第51話 「…遅かったね。」
〇神 千里
「…遅かったね。」
知花が寝てから帰りたいと思って、わざわざ一人でスタジオに籠ったのに…
帰ると、知花がリビングにいた。
…眠そうな顔をして。
「何だ。先に寝ててもよかったのに。」
「…相談があって…」
「何。」
俺は冷蔵庫からビールを取り出して…知花の前に座った。
「…アメリカに行く気はないかって…」
「…誰が。」
知ってるクセに…知らん顔をした。
推したクセに、俺はずっと…嫉妬している。
「高原さんが、うちのバンドに。」
「……」
分かってはいたものの…本人の口から言われると。
何とも言えない感情が…
「で?」
「あたし…行きたくない…」
…知花の言葉に、耳を疑った。
「…どうして。」
「……」
久しぶりに、知花を直視した。
すると…知花は上目使いに俺を見て。
「ここに、いたい…」
小さく、そう言った。
…おい。
今、なんつった?
「……」
「だって、2年も…」
「…ふざけんな。」
「…え?」
俺はテーブルにビールを置いて。
「ふざけんなっつってんだ。おまえ一人のことじゃねえだろ?」
知花を…睨んで言った。
「そうだけど…あたしは」
「2年なんて、すぐじゃねぇか。何をためらってんだ?アメリカだぜ?ミュージシャンなら行きたいに決ってっだろ?」
「……」
俺の言葉に知花は無言。
何考えてんだよ…
アメリカだぜ?
おまえ、シンガーになるのが夢だっつってたじゃねーかよ。
「…何でだ?」
「…千里と…」
「……」
「離れたくない…」
「……」
一気に…
一気に何かが冷めた気がした。
それは、知花への気持ちなのか…
それとも、知花を評価していた気持ちなのか…分からない。
「…じゃ、おまえはー…あれか?俺が行くなっつったら、行かないのか?」
溜息まじりにそう言うと…
「…行かない。」
知花から、信じられない言葉が返って来た。
ガシャン!!
「ばかか、おまえは!!」
頭に来た俺は、ビールを手で払って立ち上がった。
「きゃ…」
「誰でも行けるってわけじゃねえんだ!!せっかくのチャンスを、おまえ一人のわがままで台無しにする気かよ!?」
「……」
「じゃ、行くな。けど、そしたらおまえは一生歌えないんだぜ?」
「…え?」
「当り前だ。メンバーを裏切って、おまえは歌っていけんのかよ。」
「……」
知花は…何も言わない。
何も言わないどころか、どうして怒ってるんだ?って顔をして、俺を見てる。
「歌わないおまえには魅力なんてない。」
嫉妬してるクセに…
嫉妬してるクセに、俺は…歌う知花を誇りにも思う。
この矛盾した気持ちに、ここ最近ずっと振り回された。
「……」
「…勝手にしろ。俺は知らない。」
何も言わない知花に呆れてそう言うと。
「どうして!?どこ行くの!?」
知花は背中にすがったが。
「離せ!!」
俺は知花の手を振り払った。
「……」
呆然とする知花に、俺は…
「しばらく帰らねえよ。」
そう言って、玄関を出た。
…俺といたいから、アメリカに行かない?
思い出しても情けなくて腹が立つ。
俺はまた事務所に行って。
「…くそっ…」
誰もいないプライベートルームで一人…
眠れない夜を過ごした。
「話があるの。」
家を出て二日。
事務所で知花が俺の腕を取って言った。
…見付かったか。
「…今は話したくねえな。」
本心だった。
自分の器の小ささに驚いたが…知花が俺に対して言った事は、それほどの事だったとも言える。
アメリカの話も先延ばしに出来るわけじゃない。
話さなきゃいけねーとは思いながら…このどうしようもない思いは…
「大事な話なの。」
「……」
知花の目は、二日前のオドオドしたものとは違っていた。
俺は小さく溜息をついて。
「うちのルームに来な。」
冷たく言った。
「…何だ?」
部屋に入ってすぐ、俺は座る事もせず知花に問いかけた。
長話をするつもりはない。
さっさと話せ。
「あたし…いろいろ考えた。」
「何を。」
「あたしと、千里のこと。」
「……」
「あたし、千里のこと、どうしようって想うくらい好きで離れたくないって…そしたら小さな頃から夢だったシンガーが、どうでもよくなっちゃってた。」
…やれやれ。
俺は…どうしたって、こんな女を好きになったんだ?
