回鳴ったそれに彼女は身をよじると、そのまま姿を消した。


「一撃かよ」

「おう」

 たった一撃で、一連の動きを、ある一幕を完成させる雨天の技。


雨天うてん棍術こんじゅつ木ノ行もくのぎょう第八幕、始ノ章しのしょう鍵破かぎひらき〟》

追ノ章ついのしょう窓破まどひらき〟》

終ノ章しゅうのしょう門破とびらひらき〟》


 本来これは三種にわけられ、一つずつ覚えるものだ。三つの技は、理由があって三つにわけられ、これらは突きによって行われる、巨大な壁などを破壊する際に使う。

 一瞬のうちに、三つを連続するのではない。

 一撃で、三つの技を使う。

 いくら雨天とはいえ、相当な錬度が必要とされる――だからだ。


 雨の中、暁の左腕は血によって装束が濡れている。


「ん? ――ああ、利き手じゃねェが、右でも扱える」

「踏み込みの足はどうなンだよ」

「よく見てる野郎だなァ……」

 小さく、見えないよう暁が吐息を落としたタイミングで、彼女が再び姿を見せる。


「――うむ」


 その姿は先ほどと比較して大きく、やや見上げなくてはならない。

 八尾、そして妹狐、玉藻たまも

 何が大きいのかを見る必要はない。すべてのスケールが大きいのだ。

「油断とは思いたくないのう」

「――さァて、ここからは俺の出番だ」

「む?」

「充分に遊べただろうがよ。で? 引きこもりはどうしてる」

「……ああ、そういえば、そうじゃったのう。わたしも呼び掛けておるが、反応はない」

「しょうがねェよなァ」

「うむ、姉はのう、しょうがないのじゃ」

「つーわけで、俺が目覚ましを鳴らしてやるよ。お前ェもいい加減、曖昧な存在ッてのをどうにかしてェと、そう思うンじゃねェか?」

「ふむ……どうするつもりじゃ」

「内側で話し合いをしろよ。現状、中にはお前ェら姉妹しかいねェ。だったら、まァ結論は見えてるが、どっちかが八本、どっちかが一本、そういう落としどころにしろ」

「ははは、確かに、結論は見えておるのう」

「おう、それを決めたらもう一つだ。二人で話し合って、五木いつきとどうするのか――つまり、これからを考えろよ。それが終わったら、あいつを表に出して来い。それで終わりだ」

「ふ……承知した」

「なら」

 その可能性を引き寄せる。

「久しぶりに姉妹で話をしてこい」


 髪飾りについた金色の板が、その全てがはじけ飛んだ。


 まずい、倒れる。

 眩暈めまい、これが一番いけない。普段は蓋をして見えないようになっているそれが、未来におけるあらゆる可能性が、蓮華の目を通して現実へと重複ちょうふくを始める。

 

 ほかでもない、誰でもない、蓮華自身が目を反らしている現実を突きつけられたようで――。


「なんやあ」


 ぽんと、投げられた第三者の声は、やや大きく、強く放たれ、蓮華の意識が結び目を強くする。何気なく、いつも通りに声の方を向いた蓮華は、暁が立ち位置を変えて自分をしのぶたちの目から隠していたことに、遅く気付く。

 やれやれ、だ。

 気を遣われたらしい。

「まだ終わっとらんけえ、何しとっとー」

「よう紫月しづき、ご苦労さん。こっちはこれで順調よ」

「さよか。したっけ、そろそろ森が閉じるべ。咲真さくまミヤの、そこに寝てるの背負って、早いとこ抜けた方がええよ」

「端的に説明したまえ」

「森を否定していたものがなくなったじゃろ。忘れてへんやろ?」

 嬉しそうに。

 楽しそうに、紫月は笑みを浮かべる。


「ここは妖魔の巣窟じゃあ」


 それが、とてつもなく面白いと言いたげだった。

「五つの森を突っ切る自信があるならええねんけど、人を背負ったままじゃあ難しいけんね」

「――そうだな。元よりそれが仕事だ、忍」

「はい、お願いします」

 りょう二ノ葉にのはを背負い、咲真もまた、吐息を一つ落としてから、舞枝為まえなを背負った。

「どこに運んでおけばいいのかね?」

「おう、ならうちに運んでおけ。空き部屋はある」

「雨天かね……わかった、そうしておこう」

 部外者は見届けも必要あるまいと、咲真は笑って境内けいだいを降りていった。

「ほんで、瀬菜せなやんは残るん?」

「――そうね。忍に任せるわ」

「なんや、相変わらずけったいなこと、いちいち考えとるのん」

「紫月と違って乱暴じゃないもの。じゃあお先に、ね」

「一ノ瀬、つまづいて階段を転げ落ちるなよ?」

「手を引っ張って止めてくれる相手がいないところでは、気をつけるわ」

 やや小走りに、二人を追うようにして瀬菜もまた、その場を去った。

 あとは。

 忍が全てを見届けて、それを報告するだけでいい。

 いいのだが――蓮華れんかが勢いよくせき込んだ。

 吐血である。

「……チッ、内臓まで痛めつけやがって」

「代償か?」

「つーよりも、人間が抱えられる限度をとっくに越えちまってンだよ、こいつはな。頭痛もひでェし、どうにか平静を保ってた俺をちったァ褒めろよ、暁」

「ンなこたァ知らん。女の前で格好をつけるからだ」

「馬鹿、そんくれェはするだろうがよ」

「なに驚いとんの、木の」

「――いえ、そういう素振りがなかったものですから」

「あんなあ、仮にも九尾が相手や、どうであれ無傷で終わらせる方がおかしいきに」

 今すぐにでも座り込みたい気持ちを、蓮華は抑え込む。

 ただしばらく目を瞑って、未来の可能性を切り離す壁を意識した。

 そうして――しばしの後に。

 九尾の狐が、内側から戻ってくる。

 さあ、この物語の幕も、そろそろ落ちそうだ。



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