第65話 居合い・閃
音を立てて木が折れる、そんな音色が遠くから聞こえてくる。
思えば長く、この地に縛られてきた。それが終わるともなれば、安堵よりもむしろ、どこか寂しさを伴って――。
「馬鹿なことを考えてンじゃねェよ。これから先、もう嫌だと思うくらいには、面倒が多いぜ」
「……そうですか。ではそれは、全てが終わってから、甘んじて受け入れますよ」
「そうしとけ――さて
「ああ、できる限りは」
周囲に拡散していた
威圧感は先ほどの狐とは比較にならない、やや派手とも思える和装の少女が一人、周囲を見ながらこちらに来て、五歩の距離で立ち止まった。
「――ほう」
その言葉が、文字通り、空気を震わす。
「小僧どもが、良くやったと褒めるべきかのう。
上から目線に、二人は口を開かない。
どちらかと言えば、笑みを浮かべるくらいの余裕を持って、その言葉を聞いていた。
「さて、要求はなんじゃ。そちらにおるのは、五木の血筋じゃろう? 共に在ると契約したのは随分と昔だが、なに、元に戻っても構わんとも。ただし酒は寄越せ」
「――じゃ、こっちからの要求を言ってやるよ」
やはり。
その言葉には笑いの気配が混じっている。
事実、蓮華は笑っていた。
「とっとと九尾目を叩き起こせよ、そうじゃなきゃ酒の要求も通らねェ」
「――なに?」
「ついでに言うなら、今のご時世を甘く見るなよ? 雑な日本酒だけじゃねェ、ウイスキーにカクテル、まァお前ェの知らねェ酒が山ほどあるぜ? そいつを一人で飲むのは勝手だが――そろそろ、引きこもりの臆病者を引っ張り上げろよ」
「ぬ、う……」
迷う。
迷いがある。
やはりこの、原初の狐、姉の尾を二本喰った妹狐は、賢い。力を持つが故の傲慢さがそこにないからだ。
ないというか、交渉材料にしていない。
「なあに、手伝いはしてやるよ。――ただし、七本目を失いことも視野に入れろ、
「乱暴じゃのう」
「本来は、八尾目だろ、お前ェはよ」
「それはそうじゃが……」
「気分が乗らねェなら、楽しめるようにしてやってもいいぜ? なあ、暁」
「そこで俺か。まァいいけどな……――
その一言で、暁の内側にいた彼女は姿を見せる。ほとんどの相手が、その姿を捉えられず、和装の女性だという認識しか抱けない――が、しかし、彼女はそっと暁の躰を抱えるようにして消えた。
内側から外側へ。
それは、一見して同化にも見えるが、在りようが違う。
暁の足元には既に、意識もせず、青色の初動
「ほう!
「
「そうそう、それじゃ。なるほどのう、確かに楽しめそうじゃ」
言って、彼女は懐に手を入れる。
「
探る、首を傾げる、手を出す。
「――姉上に関しては」
腰の裏に手を伸ばし、戻し、着物を軽く叩き、もう一度胸元へ手を入れて。
「つまりじゃな」
やはり出して、髪に手を突っ込み、軽く探して、やはり何もなくて。
「やっても構わんとも!」
腰に手を当てて開き直るよう宣言した。
小柄といっても、蓮華とそう大差ないのだから、女性という枠組みの中では、それほど背丈は低くない。だが妖魔としては小柄だ。
「なにを探しているんだ、お前は……」
「いや愛用の
「
「ははッ、悪いな。ほれ、ちゃんと持ってきてやってるよ」
左側に手を突っ込み、空間から漆塗りの扇を取り出すと、放物線を描くよう投げて渡した。
「うむ、これよ」
「気をつけろよ? 今のお前ェは九尾じゃなく、ただ一尾を持った藻女だ」
「わかっておるとも。かつてのように暴れるわけにもいかん――が、ほかの意識がないのは助かる話じゃ」
「暁、やりすぎるなよ? 玉藻まで潰すと面倒だ」
「言ってろ、こいつを相手にそこまで行くとなりゃァ、余程のことがなきゃねェよ」
「馬鹿、その余程ッてやつを、するなと言ってンのよな、これが」
「――おう」
こりゃわかってねェなと思いながらも、蓮華は三歩ほど下がった。
対峙して、わかることもある。
