第7話 その人の名前は、神 千里といった。

 〇高原 瞳


 その人の名前は、神 千里といった。

 あたしより二つ年上の17歳。

 TOYSってバンドでボーカルしてる。


 って…

 情報は、これだけ。


 どこかでジュースでも飲みながら、色んな話を聞きたかったけど。

 神千里は…

 意外とお堅い人だった。


 見た目、遊んでそうなのに。

 あたしが少し胸元を強調してお辞儀しても、全くニヤけなかったし。

 何なら視線すら寄越さなかった!!


 あたしにあそこまでやらせて、見もしないなんて…

 男じゃないわ!!



 早く帰ったあたしを見て、サラは大笑いをした。

 捕まえた男に逃げられたの?なんて。

 …図星よね。


 でも、約束は取り付けた。

 ボイトレ。

 水曜日に。って言われて、あたしはサラに言われたからじゃないけど…少し、オシャレをした。


 だって…

 神千里。

 あたし、彼の声を好きになったけど…

 それ以前に。

 ぶつかって、目が合った瞬間から…恋に落ちたんだよ…きっと。


 今まで、適当にエッチする男の子がいても、彼らのためにオシャレがしたいなんて思わなかった。

 なのに…

 あたし、神千里のために…今、オシャレしてる…!!



「…男ができたわね。」


 あたしが鏡に向かって髪の毛をといてると。

 ベッドに横になったままのサラが、ニヤニヤしながら言った。


「…まだ彼氏じゃないのよね。」


「まあ、瞳がその気になれば落ちない男なんていないわよ。」


「…そう思う?」


「思う。」


 あたしはサラを振り返って。


「あたし、こんなにドキドキするの、初めてなの。」


 ブラシを握りしめて言った。


「…初恋って事?」


「そうなのかな…」


 サラは首をすくめて。


「もう、恋なんて何回もしちゃってるって顔してたのに…初恋なんて驚き。」


 笑った。


「どうしようサラ…あたし、今日…彼に会うんだけど…上手くいくかな…」


「え?デート?」


 サラはベッドから起き上がって、あたしに向き直った。


「ううん…デートって言うか…教えてもらうの。」


「ええ~っ!?教えてもらうって、何をよ!!」


 サラは良からぬ想像でもしてるのか、足をバタバタさせた。


「あ…違う違う。ボイストレーニングなの。」


「…ボイストレーニング?」


「うん。彼、バンドでボーカルしてて…あたしもシンガー目指してるから…」


 あたしの言葉にサラは目を丸くして。


「…瞳の夢がシンガーっていうのも驚きだけど、何だか…プラトニックな予感がしてつまんないわ。」


 そうボヤくと、のそのそと再びベッドに戻った。



 何でつまんないのよー!!



 * * *


 ドキドキドキドキ…


 あたしはまるで…スタジオナッツをデート場所とでも思っているのか。

 ドアの前で、一人。

 逸る鼓動を抑えきれずにいた。


 この間より、ずっとオシャレして来たんだけど…可愛いって思ってくれるかな。

 って言うか…あたしの事、気付くかな。

 別人じゃん!!ってほどじゃないけど…今日はほんのりメイクもしてるし、髪型だって…


「おい。」


 足元を見てたら声をかけられた。


「えっ…あ。」


「部屋予約してんだから、入って待ってればいいのに。」


 千里は…ぶっきらぼうにそう言った。


 …なんだ。

 …すぐあたしだって分かったか。

 しかも『おい』って…おい。


 何となく唇が尖りかけたけど、んっ。て食いしばって元に戻す。



「何となく…入りづらくて。」


「なんで。」


「受付の人が…」


 あたしの言葉に、千里はチラリと中を覗いて。


「あ~…デニーさんか…めんどくせーな…」


 ガシガシと片手で頭をかいた。


 …めんどくさい?


