第12話 「……」
〇神 千里
「……」
そのマンションの前に立って、見上げる。
レンガ色の10階建て。
今時のマンションにしては、むしろ古いイメージすらする。
だが…俺がここを気にかけていたのは…いつぞやの広告で見た『防音設備』だ。
マンションにして、スタジオ並みの徹底ぶり。
そうなると、オフに家で練習も夢じゃない。
「本日内覧会中ですので、良かったら中をご覧になりませんか?」
ふいに声をかけられて振り向くと、スーツ姿の男がパンフレットを片手に笑顔。
「…ああ、じゃそうしようかな。」
「あ…こちらファミリー用マンションなので…」
男は俺の顔を見た途端、そう言い渋ってパンフレットを下げようとした。
失礼な奴だな。
「ご結婚は…」
「してない。」
「…では、ご家族でお引越しの予定が?」
「ない。」
「……」
「何だよ。」
「あ、失礼いたしました。こちら…お一人での入居はできない事になっております。」
その言葉に、俺は目を丸くした。
一人暮らしがダメだ?
おい…何だそれ。
「…つまり、結婚すればいいって事だな?」
「…ご予定が?」
「ない事もない。」
「それでは、どうぞご覧ください。」
男は手の平を返したように、満面の笑みでパンフレットを差し出した。
…調子のいい奴。
しかし…結婚か…
残念な事に、結婚願望もだが…結婚の予定を入れられそうな相手もいない。
…瞳…
いや、ないない。
瞳は…本当に頑張っている。
その点はすごく評価できるし、俺に刺激を与えてくれるのも確かだ。
だが…いくら瞳が俺を好きだと言っても。
俺には、同じぐらいの気持ちはない。
あるのは…共感と同情だ。
瞳の幼少時代の話を聞いて、ひどく胸が痛んだ。
望まれていなかった。
…俺も似たようなもんだ。
だが、高原さんは瞳の事を愛して止まない。
だから余計…瞳とは何もない事が言い出せないでいるし。
この瞬間にも、瞳にいい男が出来ていればいいのにとさえ思ってしまう。
…最低だな。
迷わず、エレベーターで10階に上がる。
高原さんじゃないが…一番高い所がいい。
いつか、そこへ昇り詰めたいという気持ちからか…?
見学に来ているのは、若い夫婦や子供連れの家族だった。
平日の夕方。
帰りにどこそこのレストランで晩飯を食って帰ろうという会話が、すれ違いざまに聞こえて来た。
…ふっ。
小さく笑う。
バカげてる。
そう思いながらも…
小さな頃から憧れた光景。
「……」
10階のフロアに立って、どの部屋を見に行こうか考えた。
…あの角部屋にしよう。
見学客達は、俺と入れ違いに帰る者ばかり。
俺はドアを開けて中に入ると…一部屋一部屋をゆっくり見て回って。
…次に来た客が、もし俺みたいに独身のクセにここに入りたいと思っている女だとしたら…
プロポーズをしよう。
そう、賭けに出る事にした。
…いや、まあ…射程圏内なら…な。
角部屋は意外と人気がないのかー…
この一時間。
誰も来ない。
まあ、もう晩飯時だしな。
カタン…
かすかに、ドアの外に気配。
今、ドアノブが動いたよな?
俺は玄関で、静かにその気配を待った。
…男か女か。
カップルか、一人か…
ガチャ
「……」
ドアが開いて…入って来たのは、見た事のある制服を着た女だった。
…一人だし、独身には違いないが…
高校生かよ…。
「……」
「…よお。」
とりあえず、声をかけてみる。
女はカバンを抱きしめる形で、俺の前に立ち尽くしてる。
「こ、こんにちは。」
「……」
その声に、俺は少しだけ…胸が鳴った。
…いい声をしてる。
「何、見に来たのかよ。」
上から下まで、ジロジロと眺めながら問いかけると。
「…はい。」
「一人で?」
「はい。」
女も負けじと…まではいかないが、上目使いで遠慮がちに俺を見た。
「俺は、神 千里。」
見下ろしながら自己紹介をする。
たいていの女子高生なら、俺を知ってると思ったが…
「はあ…」
どうも、知られてないらしい。
「おまえは?」
「あ、桐生院知花です。」
「何?」
「桐生院、知花、です。」
桐生院…
何とも、金持ちそうな名前。
「いくつ。」
「え?」
「歳。」
「今年16になります。」
16か…結婚出来る年齢ではある。
「俺は20。シンガーやってる。」
「シンガー?」
「ああ。おまえ、ロックとか聴かねえ?」
「あんまり…」
好都合だ。
音楽をやってる女より、何も知らない女の方がいい。
いちいち評価されるのも嫌だし、瞳みたいにシンガーだと…俺は、すぐにライバル視する。
「入れば。」
「…はい…」
警戒しまくり。
まあ、そうか。
ドアを開けたらそこに、見ず知らずの男…
しかも見た目からして一般人と違うのは分かるだろうしな。
「うわあ、広い。」
桐生院知花は、リビングに入って初めて、声を張った。
…うん。
マジいい声だ。
心地いい。
「すごいなあ…いいなあ。」
