第62話 忍の覚悟、そして呪刀、白面金毛

 その男は、本殿の上座にて、刀を片手に持ってどっかりと腰を下ろしていた。

「――来たか」

「ええ」

 待っていた、あるいは、待ち構えていた。

 その男の風貌は変わらず、ただ、中身だけは以前と違う。

 彼は稲森だ。

 かつて、忍の父であった五木いつきしんの肉体だけを持った、違う人間である。

 いや。

 もはやそれを、人間として見るべきではないのかもしれない。

二ノ葉にのはを返していただきます」

「いいのか?」

「はい」

「いいのか五木、知っているだろう。二ノ葉はにえだ」

 威圧ばかりある声色は、それでいて、感情だけが抜け落ちている。

 忍にとっては、もはや、聞きなれた稲森の声だ。

「九尾の封印は、草去更そうこしありきだ。いくら仕組みを作ったからといって、力がなくては維持ができん。そのための贄だ」

「方法はあります」

「――そうか」

 維持は、しなくてはならない。九尾の封印が解かれれば、それは五木だけの話で収まらなくなってしまう。

 大地を割った伝説の狐。

 かつては雨天の天魔、百眼ひゃくがんと世界を二分にぶんしたとされる九尾。

 そんなもの、表に出すわけにはいかない。

「お前が死ぬか、忍」

「はい」

 もう、決めていたのだ。

「私が稲森になります」

「なるほど、それが貴様の決めた解決策か」

 ゆっくりと立ち上がる、その仕草だけで威圧が増す。びりびりと肌が痺れるような感覚に、負けじと腹に力を込めた。


「――


 一言、吐き捨てた。


「わかっているだろう、それがその場凌ぎでしかないことを」

「それでも」

 抜いた刀は、正眼。

「――やると決めたのです」


 瞬間、踏み込みによって畳が強く叩かれる。足が打つのは中央、切っ先は最短の軌跡を描く突き、狙うは喉――その一刹那の行動に対し、稲森は踏み込みの畳の縁を足の親指で叩く。

 ほんの僅かな重心の動き、予期しなかった動作への修正動作を行うか否か――それは時間が短ければ短いほど選択が難しくなり、今の忍のように多くは修正しない。しなければ動作のどこかにぎこちなさが混ざり、それは。

 それは小さじ一杯の誤差だけれど、自分よりも熟練者を相手にした場合は致命的でもあった。

 最適でかつ、最短に対する最長の位置取りで半身を滑り込ませた稲森は、忍の左腕を捻り上げながら畳みに叩きつけ、その背中を右足で踏みつけることで拘束した。

 丁寧な作業ではない、乱暴で乱雑なそれのため、忍の腕は折れたかもしれないし踏みつけによって内臓が傷ついたかもしれない。

 そんなものを稲森が気にするはずもないが。

「決めたところで、結果こうなれば、貴様の力は届かん」

 忍は奥歯を噛み締め、決して離すまいと右手の刀を意識しながらも答えない。

「わかっているだろう。この儀を失くせば、草去そうこすらなくなり――そして、九尾じゅうびの結界は破綻する。お前の覚悟は、どこまでの覚悟だ」

 そんなことはわかっていた。

 深い理由の如何いかんはともかくも、結果的に草去更という器は九尾を封じるためのものだ。その副次的な要因として、人という模造品を作り上げ永遠に近い刻を、ただ同じ刻を生きるためだけの模造品を、外部からの干渉に対して利用した。だから稲森を、芯を、結界の頭とされるここが陥落すれば――結果が、つまり九尾の封が解ける。

「――した」

 忍は言う。――いや、叫ぶ。


「それがどうした……!」


 全身に力を入れるが動かない。背中を踏まれて左腕を取られているだけなのに、右腕も足も動かない。

「犠牲? 破綻? ――そんなものより私には二人を失う方が重い!」

「それが貴様の弱さだ」

「そうだ、私は弱い。弱く、惨めだ――ああそうだとも。愛する者を失ってなお、生き続けることなどできないほどに私は弱い。だから――」

「だから、……どうした」

「だから」

 忍の躰を中心として、緑の術式紋様が展開した。


「――二人を助け、私が失われる覚悟をしたのだ!」

「む……!」


 稲森の足が、忍もろとも畳を踏み抜いた。その力加減を見誤る稲森ではない、術式によって踏み込みの力を強化させられたのだろう。

 拘束から逃れた忍は荒い呼吸のまま、破壊された畳を中央に置いて対峙する。

 痛みがあった。鈍い痛みは左の足首と右の肩、そして腹部のやや上にある。鋭い痛みは耳と太股――ああ、だがそんなもの。

 それらを認識の外に置き――やはり、構えは正眼だった。


「私の弱さは――貴方の弱さとは、違う!」


 吼える、いや吠える。痛みを振り払うように、その先にあるものを得るために。

 そうかと、短く呟いた稲森はようやく、その刀に手をかけ、そして。

「――」

 抜く、その意識と行動が空回りした。

 