 この前は女の人が受付だったけど、今日は男の人。

 しかも、あたしが来た時からニヤニヤしてこっちを見てる。



「…ま、いっか。入るぞ。」


「あ、はい…」


 千里について中に入ると…


「あれっ?神、今日個人練?」


 受付の男の人が、千里を見て言って。

 後ろに居るあたしに目を向けて。


「…違う事に使うなよ~?」


 千里に小声で言った。


「そんなんじゃないっすよ。」


 千里は相変わらず無愛想で。

 マイクとクーラーのリモコンを手にすると。


「行け。」


 あたしを階段に押しやった。



 スタジオは四階だった。

 上に行くほど料金が安いらしい。

 エレベーターないしね…



「ねえ、千里。」


 スタジオに入って声をかけると。

 あたしの呼びかけに、千里はあからさまに嫌な顔をした。


「…何?何でそんな顔…?」


「呼び捨てかよ。」


「あ…ごめん。あたし、先月までアメリカで暮らしてたから…」


「帰国子女ってやつか。」


「そう言われるとカッコいいわね。」


「…ま、いいや。で?何だよ。」


「あ…えーと…千里って、誰かに憧れてシンガーになったの?」


 千里は、キーボードをセッティングしながら。


「別に…そういう人物はいない。」


 低い声で言った。


「そうなの?」


「おまえは?」


「え?」


「誰かに憧れて、シンガー目指すのか?」


「……」


 うー…ん…

 千里よ。

 とは…恥ずかしくて言えない。


 でも、パパが高原夏希だ…って何となく知られたくない…

 あ、パパだって言わなきゃいいんじゃん。



「高原夏希って…知ってる?」


 あたしの言葉に、千里は少しだけ顔を上げて。


「Deep Redの?」


 首を傾げてあたしを見た。


「うん。カッコいいなって思って。」


「…まあ、確かにな。」


「千里もそう思う?あのハイトーンなのに細くない声…シャウトも独特だし、すごいなあって。」


 …パパには聞かせたくない。

 こんな褒め言葉。



「おまえ、全部聴いてんの。」


「え?Deep Red?」


「ああ。」


「うん。全部知ってる。」


「ふーん。」


「千里は?持ってる?」


「…一応な。」


「何枚目が好き?」


 嬉しくて…つい、ペラペラと問いかける。

 千里は無愛想なままだけど、あたしの目を見て答えてくれた。


「どれが好きっつーこたないけど…どれもいい作品だよな。」


 いい作品。


 何だろ…

 あたしが褒められたような気がして、笑顔になってしまった。


「さ、始めるぜ。」


 千里がそう言って、鍵盤に指を落とす。


「…弾けるの?」


「楽器は一通り全部。」


「うそ…すごい…」


「いいから、声出せ。」


「あ、はい…」



 そこから…

 あたしと千里の、甘い…わけがない…


「弱い!!もっとちゃんと声出せ!!」


 厳しいトレーニングが始まった。



 * * *


「次回は違うスタジオにするから、雑貨屋で待ってろ。」


 三度目のハードなボイトレの後。

 千里が無愛想に言った。


「えー…その日ってTOYSの練習もあるんだよね?見たいな…」


「ダメ。」


「何でよ。」


「受付がデニーさんの日だから。」


「…デニーさんだと、どうしてダメなの?」


「色々めんどくさいんだよ、あの人…」


 千里は本当に嫌そうな顔。


 …仕方ない…

 雑貨屋で待ってるフリして…途中で見に行っちゃおうかな。



 約束の日。

 あたしは少し早めにナッツに来た。

 受付は…うーん…デニーさんか。

 何が面倒なんだろう?


 そう思いながらも、千里の機嫌を損ねるのは嫌だし…おとなしく雑貨屋で待つ事にした。

 とは言っても…あたしとの約束まで、一時間半ある。


 …そうだ。

 あたしもスタジオに入ろう。



 ナッツに入るとデニーさんが雑誌から顔を上げて。


「あー、いらっしゃーい。」


 笑顔。

 さすがに三度来てるから、顔は知られてる。


「四階、空いてますか?」


「空いてるよ。今から?」


「はい。えーと…一時間ほど。」


「名前と電話番号教えてくれる?」


「……」


 ちょっと、鳥肌が立った。

 それ、申込みに要る物?

 名前はともかく…電話番号?


「寮なんで電話番号は無理です。名前は瞳です。」


「瞳ちゃんね。OK、上がって。」


 マイクとクーラーのリモコンをもらって、四階に歩く。

 千里に見つかったら叱られそうだから、TOYSの入ってる二階はダッシュした。



 それから、あたしは持って来たCDに合わせて歌ってみたり、ストレッチをしたり…

 そこそこに楽しい時間を過ごした。

 でも、TOYSが終わる時間と被っちゃいけないし…

 少し早めにここを出なきゃ。


 あたしがロビーに降りると…何だかデニーさんが目をキラキラさせて。


「あっ!!瞳ちゃん!!今、上に来てるんだよ!!」


 大きな声で言った。


「来てる?誰が?」


 首を傾げて問いかけると。


「あ~…知ってるかなあ…その人達。」


 デニーさんは、あたしの背後を指差した。

 そこには…Deep Redのポスター…

 気付かなかった。

 こんなの貼ってあったんだ。


 …って…


「え?来てるの?」


「ああ。TOYSを見に。」


「……」


 あたしは、パチパチと瞬きをした。


 え?どうして?

 どうしてパパ達が…TOYSを見に?



