第3話 「じゃ、サカエさん。後は頼むよ。」

 〇森崎さくら


「じゃ、サカエさん。後は頼むよ。」


「はい。行ってらっしゃいまし。」


「行ってくるよ、さくら。」


「……」



 もう…どれぐらい…

 どれぐらい、だろう。


 あたしは、この…きれいな声の人間と…

 ずっと、一緒にいる。



「さくらさん、体を起こしますよ。」


 そして…

 この、「サカエさん」と呼ばれる女の人…

 白髪交じりの…がっちりした…人間…


 寝たきりのあたしを、いつも…簡単に抱き上げて…

 天気のいい日は、車椅子で外に連れて行ってくれたり…する…。



 きれいな声の人間は…

 いつも、暗くなって帰って来る。


「さくら」と、あたしを呼んで…

 寂しそうな目で、あたしの頭を撫でて…

 あたしの隣に潜り込んで…小さくなって眠る。


 そして、毎朝…あたしは、そのきれいな声の人間と、お風呂に入る。

 あたしの体を大事そうに洗ってくれて…

 バスタブであたしを抱きしめるようにして、マッサージをしてくれる。

 きれいな声の人間は、とても、とても…優しい。


 誰?

 誰なんだろう?


 ずっと、そんな事さえも浮かばなかったけど。

 最近は、思考回路が動き始めたのか…

 どうして?って思う事が…増えた。



 あたしは…

 なぜか、二人みたいに喋れなくて…

 何だか視線も定まらなくて…

 ずっと…頭の中に…深く深く…キリがかかっていて…


 あたし…何者なんだろう?

「さくら」って呼ばれている事以外…

 何も、分からない…



「さくらさん、今日は旦那様のお好きなガーベラですよ。」


 眠くてたまらない…

 そう思っていると、声が聞こえた。


 旦那様のお好きなガーベラ…

 旦那様…

 ガーベラ…

 あたしは、そのガーベラと言われた物が何なのか…見てみたい。という感情が湧いて。

 ゆっくりと…サカエさんが手にしている物に視線を向けた。


 …赤い…花…ガーベラ…

 それは、見た事がある物だった。


 …なっちゃん…

 なっちゃん?


 …なっちゃんって…


 誰?




「…さくら、ただいま。」


 眠っていると、いつものように…きれいな声の人間が、あたしの頭を撫でながら言った。

 あたしは…ゆっくりと目を開けて…

 今までは…どうだったかな…あたし、目を開けても…何かを見る…って事がなかった。

 ただ、空間って言うのかな…うまく言えないけど…ただ、そこを見てた。


 だけど…今日は…赤いガーベラを見て…

 きれいな声の人間…その人の顔に、視線を向ける事が出来た。


 …この人…



「…さくら…」


 ……視線が、合った瞬間。

 その人の目には涙が溜まって…それが、あたしの頬に落ちた。


「…すまない。」


 そう言いながら、あたしの頬に触れる指。


 …すまない…?

 どうして…謝るの?


 …なっちゃん?

 なっちゃん…

 あなたは…なっちゃん?

 あなたが…なっちゃん?


 もう、ずっと…長い間…

 ううん、もしかしたら、ここ何日?

 あたしが、あたしとして…意識を持ち始めて…色々、考え始めたんだ…

 あたし…あなたの、何なんだろう…?って…



「…さくら、愛してるよ。」


 あたしの手を握って、そうつぶやくきれいな声の人間。

 あたしの視線は、変わらず彼を捕えている。


 …愛してる…

 今までも…ずっと言われてきた言葉…

 なのに…どうしてかな…

 何だか、とても…悲しくなった…



「……さくら…?」


 きれいな声の人間が、寂しそうな目をしてる。


 どうしたの?

 そう思ったら…彼はあたしの目元をぬぐった。

 …あたし…泣いてる…?