リビングとキッチン、バルコニーを行ったり来たりして、目を輝かせる桐生院知花。
「住めば?」
後ろから声をかけると。
「…無理ですよ。こんな、いいところ。」
…眉間にしわ。
…ふっ。
おもしろい。
「家族で引っ越すとか。」
「まさか。」
「ここ、既婚者じゃないと入れないらしいぜ。」
「なおさら無理だわ。」
桐生院知花は、パンフレットを開くと。
「あたし、早く家を出たくて。こんなとこに住めたらいいなって、モデルルーム見た時から思ってたけどー…夢だな、やっぱり。」
小さく、言った。
…モデルルームも見たとか…好みも合う。気がする。
「何、厳格な家?」
「…そうとも言います。」
厳格な家か…
あまり得意じゃないが…うちには切り札がある。
元通産大臣の祖父。
それだけで、俺はいいとこの御子息だ。
「こんなに素敵な所で暮らせたら、幸せになれそうな気がする。」
桐生院知花が…今までの中で、一番のいい声で言った。
それを聞いて俺は…
「かなえてやろうか?」
バルコニーから振り返って、言ってしまった。
どうした。
俺。
* * *
「……」
「……」
「……」
プライベートルームで、アズとマサシとタモツが驚いたような顔をして俺を見ている事に気付いて。
「…何だよ。」
眉間にしわを寄せて三人を見ると。
「だって…なあ…」
マサシが二人を見た。
「ああ…珍しいなと思って…」
「何が。」
「えー、神、自覚ないの?今、鼻歌してたよ?似合わな過ぎてビックリした。」
そう言ったアズに、マサシとタモツが笑いを我慢する。
…鼻歌。
「今?俺が?」
「うん。Deep Redの『Thank you for loving me』だった。」
「……」
俺は…自分でも思うが、つまらない奴だ。
まず、浮かれるなんて事がない。
浮かれたい時は今までもあった。
例えば…Deep Redがスタジオに来た時とか…
デビューが決まった時とか…
高原さんに飯に誘われた時とか…
だが、すぐに頭が動いて先を考えてしまう。
だから迂闊に浮かれる事もないし、アズみたいに年中誕生日みたいなハッピーな気持ちにもならない。
…そんな俺が、鼻歌。
自分でもちょっと驚いた。
そりゃあ…こいつらが目を点にしても、仕方ないか。
自分で…浮かれている事に気付いてないだけか?
あのマンションを契約した。
婚約中と言ったら、条件はクリアできた。
自分の城が出来る。
…オマケ付きだが。
そのオマケの桐生院知花は…意外にも…好みだと思った。
まあ、まだ詳しい性格までは把握してないが。
見た目はまあ…手をくわえれば何とかなりそうだし、何がいいって…
声が好みだ。
家の事情で21時まで帰れない日があるって言うから、その日は会って『恋人同士』の練習をする事にした。
まずは…その初日が明後日だ。
バンドが軌道に乗り始めるまでは、女を作らなかった。
相手が出来ないのは分かってたし、それによって文句を言われるのも面倒だ。
アズと飲みに行って、そこで声をかけられて…の美味しい話はいくつかあったが。
後腐れのない女としか、そういうのはしたくない。
アズは誰でも良さそうだったが、俺は選り好みをする。
だから、アズほど美味しい思いはしてないが…それをさほど残念にも思わない。
…二十歳にして男が終わりかけてる気もする。
そんな俺が、あの部屋に最初に入って来た女と結婚する。なんて賭けに出たなんて。
アズが知ったら、あちこちに言いふらしそうだ。
「ねー、神。飲みに行かない?」
仕事終わりにアズが言った。
…今日は、特に予定もないし…いいか。
そして…俺は思い知らされた。
アズは意外と…俺を知り尽くしているって事を…。
* * *
「…こんにちは…」
助手席に乗って来た桐生院知花は、少し緊張した顔でそう言った。
「緊張してんのか?」
「えーと…車だと思ってなかったので。」
ああ…そうか。
マンションで会った日、俺は普段乗ってるチャリも置いてたしな。
基本俺はチャリか徒歩。
車はあまり乗らない。
「車、弱いのか?」
「酔いやすい方だと思います。」
「……」
まあ、安全運転してればいいか。
「おまえ、いつもどうしてたんだ?」
「え?」
「21時まで。」
「あ…本屋とか公園とか…」
「晩飯は?」
「家に帰ってから食べてます。」
「…俺はそれに付き合えねーから、今日は一緒に食おうぜ。」
「あ、神さんだけ食べて下さい。あたし、帰って食べますから。」
「……」
俺ら、結婚前提の恋人同士だよな。
「呼び捨てにしろよ。」
俺がそう言うと、桐生院知花はあからさまに困った顔をした。
「そ…そんな。」
「なんか、不自然だろ?神さんなんて。」
「…じゃ、千里さん…は?」
ふっ。
本当に困った顔してやがる。
それが面白くて、つい…
「だめ。」
強要した。
「敬語もやめろよ。」
「……」
ははははははは。
心の中で大爆笑。
こいつ、顔に出し過ぎだ!!
