第17話中学校時代と友人の父親
私たちは、あっという間に中学二年生になっていた。
相変わらずビッくんは校庭を走っていて、ギンちゃんもそれは同じだった。私も勉強をしながら、志望校というものを考え始めていた。医者になるためには、頭のいい学校を目指さなければならない。地元で一番の進学校に私は入学する必要性があった。
それをビッくんたちに話すと、驚くことに彼らも同じ学校を志望していた。ただし、目指す学校は同じでもビッくんとギンちゃんは目指すコースが違っていた。二人とも普通科コースを目指すというのだ。私は国立大を目指す、特進コースを目指すことになっていた。
それぞれの目標が明確になり、勉強や部活に精を出していた夏休み。
私は、ギンちゃんに呼び出された。ギンちゃんと会うときは、いつもビッくんと一緒だった。ギンちゃんとだけと喋ったことはあんまりなかった。
でも、ギンちゃんは私だけを誘った。
うだるような暑さのなかで、ギンちゃんは学校の私の上履きに手紙をいれていた。携帯電話という便利なアイテムを大人たちは使っていたが、中学生が持つようなものではなかった。だから、子供たちのやりとりはアナログだった。
ギンちゃんは、指定した日に校門の前で待つように手紙に書いていた。まるで告白でもするかのように。でも、ギンちゃんがそんなことをしないのは知っていた。だから、一体何を言い出すつもりだろうかと思いながら私はギンちゃんを待っていた。
相変わらず、暑い日だった。
それでも学校に来ているほとんどの人間は部活に勤しんでいて、ただギンちゃんを待っているだけの私は流行から取り残されたみたいだった。そういえば、陸上部は今日はお休みらしい。誰も校庭を走ってはいなかった。
ギンちゃんは、五分ぐらい送れて待ち合わせの校門にやってきた。
眠れていないのか、顔にクマを作っていた。
珍しいことだな、と思った。
体育会系の部活の人間は、いつだて疲れきっていて夜はぐっすりと眠る。だから、ギンちゃんとビッくんが寝不足なところは見たことがなかった。でも、今日のギンちゃんはすごく眠そうだ。
「悪いな。呼び出して」
ギンちゃんの言葉に、私は「待ってないわ」と答えた。
「それで、今日はどんな用件なの?」
ビッくんもいないのに、と私は尋ねる。
「ちょっと付き合ってくれ」
とギンちゃんは言った。
「どこに?」
と私は尋ねた
「オヤジがいる施設」
ギンちゃんの言葉は、素っ気無かった。
でも、私は驚いた。
「お父さんって、離婚したんじゃ」
「ああ。でも、年に一回だけは会いに行くようにしてたから。いつもは母親と行くんだけど、今年は母親がギックリ腰で」
一緒にはいけなかったんだ、とギンちゃんは言った。
「だから、一緒に来て欲しくて。あっ、一人では行きたくないだけだから。深い意味はないから」
ギンちゃんは、なぜだか後半を強調した。つまりは、私に好意はまったくないと言いたいらしい。私もビッくんにしか興味がないので、それはとってもありがたい。
「ビッくんを誘えばよかったのに」
私の言葉に、ギンちゃんは目をそらした。
「あいつの家庭はまともだから誘いづらい」
「私はいいの?なんだか失礼しちゃう」
だが、ギンちゃんの気持ちもよくわかる。
ビッくんは、育ちとかが普通すぎて問題を共有するのは気が引ける。
けど、私だったら問題を共有できるとギンちゃんは思ったのだろう。悲しいことに私の家庭も問題がないとは言えない。
「付き合ってあげるわよ」
私は、大威張りでそう答えた。
ギンちゃんは、ちょっとほっとしていた。
「ありがとう……毎回だけど一人で行く自信がなくて」
その言葉が、私には意外だった。ギンちゃんは、あまり喋らないけれど自信がないタイプではない。むしろ、自分の得意分野――たとえば走るタイムとかにはちゃんと自信を持てるタイプだ。それなりのタイムを出しているのにウジウジしているビッくんとは、根本的に違うのである。
私とギンちゃんは、電車で街にむかった。私の電車賃も、自動販売機で買ったジュースも、全部がギンちゃんのおごりだった。どうやら、ギンちゃんは今回誘ったことを相当申し訳なく思っているらしい。
「ギンちゃんって、お父さんのことを覚えてるの?」
駅から、バスに乗ってどんどんと山のほうへと向っている道中で私はギンちゃんに尋ねた。ギンちゃんは、ぼそりと呟いた。
「あんまり。俺が生まれたときにヌイグルミを買ってきたらしいけど」