「先に言っておく」
「ん、なんじゃ?」
雨脚が少しだけ強くなってきた。泥が跳ねるほどではないが、周囲の水気が強くなってきている。
「俺はまだ雨天をきちんと名乗れるほどの技量はねェ。きっと、お前が
「そうか?」
「やれと、言われればやるさ。やりたくねェのが本音だ。その上で、まァ一応、名乗っておく」
その声は、相手へ届く。
つまりそれは、観客には決して届かない。
「
けれど蓮華だけは、その
「――参る」
「うむ、来い」
ここにきてようやく、暁が構えを取った。右腰に刀を
居合いの姿勢だ。
呼吸を繰り返す。吸って吐く、視線は彼女に向けたまま。
彼女の表情から笑みが消えた。視線が合う、呼吸を合わせる。
吐く、そして八割ほど吸った瞬間に呼吸を止めた――動く。
振り下ろしの軌跡は見えなかった。
だが、見えずとも気配で感じたのならば応じられる。
間違いなく彼女は、それを速いと認識した。
扇で受ける。
「――」
受けたのは一瞬、扇を斜めに動かすことで流す。
受け流した瞬間、今度は横、首を
ほぼ
動かずに対応する。
いや、――動けないのだ。
周囲を動く。
居合う瞬間には既に、刀を戻す軌道が完成されており、その完成こそが次の居合いが放たれる動きでもある。
暁は居合いを好む。習得そのものの錬度は、ほかの得物と比較して突出はしていないが、感情的には好きだ。
――硬い。
彼女は
初動紋様から始まる武術家が扱う呪術とは、魔術の領分においては高位のもの、つまり難しい部類に該当するものを、単一の特化型として身につけているものだ。
古くから、妖魔の討伐をしてきた。
しかし妖魔とは、伝承や口伝、あるいは想像によって作られたものであり、言うなればそれは勘違いの集合体でもある。
九尾のよう、実体を持つ妖魔だとて、見えているものは一部に過ぎず、銃弾をいくら当てたとしても、少なくとも人間のような致命傷にはならない。
必要なのは、立場を同じくすること。
妖魔という存在がいる舞台に、上がること。
将棋を指している隣で、麻雀をやっていた時、どうするのか。もちろん、将棋で勝つならそのままやるし、麻雀で勝ちたいなら、隣に行くしかない。
決して。
将棋を指すことで麻雀に勝つことはない。
それと同じことだ。
ただし、それは呪術の基本。
そこから更に、技術として、技として昇華させてこその、武術家だ。
使うかどうかは、別の話。何しろ、使いどころが限られる。
膠着を動かしたのは、暁のほうだ。連撃の隙間を使い、一呼吸ぶんの間合いを作る。その瞬間に追撃がないのが、やはり、九尾としての余裕なのだろう。
姿勢は変わらない、最初と同じ居合いの構え。
技を使う時、技を変える時、構えを変えるのを
同じ姿、同じ格好、その上で体内の自重を変え、力を変え、――技を変える。
《雨天流
居合いは速度。
鞘滑りを利用し、刀の動きを〝
抜いて、納めるまでを一連の動きとするそれに、では、踏み込みによる加速を付け加えればどうだろうか。
そもそも、踏み込みの速度と刀の速度、どちらが速い?
躰の負荷を考えたのならば、速度には上限が存在する。速ければ速いほど、負担が大きい。
二つの速度が加算されるとはいえ、普通なら、どちらかだ。
雨天にはこうある。
踏み込みより遅いならば、居合いに
その踏み込みの初動でさえ、先ほどの変わらないのに、二割増しの速度で移動し、そこから放たれる居合いは気配すら追えず。
ただ、終えて。
彼女の背後で
彼女の顔がしかめられ、扇を持たない手が首元の傷に触れた。
浅い。
いや、浅すぎる。
それはそのまま、彼女自身の妖魔としての力に直結する――そして。
納められたはずの刀の、半分ほどが。
宙を舞って、
彼女の強さにも、暁の技にも、――刀が耐え切れなかったのだ。
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