 ――隙。

 その一瞬を、忍が見逃すわけがない。


 忍にはそれが隙にしか見えなかった。何が、どうなってそれが発生したのかを探るよりも早く、強くではなく間合いに滑り込むように右足が畳を噛み、稲森の意識が引き戻される時遅く――既に、勝敗は決した。

 右下に下がった刀が持ち変えられ、手首を返すようにして足元から首を斜めに横断するよう真上へと引き上げられる。切り下げる――のではなく、手前に引っ張るよう切り上げるその斬戟は、白色の軌跡を描くようにして美しく、綺麗に、音もなく頭上を通過した。

 ほうと、誰かの吐息が静謐せいひつに漏れた。

「何も変わらんぞ」

「それは私が見極めます」

 ぐらりと、躰が倒れる。綺麗に、美しく、澱みなく物理的に首を撥ねたのにも関わらず、稲森は笑った。

 どさりと、躰もたたみに落ちて、抜き身の刀を手にしたまま、忍は一礼をして背を向ける。

 だが、次の一歩でぐらりと躰を揺らし、左手を床につくようにして倒れたかと思えば、そのまま胃の中をひっくり返した。

「――っ」

 痛みではない。戦闘の被害でもなく、ただ。

 初めて自分の意志で、人を殺した感覚が、どうしようもなく吐き気を誘発させていた。どれほどの覚悟があったところで、こんなものは、人として我慢できない。

 夕食は腹に入れておらず、どれほど吐こうとも胃液ばかりが出て、せき込めば内臓の怪我による血混じりになって。

 ぜぃ、と喉を鳴らしながらも立ち上がり、奥間へと向かう。

二ノ葉にのは――」

 呼んだ瞬間、忍は咳き込んで出た血液を吐き出した。血液ではない得体の知れぬ何かが胃を逆流してくる――それは呑み込む。青白い顔のまま奥歯を食いしばって吐くのを止める。

 全身を弛緩させ、襦袢じゅばん姿の少女は力なく瞳を瞑ったまま壁に寄りかかっていた。

 既に抜刀している刀を正眼に構えようとして、両手が震えていることに気付く。切っ先が定まらず、その先に少女の姿を見通すことができない。

「――はっ、は」

 呼吸が乱れるのはいつぶりだろうか。瞑目して作業を思い浮かべ、いや、思い込ませる。危険はない、ただいつものように刀を振るだけでいい。落ち着け、乱れるな――。

 理屈として、頭の中で工程を理解することはできる。だが、それでも震えは収まらない。


 ――私は初めて、人を、この手にかけ、殺したのだ。


 改めて現実を視認して、それでもまだ震えるがままに腕を上げ、その肩口付近を五木一透流いっとうりゅうで切断した忍は、重たい刀を持ち上げ、幾度も失敗しながら納刀を済ませた。

 犠牲となる一ノ瀬二ノ葉の役割は草去更そうこしという土地に呪力を送ること――この場合は山頂から下へと水を送ることにある。おそらく明日の夕刻を迎えた瞬間に終わるタイミングだったのだろう、肉体は活動しているし呪力も自然回復可能な領域ぎりぎりを保っていた。

 胸を、撫で下ろす。

 ああ――良かったと、助かったことに涙さえ出そうになった。

「……二ノ葉、すみません。約束を違えることになりそうです」

 今までありがとうと、感謝を残して忍は立ち上がった。

 五木が稲森へ――木気もくきを持つ人間が金気きんきへと変換する、そこに結界を保つ因子があると忍は読んでいた。どのような方法かは予想しかできなかったが、自我を失うほどの衝撃を伴う作業であることは想像に容易たやすい。

 それは、肉体の内部をそのまま作りかえるような作業にひどく似ているだろうから。

 属性を変えるなどと――聞いたこともないそれを可能とするのは、稲森が抜こうとしていた、あの刀にあるはずだ。

 覚悟を、決めたのだ。やり遂げよう。寄り添って生きようと、二ノ葉と約束した言葉を振り払って。

 腰から刀を鞘ごと抜き、そっと二ノ葉の傍に置く。名刀だから存在するだけで護符の役割は担ってくれるだろう――そうして、先ほどの部屋に戻り、そこにはまだ遺体が。


「――は?」


 そこには。

 赤黒く、何かしらの紋様が刻まれている刀を引き抜き、それを畳みに突き刺して。

 それを前にして、首を傾げる青色が、いて。

「……とうっ」

 わざとらしい掛け声と共に、軽く、手刀で、あろうことか。

 その刀を。

 九尾の封を。

 呪刀のろいがたな白面金毛はくめんこんもうを。

 ――折ってしまった。



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