第4話 雨粒のいたずらと傘の持ち主

 嫌いなものが二つも重なれば、不機嫌にもなる。

 まずは、雨が降り出したこと。もう一つは今が夜で、街灯の少ない杜松市の外れ、暗闇が多い。もっとも、椿つばき青葉あおばはここがどこなのかも、わからないが。

 暗いのは嫌なのに、明るいのも嫌で、街灯の傍でありながらも、決して円形に照らされた部分には入らない。ワンピースの上に羽織りものを一枚、ほとんど部屋着の格好なのに、あちこちが汚れていて、切れている部分もあれば、すそなどはごっそり、何かに喰われたかのよう消失していた。


 ――なにが、あったのだろうか。


 ぽたぽたと、服の端からしたたる水滴を見ながら、機嫌の悪さを疑念で埋めるよう、青葉は視線を足元に落とす。ついでにため息も落ちた、うつむくのはやめた方がいいかもしれない。

 わかることは。

 馬鹿が二人出逢って、青葉は二人の頭を殴って、こらやめなさいと、説教したことだけだ。どうしてそんな役回りだとか、感情的にどうだとか、理屈でこうとか、そんなものはない。


 、その実感だけがあり、嘘は含まれない。


 いつの間にか、あの公園にいて。

 いつの間にか、場を収めて。

 ――いつの間にか、ここにいた。


 どれほどの時間が経過したのだろう、躰の感覚が曖昧でわからない。空腹でもないし、喉が渇いているわけでもない――まるで、人間としての機能が麻痺しているようで、いつしか不機嫌なのも忘れ、嫌いという感覚すらも。


「手放すのは、お勧めしないね」

「――っ」

「驚けたのなら大丈夫、君はまだ人間でいられるよ。やあ、それにしてもまた、遠くまで飛ばされたものだね」

 光を、街灯を間に挟んだ向こう側。

 そこに、暗闇と似た色合いのセーラー服を着たおかっぱの少女が、こちらを見てほほ笑んでいた。

「ああうん、警戒はもっともだ。加えて君は混乱しているだろうし――今までの生活を思い返す、なんてことすら、今はできないはずさ。けれどね、君は以前からだったし、これからもだろう。しかし」

 そこで、彼女は一度言葉を区切って。

「困ったね、雨だよ。君は衣類が透けて下着が見えることに嫌がるだろうけれど、ぼくはどうにも捨てきれない過去ってやつが、ふいに雨粒と一緒に落ちてきてね、複雑な気分になるんだ。水滴の音しか聞こえなかった時間がしばらくあったから、それがトラウマになっているのかもね。絶対音感があると、不定期に跳ねる雨の音色が気持ち悪く感じたりするらしいけれど、それは体験したことがないな。まあ――ともかく」

「あなたは、私を知っている?」

「ううん、ちょっと語弊があるね、それは。君のことは知らないけれど、何が起きたのかは知っているし、君の存在は知っている。おっと結論を急ぐんじゃあない、それは駄目だ。あまり良くはない。ただ覚えておいてくれ、君は今までの生活に戻れないことを」

「それは――私が、何かをしたから」

「結果的には、そうだ」

「なら」

「だからそう急がない方が良い。いいかい、世の中に極論なんて呼ばれるものは少ない。右か左か、そういう選択はあるけれどね。良いとか悪いとか、正しいとか間違いとか、失敗とか成功とか、水掛け論になりうるそいつらは、わかりやすいが故に飛びつきやすい結論だからこそ、落とし穴がある。特に、二者択一は駄目だ」

「どうして」

「だってそうだろう? 今、君はぼくと会話をしながら、あらゆる選択を考えに入れ始めているはずだ。それは悪いことじゃないし、人間なら当たり前の思考だよ。それが考えるってことだからね。けれど、二者択一はそうじゃない、二つに一つだ。それはね、ってことなんだぜ。そりゃ最終的には一つにするんだろうけど、残り二つしかないなら、最悪じゃないか」

 ほかに、選択肢がないのなら。

 それはもう、追い詰められているのと同じだから。

「君は死んだことになる」

「――え? なんで?」

「行政的な理由だよ。夜間であれど、あの場所に関わってしまった君は、さすがに元の生活には戻れない。いずれ落ち着いたら、両親に挨拶くらいはできるだろうけど、今すぐは難しい。はて、さすがにまだ中学生の君に、どうにかしろと言うのは酷だから、少し方法を考えるとしよう」

「――あなたは、誰なのよ」

「ううん、困ったな。そう睨まれても、どう言えば納得するんだろう? ぼくはぼくだ、としか言いようがないけれど、きっとぼくの存在を説明しだせば、君はどんどん信じられなくなる――特に今は、ね。ただ、ぼくは君と違って、特殊な存在じゃあないよ。凡人だとは言わないけれど、言えないけれど、君のように特殊な状況下において、必要とされる存在モノじゃあない」

「……」

「批判じゃないよ、ただの事実だ。未来はわからないけれど、またあの二人が馬鹿なことをやろうとした時、君はほぼ自動的に、その場に行くことだろう。自動的というより、決定的に、か。そこに拒否権はないし、君はそういうモノだ。逆に言えば?」