 どうしてかな…


 あたしも…愛してる…

 そう思った瞬間…

 悲しくて…

 悲しくて…


 消えてしまいたくなった。



 〇高原夏希


「久しぶりね。」


 目の前の周子は、昔より気持ちふっくらして見えた。

 だが、痩せすぎているよりは好感のもてる見た目だった。

 待ち合わせたのは事務所の近くのカフェ。



「一人で来たのか?」


 てっきり瞳と一緒に来ると思っていた俺は、周子が一人な事に面食らっていた。


「ええ。学校はもう見て来たし、寮があったからそこも申し込んできたわ。」


 寮…

 それは俺にとっては好都合だが…


「…瞳はそれで納得するかな?」


「いきなりあなたと一緒に暮らすよりは、気楽じゃないかしら。」


 まあ、そうか。

 俺は親父とは離れて居ても面識があったからこそ、すぐに高原に同居できたが…

 それでも高原家の面々とは最初からいい関係だったとは言えない。

 それに瞳は年頃の娘だ。



「…確かに。」


 周子の言葉に納得して頷いていると。


「でも、休日に帰る家がないのは困るわ。」


 これまた…納得の言葉。


「実は、すぐそこのマンションに部屋を買ってる。」


「…え?」


「表向きの俺の家。さくらと暮らしてる家は、誰にも教えてないんだ。」


「……」


「休日の間、どれだけ一緒に居られるかは分からないが…瞳が寂しくないようにはしたい。」



 今までも、事務所に泊まり込んだり…海外出張などで家を空けなかったわけじゃない。

 サカエさんは信用できる人だし…瞳との時間もちゃんと作らなくては…と思う。

 俺を頼って来るなら…特に。



「俺のエゴで一緒に暮らせないんだ。なるべく時間は作る。」


「…そう。良かった。」



 それからしばらく会話が途切れた。

 周子は何かを言いたそうにはしたが、言葉はなかなか出て来なかった。



「…行くか。」


 俺が車のキーを持って立ち上がると。


「…ええ…」


 周子も静かに立ち上がった。



 …なぜ、周子がさくらに会いたいと言うのか…

 それはよく分からなかったが。

 さくらにとっては、脅威だった周子。

 何か…

 刺激にならないだろうか。


 …良くも悪くも。




 周子に最後に会ったのは…泣きながら…告白された日だ。

 あれは、さくらへの気持ちを歌ったらどうかとマノンに言われて…さくらがいなくなって二年。

 年明けと共に『All About Loving You』をリリースした後だった。


 周子は見た事もないようなやつれた顔で…泣きながら、俺の目を見て言った。


「あたし…あなたと別れても…ずっとあなたを愛してた…」


 その告白に、俺は無表情のまま…周子を見つめた。

 そこにいなくても、俺にはさくらしかいなかったからだ。



「何度か…瞳を連れて、カプリに行ったの…」


「…何のために。」


「最初は…あなたが選んだ女を見たかっただけ…でも…」


 周子は流れる涙を乱暴に拭って。


「でも…最初は憎かったのに…素直なあの子の事…本当に…本当に可愛いって思えるようになって…」


 絞り出すような声で言った。


「歳の離れた妹みたいに思えて…夏希との事も…祝福出来たのよ…?」


「……」


「サムシングブルーの…リボンをプレゼントして…」


 周子の言葉を、不思議な気持ちで聞いた。

 今まで…俺が知る限り、周子に『女友達』が存在した事はない。

 一人っ子で、両親もなく…どこか周りにバリアを張っている周子。

 そんな周子が…憎しみを持ったさくらを祝福した?


 …本当なんだろうか。



「だけど…」


 周子はうつむいて肩を揺らせると。


「だけど…夏希が…あの子との子供を望んでるって聞いて…」


 低い声でつぶやいた。


「は…?」


「夏希が、あたしとは要らないって言った子供を…あの子との間には望んでるって聞いて…許せなくなったのよ…」


「……」


 俺は唖然とした。


 さくらとの子供…

 それは、確かに…夢を見た。

 だが…


「…さくらが言ったのか?」


「…いいえ…事務所であなたがそう言ってたって…ジェフが…」


「……」


 ジェフ。

 俺達Deep Redの最初のプロデューサーで…

 周子の元夫。


 俺はジェフに、さくらとの事なんて話した事はない。

 ましてや、子供の事は…誰にも話してないのに。


 ジェフは、周子の俺への気持ちを断ち切りたかったのか…?


「悔しかったのよ…瞳は…あなたが望んで出来た子じゃないのに…あの子との間には…望まれる子供を作るなんて…」


「……」


「だから…あの子に…言ってしまったの…酷い言葉…」


「……」


「本当に…酷い…あたし……ごめんなさい…」



 ……何て事だ。

 俺はしばらく言葉を失った。

 周子は…瞳を『望まれなかった子供』と思っている…って事か?