「千里に言われた通り。あたしは一人じゃないのに…そのことさえ二の次になってた。」
「で、どうすんだ。」
「でも、不安なの。」
「何が。」
「千里と離れてて…大丈夫なのかなって。」
「…どうも、俺は信用がないんだな。」
「あたし…知ってるよ。」
「何。」
「時々、瞳さんとこに泊まってるでしょ?」
「……」
溜息が出た。
こういうのをいちいち答えたくない。
瞳の所には泊まってないが、アズの所に泊まった時は、瞳もいた。
「あたしのことも、想ってくれてるって、大丈夫って、自分で言い聞かせてた。だけど、きっとあたしはこんなに普通の女だから、千里…物たらなくなっちゃったのね。」
「泊まってるけど、別に何もないぜ?」
「それが、信用できないの。」
「……」
…まあ、信用できねーって言われるなら…仕方ない。
実際、俺は連絡もなく外泊もした。
…ルールを破った。
「あたし、アメリカに行く。」
ふいに、うつむいたままの知花が言った。
…アメリカに…行くって言ったか?
「だけど、向こうに行ってもこんな気持ちのままじゃだめだから…」
「……」
「あたしと…別れて。」
「……」
あたしと…別れて。
…別れて?
離婚…か?
こんな事でか?
たかが、2年アメリカに行くのを、行けだ行かないだで揉めた。
そんな事で、離婚か?
…何だよ。
おまえ、ちっせー女だな。
「……まあな、俺ら偽装結婚だったしな。お互いその方が気軽になるよな。」
腹の中が煮えくり返ってる。
こんな事で…離婚かよ。
どうなってんだよ。
おまえの頭ん中。
「わかった。じいさんたちには、俺から言っとく。離婚届も用意しとく。」
「……」
「おまえは、行くまであの部屋使えよ。俺は……何泣いてんだ。」
下を向いてる知花の目から、涙がこぼれた。
何なんだよ。
言い出したのはおまえだろーが。
「……泣いてなんかない。」
「……」
「これだけは、覚えてて。」
「…何だよ。」
「あたしを歌わせるのは、千里だから。」
「……」
こんな時なのに、瞳にもそんな事言われた気がするよなー。なんて思った。
「…これ。」
そう言って、知花は左手の薬指から、指輪を引き抜いた。
「……」
手渡されて…無言でそれを受け取った。
「…短い間だったけど、楽しかった。ありがと。」
顔を上げた知花は…無理矢理な笑顔で。
「…じゃ、ね。千里も、頑張って。」
そう言って、部屋を出て行った。
「……」
…何なんだ。
何なんだ。
歌わせるのは俺だ?
バカか。
なら…どうして別れるんだよ。
なんで…
「あ、神いたんだー。」
しばらく呆然と立ち尽くしていると、アズが入って来た。
「今そこで知花ちゃんに会ったんだけど、泣いてたよ?何かあった?」
「……」
「…神?どした?」
アズが、驚いた顔で俺を見てる。
それで初めて…自分が泣いてる事に気が付いた。
「…何でもねーよ…」
乱暴に涙を拭って、指輪をポケットにしまった。
…何が…短い間だけど楽しかった…だ。
バカか。
…おまえなんかと…
結婚するんじゃなかった。
〇高原夏希
SHE'S-HE'Sの渡米が決まったある日。
数日振りに事務所に行くと…マノンが言った。
「千里と知花、別れたらしいで。」
「…離婚したって事か?」
「ああ…しかも知花は勘当されて、今聖子んとこにおる。」
「……」
俺はその時…一瞬、胸の奥が痛んだ気がした。
別れさせたいと思ってたわけじゃない。
だが…俺はもしかすると、心の奥底ではそう願っていたのかもしれない。
千里を瞳に…と。
「勘当って、向こうに行くのと関係あるのか?」
「いや…なんか家庭環境自体複雑やったみたいやから…知花、未成年やし…一応親御さんに連絡入れた方がええんちゃうかな。」
「そうだな…」
デビューにあたって…事務所との契約書にはサインをもらった。
その中に、海外事務所への移籍も有り得る事は記してある。
その時のサインは…
夫である、千里の物だった。
知花の履歴書を取り出して、実家ではなく…父親の会社に直接電話をした。
スプリングコーポレーション。
主に映像を扱う会社。
CM制作に置いては、海外からの評価も高い。
『お待たせしました。桐生院です。』
電話の向こうから、思ったより若い声が聞こえて来た。
「はじめまして。ビートランドの高原です。」
『…ああ、どうも…』
言葉の歯切れが悪くなった。
「お嬢さんのアメリカデビューについて、お話は聞かれましたか?」
ペンを片手にそう切り出すと。
『…知花の事ですか?』
かなり…険しい雰囲気。
「はい。」
『あれは…勘当しました。』
「向こうでのデビューが原因…ですか?」
『それは関係ありません。うちとはもう関係ないので…好きにして下さい。』
違和感だった。
まるで、知花を自由にしてやりたいと言わんばかりに…
「…娘さんは、私が見て来た中で、一番の逸材です。」
『……』
「今は、溝が出来てしまったかもしれませんが…いつか、彼女はあなたの誇りになると思います。」
『……』
「…溝が埋まるまで、彼女の事は…うちの事務所にお任せください。」
『……』
無言かよ。
心の中で毒を吐きそうになったが。
電話を切る寸前…
『…娘を、よろしくお願いします…』
小さな声が聞こえて来た。
「…ご了承ありがとうございます。お任せください。」
…だよな。
誰だって…娘は可愛い。
知花は…血の繋がりがないとか言ってたが…それが何だ?
