むしょくのにーちゃん、残すために

 僕は僕の知らない、僕の書いていない日記を眺めていた。


 そこには僕の知らない僕が、毎日何をしたかが描かれていた。特になんて事のない文字列が、僕の瞳を潤ませる。

 

 つい最近の話から抜粋しよう。


 どうも僕は公園に一人で遊びに行っていたらしい。母親はその瞬間僕の側にいたわけではないのか、詳細に書かれてはいないが、まとめるように描かれている。


 僕は公園の帰り道、迷子の少女を助けたらしい。でもその時に警察を頼ってしまった為、無職だった僕は怪しまれてしまったそうだ。取り調べを受けたとここに書いてある。


 母からすればそんな理不尽に随分とご立腹だったようだ、日記には母親の怒りまで記されている。


 そしてその次の日へと移動すれば、翌日迷子の少女の母親にお礼をされたと書いてあった。さらに少女から飴を貰ったと書いてあった。


 無事誤解は解けたようで、ホッとした。僕のことなのに、まるで僕のことじゃないように感じる。


 そのままさらに読み進めると、海に遊びに行ったと書いてあった。


 僕は水族館に行ったらしかった。だがそこには詳細が記載されているわけではなかった。一人で行ったからだろう。


 そしてその後に神社に行ったと書いてある。そこでおみくじをひいたらしい。でも僕はどんなおみくじを引いたかもわからない。そこに記載されているすべては僕からすれば新しい何かだった。


 このページには紙で作られたポケットのようなものがついていた。それをあけて中を見ればそこにはおみくじが入っていた。


 これは僕が引いたおみくじなのか。


 他人日記を読み進めれば、引いてもなんの意味もないと言っていた息子からおみくじを貰ったと記載されている。


 僕が引いたもので間違いないようだ。


 なんとなく結果が気になった僕は、紙のポケットからおみくじを取り出して中を見た。


 そこには大吉と書いてあった。こんな状況の中でも大吉と書いてあるだけでとても嬉しいものだ。


 おみくじを読めば、その内容にはいいことしか書いてなかった。もしもこれを明日の僕が覚えていないとしても、僕はとても嬉しかった。


 おみくじの一部には興味深い記載があった。


 「身の回り」という区分があり、そこには「親愛なるものを大事にせよ。さすれば道は開かれん。」と書いてある。


 僕の頭の中には家族や友人の顔が浮かんでいた。


 こんな状態になってしまった僕のために尽くしてくれる母。それに父。それに友人だってそうだ。


 僕の記憶は一日で消えていく。今から僕がどうもがいたって何も変えることはできないのかもしれない。なぜなら明日の僕は何も覚えていないのだから。


 でもきっと僕は何かを残すことはできる。仮に僕がそれを覚えていなくとも、こうして僕の大切な人たちがそれを知っていてくれている。


 僕は僕の大切な人たちの為に、何を残せるだろうか。


 そっとこの小さな「他人日記」を閉じた。


 僕は友人と母を見つめる。


「ありがとう」


 溢れる涙を止めることは、もうできなかった。でも止める必要もない。もうどうしようもなく嬉しかったのだ。


 それを見た母も友人も、なぜか涙を流していた。


 


 僕はそれから母や友人と少しだけ会話をして、友人が帰った後に自室へと戻った。


 何を残すか、僕はベッドに座りながら考えていた。でもいいアイデアは出てこなかった。


 そして僕はベッドに座りながらなんとなく周囲を見渡してみた。


 ふと、特に何かを感じたわけでもなく、部屋にあるクローゼットを開けようと思えた。そのクローゼットは今はもう使ってはおらず、開くこともなかった。洋服などは別の場所でまとめて管理をしていたからだ。これはもう、僕が記憶を失い始める前からの習慣だった。


 そしてクローゼットを開けると、そこには見覚えのない光景が広がっていた。


 おそらく僕が覚えていないだけで僕がやったのだろう。そして僕は今日もこのクローゼットを開けると確信していたはずだ。僕にしかわからないかもしれないが、僕にだけ分かればいい。


 そこには書きかけの絵があった。


 特になんて事のない絵だ。だが手法が少しだけ独特だった。


 通常こうした絵は、下書きをしてから色を塗るはずだ。でも僕が残したであろうこの絵は、大きなキャンパスの上で、すでになん箇所か完成しているように見えた。色塗りまで終わっている箇所もあるのに、他に下書きはない。


 僕はいつの間にかそこにあった絵の前まで椅子を動かした。


 そして数分眺めただけで、いつの間にか筆を手に取っていた。

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