その言葉が、私には少し意外だった。
「男の子にヌイグルミ?」
なんとなく、男の子に送るイメージではないものだ。でも、生まれたばかりの赤ん坊は違うのだろうか。
「それが、唯一の父親からのプレゼント。もうなくしたけど」
ギンちゃんは、そう言った。
ふと、私は父親から一度もそう言ったプレゼントを贈られたことがないことを思い出した。どちらが幸せなのだろうか。一度でもプレゼントを受け取った子供と十分な資金で育てられている子供と。
子供に必要なのは、愛なのか金なのか。
いつかギンちゃんと論争した問題が私のなかで、膨らんでいく。
バスは、いつしか忘れ去られたような山奥へと入っていった。もはやバスのなかには、私とギンちゃんしかいなくって狐に騙されるってこういう気分だろうかと思いながらバスに乗っていた。
知らない土地で、男の子と二人っきり。
しかも、好きでもない子とだ。
その子の重大な秘密に付き合いに行く。
許されているような気がした。
もしかしたら、私はギンちゃんの親友なのかもしれないと考えた。でも、親友というには私とギンちゃんの距離は何だか遠い。
なんなのだろうか。
私とギンちゃんの関係は。
そんなことを考えているうちに、バスは白い建物の近くに付いた。精神病院の名札が建てられていて、ギンちゃんはなれた様子で受付に向って名札を受け取ってきた。
「外で、待ってていいから」
その言葉は、ギンちゃんの優しさに思えた。
けれども入り口の付近にも、浮浪者みたいな雰囲気の入院患者がタバコを吸っていて何だか恐ろしい雰囲気が漂っていた。
「付いてく」
ギンちゃんは私の言葉に、ちょっとばかりびっくりしていた。どうやら、私が精神病院のなかにまで付いていくとは思わなかったらしい。
「なか、かなり変だけど……いいのか。あと、おまえの精神になにかしらショックを植え付けても知らないからな!!」
ギンちゃんは、乱暴にそういった。
私は、とにかく知り合いから離れたくない気持ちでいっぱいだった。だから、ギンちゃんと一緒にエレベーターに乗った。
乗って、目的のフロアに付いた瞬間に後悔した。
フロアの入り口に鍵がかかっていたのだ。廊下と病棟を分ける境目のドア。そのドアには鍵がかけられ、「御用のあるかたはインターホンでお知らせください」と書かれた張り紙がしてあった。
ここから先は恐ろしいものが待ち受けている。そんな気配がした。ギンちゃんがインターホンを鳴らして、内部から鍵を開けてもらう。
ギンちゃんと鍵を開けたナースは顔見知りらしかったけど、その看護師は私を見つけてびっくりしていた。たぶん、ギンちゃんは母親以外とここにきたことはなかったのだろう。入った瞬間に、かっと目を見開いた女の人が私に近づいてきた。
年は四十代ぐらいなのに、ツインテールだ。
それだけで異様なのに、女の人は私に近づくと流行のアイドルグループの一員であると自己紹介した。私がそれに対して、なんにもコメントを言えないでいるとギンちゃんが私の服を引っ張った。
「こっちだから……」
ギンちゃんに引っ張られながら、私たちは進む。
私たち以外の人々は、自分の妄想の世界で楽しく生活していた。彼らは他人の入り込まない密閉空間ではスターでヒロインだった。ぼんやりとしている人々もいたが、彼らは観葉植物のように目立たなかった。まるで、生きていることを止めてしまっているみたいだった。
「この世の地獄みたい」
私は、そう思った。
空想の世界にいるだけなのに、なんだか地獄みたいだった。それぞれの幸福しか見えていない地獄。けれども、ここで働いている看護婦はその地獄に慣れているようだ。私は、ギンちゃんに引っ張られてフロアの奥へと行く。
そこには、車椅子に乗った男の人がいた。
何にも喋らない、何にも見ていない人だった。ときより、赤ん坊のように手足を無意味に動かして何かを訴えていた。でも、一体彼が何を訴えているのかは誰も分からないようだった。意味のある言語も、意味のある行動もしない男。
つまり、彼は廃人であった。
ギンちゃんは、彼を一メートルぐらい離れた位置で見ていた。声はかけない。ただ、無言でギンちゃんは父親を見ていた。その顔に、何の表情も浮かんではいなかった。
五分ぐらい、みつめていたと思う。
ギンちゃんは、きびすを返した。
看護師は、誰もギンちゃんに声をかけなかった。まるで、ここにいるのにいない人みたいだった。それはこの病院の看護師たちに愛想がないというよりも、そうやって扱われることをギンちゃんが望んでいるみたいに思えた。