信号で停まるたび、桐生院知花の顔をチラリと見た。
眉間に力を入れたり、唇が尖ったり…
…可愛い奴だ。
「趣味は。」
「え。」
俺の問いかけに、桐生院知花は少し間を開けて。
「生け花…かな。」
ああ…華道の家だっつってたか…
「…休みの日とか、何してんだよ。」
「お茶点てたり…」
「…まじかよ。」
赤信号で停まって、俺はハンドルに寄りかかった。
華道に茶道…まあ…じいさんの反対を受ける事はなさそうだ。
だが…俺と話が合うか?
…いや、別に合わなくていいんだよな。
偽装結婚だから。
「…神さんは?」
「千里って呼べってば。俺もおまえのこと知花って呼ぶから。」
そうだ。
言ったからには、俺もそう呼ぶべきだな。
…知花。
「呼んでみな。」
「ち…千里?」
…いい声だ。
これだけの事なのに、浮かれそうになった。
マジこいつ…好みの声。
「敬語もやめろよ。」
ハンドルに寄りかかったまま、顔を向けて言うと。
「……頑張ります…」
そう敬語で返して来た知花に、俺は…
何か…こう…ギュッと、掴まれた気がした。
街外れまで走って。
俺は、お気に入りの場所に車を停めた。
昔、唯一…家族で来た場所。
「…三日月湖?」
知花が古い看板を見て。
「すごい…初めて…こんなところ。」
湖を前に、目を輝かせた。
俺はー…たぶん、寂しい家庭環境の奴に同情しまくってしまうんだ。
だから瞳に対しても、思わせぶりにするつもりはなくても…そうなってしまってたんだと思う。
そして、知花。
家の事情って何だ?
高校一年生が、21時まで家に帰れないなんて…
一人で本屋や公園で、その時間を持て余すなんて…
「知花。」
「え?」
気が付いたら…知花を抱きしめてた。
「だっ…あ…あっあの…」
腕の中、知花は狼狽えてる。
「恋人同士って、こんなんだぜ?もっと普通にしてくれよな。」
「…そんな…急に言われても…」
…可愛い。
そして…俺は意外にも。
すごく癒されて、満たされている気持ちに気付いた。
こうしてるだけなのに…何なんだろうな。
今なら、アズにも優しくできる気がする。
「寒くないか……?」
「あっ…」
知花の髪の毛を撫でようとすると、知花は慌てたように俺から離れた。
…何だ?
今の感触…
「…おまえ、髪の毛かたいな。」
「わ…悪かったわね。」
「…なーんか、隠してるな?」
「なっ何も!?」
知花の大きな声が湖に響いた。
…ちくしょ…こんな時も、そのいい声に聴き惚れるとは…
「な…何よ。」
俺がじりじりと近寄ると、知花は困った顔のまま後ずさりした。
「髪の毛が薄いとか、そういうのでかつらか?」
「や…何言ってんの?」
ムキになってるせいか、いつの間にか敬語じゃなくなってる。
気付いてるか?
「秘密を持つな。」
俺は秘密なんてない。
話してない事はあるとしても。
まだ初日だ。
これからたっぷり話す事はできる。
だが…秘密となると、厄介だ。
…偽装のクセに、何ムキになってる?俺…
「…あたし…」
知花は観念したようにうなだれると。
「何。」
「……」
「……え?」
まるで、ヘルメットを取るかのように…
「…これが、地毛なの…」
中から零れ落ちる赤毛を手にして言った。
「どうして、隠すんだ?」
「…昔から、こういうふうにしつけられてるの。」
「……」
地毛を隠す事を強いられる家庭環境…か。
ますます同情した。
知花の髪の毛を手にして。
「いい色じゃねえか。俺の前では、これでいろよ。」
そう言って、知花を胸の中に引き寄せた。
「あ…」
「俺の前で何も隠す事はない。おまえは、おまえでいろ。」
髪の毛を撫でながらそう言うと。
「……ありがとう…」
少し…涙まじりの、小さな声が聞こえて来た。
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