 そ…うか…

 確かに俺は周子に…子供は要らないと言った。

 だがあれは…



「…ごめんなさい…許して…」


 テーブルに突っ伏して泣いている周子を、責める気にはならなかった。

 これも…愛ゆえなのか。

 そう思うと、何もかもが自分の頑なな気持ちが原因に思えた。


 愛があれば…子供を望んでも不思議はない。

 周子との間にも、確かに愛はあった。

 それを…ちゃんと認めて伝えれば良かったのに。



「…許すも許さないも…おまえは悪くない。」


 俺がそう言うと、周子は少しだけ顔を上げた。


「これだけは…言っておく。瞳の事は、離れて居ても、ちゃんと愛してる。大事な俺の娘だ。」


「……」


「父親として、何もできないが…何かできる事があったら言ってくれ。」



 あの日を最後に…周子から連絡が来ることはなかった。

 俺からは…毎年、瞳の誕生日とクリスマスに…メッセージカードを贈ったが、その返事は一度もない。

 もしかしたら、ジェフに隠されていたかもしれない。


 …ふっ。

 どうでもいいか。




「…ここ?」


 家に到着して。

 周子が辺りを見渡した。


「ああ。静かでいい所だろ。」


 事務所から車でどれぐらいだろうか。

 一番近い家まで、歩いて5分かかるという寂しい場所。

 そんな田舎に、手入れの行き届いた庭のある洋館は、巷では幽霊屋敷と言われているらしい。

 まあ…言われて納得してしまう自分もいる。


 ここは…

 行き場のない俺の気持ちが…

 昼夜問わずさまよい続けている屋敷だ。



「おかえりなさいまし。」


「ただいま。何か変わった事は?」


「言葉は出ませんけど、こちらの質問に瞬きでお応えになる事があります。」


「えっ…?」


 俺はその場に周子を残したまま、駆け出してしまった。


「あっ、旦那様!!」


 サカエさんの声に振り向くと。


「日に何度もはお疲れになると思いますので…」


 サカエさんは、落ち着いた口調でそう言った。


「あ…ああ…そうか…そうだな。」


 そんな俺の様子を見た周子は、切なそうな目をして…うつむいた。



 〇藤堂周子


 夏希に頼み込んで、少しの間だけ…さくらちゃんと二人きりにならせてもらった。


 ベッドに横たわったさくらちゃんは、話に聞いていた通り…

 目は開いているけれど、無表情で…虚ろな視線は、どこを見ているのか。

 それは、遠い昔でもあるかのような気がした。



「……さくらちゃん。」


 あたしは…ゆっくりと、さくらちゃんの手を取った。

 すると、少しだけ…虚ろだった視線が、あたしに向けられた。

 だけどそれは向けられただけで…

 あたしが誰かを認識している気はしなかった。


 …あたしは、歳を取った。

 夏希なんて…まるであの頃のまま?って聞きたくなるぐらい変わってないのに。

 そして、さくらちゃんも…

 まだ十代かと思うような…あどけなさが残ったまま。



「…誰か分からないかもしれないけど…あなたの…歌のファンよ?」


 当然だけど、さくらちゃんから返事はないし…少し眠そうな視線は…まぶたによって遮られた。



 さっき、夏希がこの家を任していると言っていた『サカエさん』と言う人も言っていたけど。

 一度に多くを望むのは…疲れるはずだ。


 あたしは、一方的に声をかけることにした。

 それが自己満足と…贖罪の念に駆られた衝動にしかすぎなくても。


 …良くなって欲しい。


 そんな気持ちは…あるのか、ないのか…分からない。

 だって…

 あたしは今も…夏希の事を想っている。

 だから…こうして一緒に居られるこの子が…羨ましい。

 こんな形ではあっても…


 何より夏希に愛されている。

 その事実が…羨ましい。


 だけど、自分の罪は罪として…謝罪したかった。


「…さくらちゃん…ごめんなさい。あたしのせいね…」


 小さな手を握って、ゆっくりと言葉を吐き出す。


「あたしが…酷い事を言ったせいで…さくらちゃん、夏希の所を飛び出して…」


 44歳になった今も…

 あたしは、あの日…この子に吐きだした言葉の醜さを思い出さない日はない。


『幸せになるなんて、許さない』


 …あたしは…なんて愚かなんだろう…



「…さくらちゃん…あなたは…夏希に愛されてて…いいわね。」


 閉じたまぶたは、開かなかった。

 眠ったのかもしれない。


「こんなに…ずっと…愛されるなんて…本当、羨ましい。」


 髪の毛に…触れてみる。


「…あなたの事…妹みたいに…可愛く思ったのよ…?本当よ…?」


 ええ…そうよ。

 本当に…


 くるくる変わる表情。

 屈託ない笑顔。

 夏希の隣は似合いそうにないって思うほど、子供っぽい気がしてた。


 だけど…

 夏希は、あの笑顔に…癒されていたはず。

 あたしだって…

 カプリでのステージで…さくらちゃんの歌を聴いた日は、自然と鼻歌が出た。



「…こうなっても…あなたを羨ましいって思うなんて…あたし、本当に最低な人間ね…」


 髪の毛を撫でながら、続けた。


「…瞳がね…こっちに来るの。あなたの事は覚えてないと思うけど…あの子、いつもあなたの歌を聴くとゴキゲンだった…」


 小さな瞳が、さくらちゃんの歌を聴いて笑顔になるのを。

 あたしは…幸せな気持ちで見つめた。

 …そうよ…

 あたし…この子に幸せをもらってたじゃない…



「……さくらちゃん…」


 涙が溢れた。

 あたしは愚かで…貪欲な事さえ気付こうとしなかった。

 瞳を産んだ事で、十分な幸せも得られた。

 なのに…別れた夏希の事をずっと引きずって…

 さくらちゃんの身を案じる事もできないなんて…



「お願い…元気になって…」


 心から、そう思った。


 元気になって…

 あたしが出来なかった分まで…


 夏希を幸せにして。



 〇森崎さくら


「……さくらちゃん…」


 その人は…

 あたしの手を握って…

 時々頭を撫でて…

 なぜか、よく…泣いた。


 あたしに…

「ごめんなさい」って…何度も言って…

 夏希…

 夏希…って?