フロアから出るときだけ、ギンちゃんは「何時もありがとうございます」と看護師に声をかけた。看護師は「お父さんもよろこんでるわよ」とギンちゃんに向って言う。
私には、ギンちゃんのお父さんが喜んでいるふうには全く見えなかった。それとも、毎日面倒を見ている人には些細な変化がわかるのだろうか。あるいは、これは単なる会話でしかないのだろうか。ギンちゃんは看護師に「よろしくお願いします」とだけ言って、頭を下げた。
奇妙な感覚だった。
何にも言わない壊れた男と隣に立っている男の子が親子だなんて。
同じ血が通っているだなんて。
とても信じられなかった。
再び鍵が開けられて、フロアは閉じられる。私たちは精神病院を出て、バス停まで歩いた。その途中で、私は尋ねた。
「どうして、お父さんに会いに行くの?お母さんとは離婚しているんでしょう」
ギンちゃんは、息子だから逃げられないと昔説明した。
でも、それは嘘のような気もした。
逃げようと思えば、逃げられるような気がしたのだ。現に看護師たちは、ギンちゃんに何も言わなかった。ギンちゃんが父親から逃げようと思ったら、きっと誰も止められない。
「実は、自分でも分からないんだ」
ギンちゃんは、後ろを振り返る。
精神病院の白い壁が、まだ見えていた。
「どうして、父を見舞いに来るかわからないんだ。もしかしたら、こうやって愛情を示したいのかもしれない。でも、それほど多くを貰ったわけではないから、一年に一度しか返せない……」
ギンちゃんは、そう言った。
私は、考える。
もしも、父親が寝たきりになったとき――私は一年に一度でも見舞いにいけるだろうか。ギンちゃんが父親に向ける愛情は、非常に淡白だ。それでも、受け取ったものに比べたらそれは過剰なほどに思えた。
「今日は付き合ってくれて、ありがとうな」
ギンちゃんは、そういった。
たぶん、これでこの話を終わらせたかったのだろう。
「どうしても、お前についてきて欲しくて」
私を見つめて、ギンちゃんはそう言った。
「ビッくんは誘いづらいもんね」
「それもあるけど、お前が勝利のことを好きだっていうから」
勝利といわれて、一瞬なんのことだか理解できなかった。ややあって、ビッくんの本名だった。ここ数年ぐらい本名を一度も呼んでいなかったから、忘れてしまっていたのだ。
「私がビッくんが好きなのが、どうして理由なの?」
「俺、あいつのことが好きだから」
ギンちゃんは、そう言った。
私は、呆気にとられた。
「でも、俺は身内がああだし……もしも、これがあいつの迷惑になりそうだったら諦めるから」
教えてくれ、とギンちゃんは言った。
私は、どう答えればいいのか分からなかった。私はビッくんが好きだけど、私の家の事情がビッくんに迷惑になるかもとは考えたことはなかった。
「あのね、ビッくんは恐かったら逃げるよ。だから、心配はいらないと思う」
ビッくんの逃げ足は速いのだ。
だから、ビッくんの心配はする必要がないような気がした。
「それより、ビッくんが好きなのにどうして私に聞くの?」
私は、ギンちゃんに尋ねた。
「お前のほうが、先に好きだったんだろ。それに、あいつの人間関係のなかで一番付き合いが濃いのがお前だったから」
先に言うべきだと思った、とギンちゃんは言った。
私は、キララのときのように怒るべきだったのかもしれない。でも、ギンちゃんが妙に義理堅いので呆気に取られてしまった。私は、それ以上は言えずにギンちゃんと一緒に地元に帰った。
私は、バスに揺られながらビッくんのことを考えていた。
小学生からずっと好きな男の子。
キララといい、ギンちゃんといい、どうしてビッくんは可笑しな子に好かれるのだろうか。まぁ、キララが本当にビッくんを好いていたかどうかを聞かれるとちょっと疑問も残るのだが。
「私は、ビッくんが好き」
久々に私は、その言葉を口に出す。
その言葉に、なんだか少し勇気が出た。
誰かを好きになるって、辛いことから逃げ出すための方法の一つなのかもしれない。なら、私たちの感情もただ辛いものを紛らわしたいだけなのだろうか。
「ビッくんが好き」
祈るように、私は呟く。
この感情が、ただ辛いものから逃げるためのものではないように。
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