ずっと一緒に暮らしてきた娘なら…可愛くて仕方ないはずだ。
「知花はバイトには来てるのか?」
マノンに問いかける。
「ああ、来てたで。」
「そうか…」
「あまり、言うてやらん方がええ思うで。知花にも、千里にも。」
「…千里は報告して来たのか?」
「いや、聞いてな…」
その時、ノックが聞こえて。
「はい。」
『神です。』
千里が…入って来た。
〇神 千里
もう、何がどうなってるのか。
知花から別れて欲しいと言われて。
まずは、知花の親父さんに呼び出された。
そして…
殴られた。
「偽装結婚だったと言うのは、本当か。」
俺は…何も答えなかった。
最初はそうだったが、気持ちはあった。
…お互いに。
だから…
知花がそう言った事がショックだった。
…まあ、間違いはないが…
あいつには…気持ちはなかったのかもしれねーな…なんて思った。
俺を好き過ぎて、辛くなったなんて言ってたけど…
こんなに簡単に秘密を暴露されるとはな…
色んなダメージが俺に残った。
だから…誰に対しても、俺は何も言わなかった。
知花の親父さんから連絡が行ったらしいじーさんからも…顔に泥を塗った。と叱られて。
二度と顔を見せるなと言われた。
篠田と佐々木と野々村さんは、何も言わなかったが…あきらかに、失望した顔だった。
「え!?離婚!?」
プライベートルームでメンバーに打ち明けると、結婚した時より大きく驚かれた。
そして…みんな無口になった。
…そりゃそうか。
めでたい話じゃねーもんな。
それから…億劫だったが、上層部にも話さなきゃなー…と思って、会長室に行った。
そこには朝霧さんもいて。
すでに…話は行っていたらしい。
…そうか。
知花のバンドのプロデューサーは、朝霧さんか。
「知花がアメリカに行くからって、何も別れなくても…」
高原さんはそう言ったが…
「もう決めた事なんで。」
俺は…そうとしか言わなかった。
会長室を出た所で…瞳にバッタリ出くわした。
「あっ…今、あたし…TOYSのみんなに…」
「何。」
「…離婚って…どうして…?」
瞳は…なぜか泣きそうな顔だった。
なんでおまえが泣きそうなんだよ。
少し笑いそうになった。
笑わなかったけど。
元々よく笑う方じゃなかった俺だが、ますます笑わなくなった。
そんな俺に同情したのか、誰も知花の事を話さなくなった。
数日後、知花の名前が書かれた離婚届けが送られて来た。
あー…俺が用意するって言ったのに、忘れてた。
…忘れたかったのか…どうか。
俺はそれに自分の名前を書いて、役所に出した。
マンションも…知花がそこを出たと知って、売る事にした。
たった一年半。
一年半しかいなかったのに…
売る時には、妙に小さなことも思い出した。
知花が玄関に飾ってた花の事とか。
一緒に寝るようになって、ベッドサイドにいい香りのする小さな花を置き始めた事とか。
俺に隠してバンドしてた頃、遠くのコンビニへ行って来るって嘘ついて…だけど本当にコンビニで買い物して帰って来てた事とか。
…くだらねー…って思うのに。
思い出せば思い出すほど…落ち込んだ。
そして…
行くところが無くなった俺は、アズの家に転がり込んだ。
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