 …なっちゃんかな?


 それと…

 瞳…ちゃん…

 誰だろう…

 この人も…誰なのかな…


 分からないけど、握られた手は…何だか気持ち良かった…

 お母さんっていうか…お姉さんっていうか…

 サカエさんとは違う、温かい気持ちが湧いた。


 頭を撫でられて…ああ…気持ちいいなあ…

 眠くなっちゃった…って思ってると…

 …歌が…聞こえて来た…


 ……この歌…

 聴いた事…ある…



「これね…あたしが作った歌なの…」


 すごい…

 歌、作るなんて…


「さくらちゃん、この歌…好きって言ってくれて…カプリで歌ってくれたわよね…」


 …カプリ…?

 あたしが…歌ってた…?


「あなたは…とても素敵な女の子で…」


 この人…

 あたしの事…知ってるんだよね…?

 …聞きたい…

 あたし…どうして、こうなったの?

 なっちゃんって、あたしの何?

 夏希って、なっちゃんなの?


 そうだとすると…この人は…なっちゃんを好きで…

 彼とずっと一緒にいるあたしを、羨ましいって…思ってるって…?

 …好き…なの?



「…こんな事…信じてもらえないかもしれないけど…」


 優しい手は、ずっと…あたしの手を握ってて。

 もう片方の手で、あたしの頭を撫で続けてくれてる。


「二人には…幸せになって欲しいの…」


 絞り出すような…小さな声。


 あたしには、それが…

 強がりゆえの言葉に思えて…仕方がなかった…。



 〇高原夏希


 周子がさくらの部屋に行って…30分。

 二人きりにして欲しいと言われて…そうしたが…

 周子が、なかなか出て来ない。



 …このまま二人にしていていいのだろうか。

 周子を信用してないわけじゃないが…

 俺は、そっと部屋を覗いた。

 …信用してないって事だな。


 周子はさくらの手を握り、もう片方の手で頭を撫でながら…語りかけていた。

 言葉までは聞き取れなかったが、泣いたり…そうかと思えば、昔ヒットした周子の作った歌を口ずさんだりした。


 …この様子だと…

 周子がカプリに通って、さくらと親しくしていたのは…本当なのかもしれない。

 さくらがそれを俺に打ち明けなかったのは…言いにくかったのだろう。



 瞬きで応えるさくらに…早く会いたい。

 そう思っていた俺に、周子の滞在は酷く長く思えた。



「…サカエさん。」


 キッチンでお茶を入れているサカエさんに声をかけると。


「なんでございましょう?」


 サカエさんはゆっくりと振り返った。


「…いつもすまないね。」


「…え?」


 俺の言葉に、サカエさんは少しだけ目を丸くした。


「ずっとさくらのそばに着いていてもらって…本当に感謝してる。」


「…どうなさったんですか?」


「いや…いつも仕事仕事で、帰って来てもさくらに付きっきりだから…サカエさんにちゃんとした感謝の言葉も言えないなんて、俺は最低だなと思って。」


 本当に。

 この9年間…サカエさんが居てくれなかったら…俺はここまで仕事も出来ていない。

 ビートランドの成功の影には、サカエさんの力が大いに関係してると言っても過言ではない。


「何をおっしゃるんですか。いつもお気持ち以上のお給料をいただいて…」


 サカエさんは眉間にしわを寄せて、首を振りながら言った。


「なのに、さくらさんの状態を良くして差し上げる事が出来なくて…」


「何言ってるんだ。視線が動いたじゃないか。」


「9年でそれだけです…」


「大きなことだ。瞬きで応える事もしたんだろう?」


「はい…」


「ありがとう。本当に…サカエさんのおかげだ。」


 サカエさんの手を取ってそう言うと。


「…旦那様…わたくし、本当に…いつの日か、お二人が手を取り合ってお庭を歩かれるのを…見たいと思っています…」


 涙ぐみながら、そう言った。


 さくらの手を取って…庭を歩く。

 それは…

 俺の夢でもあった。


 春には、桜の花が咲きほこる我が家の庭。


 さくら。


 いつか一緒に…手を繋いで歩こう。

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