「…瞳?」


 呼ばれて振り向くと…階段を下りてくるパパがいた。


「え?あ…」


「何やってんだおまえ…こんな所で。」


 ああ…やばい…

 あたしの後では、デニーさんが『え?知り合い?』って、小声で聞いて来る。


「へー、瞳ちゃん、大きくなったねえ。」


「周子さんに似て美人やん。」


 えっと…この二人は…

 キーボードのナオトさんと、ギターのマノンさん…

 …みんな、あたしの事知ってるんだ…


 少し嬉しくなってると…


「瞳。」


 階段から声がした。


 あ…あー…


「来るなっつっただろ。」


「だって…」


 千里は階段を下りると、あたしの手を掴んで外に連れだそうとした。


「あ、ちょ…」


 あたしが声をかけても、千里は振り向かない。


「パ………お父さん。」


 あたしがパパにそう声をかけると、千里は足を止めて。


「…お父さん?」


 振り返った。


「この人、あたしの彼氏。神千里。」


 あたしはそう言って、千里の腕に手を回す。


「彼氏…?」


「お父さん…?」


 パパと千里は、動揺を隠せない様子だった。


「…とりあえず、離れろ。」


 パパの言葉に。


「イヤよ。」


 あたしは即答。


 手を離したがってる千里の腕に、ギュッと抱きつく。



「…神くん。頼むから、遊びでだけは付き合わないでくれ。」


 パパが元気のない声でそう言うと。


「…別に俺は…」


 千里は困った顔。

 そんな千里を見たあたしは…


「遊びなんかじゃないわよ!!あたし達、ちゃんと好き合って恋人同士になってるんだから!!」


 つい…大声で言ってしまった…。



 〇神 千里


 冗談じゃない。


 俺は頭を抱えてうなだれた。



「…ごめん…」


 目の前の瞳は、申し訳なさそうな顔はしているものの…


「でも、いいじゃない。彼女いないんでしょ?」


 …てめぇ…反省してねーな!?

 俺は…高原夏希を敵に回したも同然なんだぞ!?


 高原夏希に腹筋を鍛えろと言われて、今日の瞳のボイトレはキャンセルさせてくれと言うつもりだったが…

 結局、バンドの練習も瞳のボイトレも、何なら一人でやってしまうつもりだった腹筋も。

 どれもやめた。


 っつーか、瞳のボイトレ用にスタジオ取ってたから、そこには来てるけど…

 瞳と、話し合い中。



「何で言わなかったんだよ。高原夏希が父親だって。」


 スタジオの床にあぐらをかいたまま、俺が低い声で言うと。


「…だって…まだ実感がないって言うか…」


 瞳は唇を尖らせて言った。


「は?」


「あの人、うちのママとは結婚してないから…それに、あたしと会うのも14年ぶりなのよ?父親だ…って、何となくまだ認められないって言うか…」


「……」


 うちのママとは結婚してないから…って。

 それって、瞳の母親は愛人だった…って事か?


 高原夏希…

 憧れてたのに…

 ちょっとショックだ。


 …ん?


「親父さんて、結婚してんの。」


 そう問いかけると。


「…してない…はずだけど。」


「ふーん…」


 じゃ、別にショック受けなくていーか。

 大人の事情ってやつだよな。



「…今日、デニーさんに電話番号聞かれた。」


 瞳が、上目使いに言った。


「…だから来んなっつったのに。」


「あの人が面倒って、どうして?」


「詮索好きなんだよ。それをあちこちに言いふらすし、すぐ女に手を出すしさ。」


「あ…でもあたしはもう平気かな。」


「なんで。」


「だって、高原夏希の娘で、千里の彼女ってバレたし。」


「バレたとか言うな。半分は本当だけど半分は嘘だろ?」


 で、それをもう電話であちこちに回されたし…



 俺は溜息をつきながら立ち上がる。

 今日はもうボイトレする気になんねーや。

 帰ってランニング行って、腹筋…


「……」


 立ち上がった俺に付き合って、瞳も立ち上がった。


 そして…なぜか今俺は…

 瞳とキスをしている。

 …こいつ、意外と胸あるな…

 グイグイ押し付けてきやがる…


 …いや、駄目だ駄目だ駄目だ。

 頑張れ、俺の理性。

 こいつは…

 あの世界のDeep Red…

 俺が尊敬する…


 高原夏希の娘だぞ。



「…目閉じないのね。」


 唇が離れて瞳が言った。


「…二度とすんな。」


「どうしてー?女の子に興味ないの?」


「ないわけじゃないけど、おまえは遠慮しとく。」


 スタジオの照明を消して、廊下に出ようとすると。


「待ってよ。」


 瞳が俺の腕を取った。


「お願い…冷たくしないで…」


 暗がりに引き寄せられて、再び…キスされそうになって、拒んだ。


「やめろっつってんだ。」


「…あたし…一人ぼっちなの…」


「……」


「…ママには再婚相手がいて…子供も生まれて…こっちに来たら来たで…パパとは暮らせないって寮に入れられて…」


「……」


 …正直…俺は…

 瞳に同情した。


 四人の兄貴たちはみんな早くに家を出て。

 俺は一人、祖父の家に厄介になった。

 瞳の寂しさが…分からないわけじゃない。



「…ボイトレを続けたかったら、色仕掛けはやめろ。」


 俺に抱きついてる瞳の肩に手を掛けてそう言うと。


「…ボイトレ、続けてくれるの…?」


 瞳は涙声だった。


「続けるから、離れ…」


 パッ


 いきなり照明がついて。


「君ら、出入り禁止。」


 抱き合ったみたいになってる俺と瞳に。

 スタジオの店長が言った。


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