「それだけ……の、役割ロールってことね」

「今はその認識で構わないよ。ところで、雨を感じたい時に、君はどうする?」

「え? どうって――」

 ほぼ無意識に、青葉は手のひらを上にして、軽く前へ出す。多くの人がそうだろう、雨が降っているのを確認する時には、そうやって片手を出す――そこへ。

 ぽんと、何かが落ちてきた。

 立方体キューブ、ガラスで作られて透明で、中に宝石のような何かが見えた瞬間、それは手のひらに吸い込まれるよう消えた。

「贈り物さ」

「ちょっと、なに、不意打ち?」

「君は否定もできないし、拒絶もできないよ。まったく鬱陶しい雨だな……君との会話を楽しむ時間すら邪魔をするんだから。まあ君とはいずれ、また逢うことになるから、その時を楽しみにしておこうか。一つ、助言をするから、聞くだけ聞いてくれ」

「それが取り返しのつかないものじゃなければ」

「ぼくがここを去ってから、しばらくすると、そう年齢の変わらない少年がこの道を通るだろう。けれど彼は、君のことが見えていないかのよう、視線も送らず、反応もせず、通り過ぎてしまう」

「……今の私は、そうなってるの?」

「君がそれを強く意識した時は、そうなるかもしれないし、明かりの隣にある影ってのは、普通のものより濃くなるものだよ、不思議とね」

「ふうん。で、私は声をかける」

「いいや」

 彼女は笑う。それは少し、いたずらめいた笑みだった。

「通り過ぎて、けれど声が届く距離で、その少年は足を止める。きっと盛大に吐息を落として、君を見るために振り向くんだよ。そして、と、呆れたように声をかけるのさ」

「――どうして」

「そう、それだ。君はそれが現実になった時、どうしてと、そう問いかけるといい。どうせ帰れないんだ、甘えちまえよ。なあに、手を出されることはないさ――きっと、彼にとっては捨て猫を拾うようなものだからね。ははは、助言はこれで以上だ。あるいは、君とぼくとの約束かもしれない」

「頼み、とは言わないのね?」

「同じことだよ。けれど、ぼくができるのはそこまでだ。君から受け取るものは何もないし、ただ渡すだけの存在がぼくだ。君が意味を含有がんゆうするようにね。それじゃ、ぼくは帰るよ。忌忌いまいましい雨に降られながらね」

 ひらひらと手を振って、彼女はすぐ夜の闇に消えた。

 言葉数が多く、なんだか一方的ではあったものの、独りよがりではなかった。思考が早いのか、会話としてはあまり成立しなかったように思うけれど――不思議と、今の青葉は落ち着いている。

 信じるかどうかはともあれ、落ち着けたのならば、それなりに意義のある会話だったのだろう、そう思うことにした。


 雨脚あまあしは強い。


 空を見上げれば目を開けていられないほどなら、躰が重くなるのも必然。一歩、ただその動きさえ面倒になって、諦めが訪れる。

 やはり雨は嫌いだ。

 理由なんていらない。それだって人間らしい感情じゃないか。

 滑稽こっけいだなと、小さく苦笑しようとして、思わず躰を震わせて硬直した。

 男ものの、少し大きめの傘。それは番傘みたいな特徴的なものではなく、青葉は傘の値段には詳しくないけれど、それなりに良さそうだと、そう思える傘をさして、その少年が歩いてきたのだ。

 自然と、見つかりたくはないと思った。いや当然だ、自分の衣類は汚れているし、見知らぬ他人――年齢はそう変わりないと思える少年だけれど、それにしたって異性。どうか通り過ぎてくれと、彼女の残した言葉を否定するよう、無意識に思うのは、当たり前のことだ。

 青葉は知らない。

 魔法師として半分自覚的な青葉が、隠れようとしたのならば、間違いなく一般人では見つけられないことを。

 そもそも、法則を背負わされた彼らは、決して一般の社会に知られることはない。有名になることも、ない。

 ただ、同じ事情を知っているにおいて、当たり前になるだけだ。

 ゆえに、彼もまた、視線すら投げずに足取りも変わらず、青葉の前を通り過ぎた。


 ――ほっと、吐息を落とそうかという、タイミングである。


「ったく……」

 少年は足を止めて、盛大なため息と共に、短くそう言って。

「なにをしてる」

 こちらを振り向いた。


「――え?」


 その言葉を聞いてようやく、彼女の台詞を思い出す。

 まるで予言のような現実を見れば、疑心よりも先に驚きが発生して、目の前の少年が向ける視線に、一歩だけ、背後に。

「何をしているんだと、聞いたんだよ。ここは喫茶店じゃない」

「ど……どういう、意味?」

 意味。

 無意識に使ったそれに、得も知れぬ嫌悪感もあったが、ともかく。

「待ち合わせには適さない場所だってことだ」

 少年は肩を竦めて、そう言った。

「さて、無視して通り過ぎる選択がなかった以上、俺は面倒を抱え込むことになるな。どうせ、これから先にどうすりゃいいのかわからなくて、このまま野垂れることが明確なんだ、とりあえずうちへ来い」

「な、なんでそんな」

「ここに鏡はねえよ。傘――は、いらねえか。それでも、自分で歩く足も、意思も、どっかに忘れたのか?」

「――歩けるわよ」

「雨音が強くて聞こえないな。態度で示してくれ」

「このっ……」

 第一印象は聞いての通り、見ての通り。

 腹の立つ男だった。

「こっちだ」

 だから、背を向けて歩き出す彼を追いかけながら、腹が立っている青葉は気付かない。

 一度も振り向かなかったのに、歩幅をこちらに合わせていたこと。

 そして、気付かないこの対して、小さく苦笑していたことにも、気付かなかった。



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