むしょくのにーちゃん、小さな手帳を見る

 今日僕の家に友達が訪ねてきた。


 特になんて事のない日も、今の僕の事情から考えれば、それは奇異なことなのかもしれない。


 確認すると、友人はこうしてたまに我が家に足を運んでいるらしい。疑うわけではないが、母親の方に視線をやれば、頷いていた。


 今の僕に会っても、それは何の意味もないことなのかもしれないのに、こうして何度も来るのはなぜなのだろうか。


 だが僕としても一人でいるよりも誰かがいる方がいいと思った。一人でいると、ついつい考えすぎてしまう。


 もしもあの時こうしていれば何か違っていたのかなとか、明日の僕が覚えていない反省をいくらしても、それを活かす機会はないだろう。


 友人は僕に外へ行こうと提案した。彼とは長い付き合いで、もちろん記憶を失い続ける前からの関係だった。だからこそついて行ってみたいと思えた。


「どこに行くの?」


「ん?山だよ、山。上るから、今日」


 山・・・、確か僕の記憶が正しければそんな急に行こうといっていける場所ではなかったはずだ。少なくとも登ろうとするなら、そんなちょっと食事に行くのりではいけないはず。


 僕は思わず聞き返してしまった。


「僕なんの準備もしてないし、こんな状態で行っても危ないよ」


「大丈夫だ、なんの問題もない、俺がいるから。準備ならお前のお母さんに頼んでおいたから。あとは出発するだけだ」


 僕は再度母親の方を向く、また母親その視線に対して頷いただけだった。


 なるほど、確かに昨日の僕と約束をしても意味がない。だから母親と話をしておいて準備をしてもらったのか。


 正直家にいてもしょうがないし、僕はついて行くことにした。


 自然は好きだし、触れるだけで元気が出る。それに何より、記憶を失ってしまう僕のために足を運んでくれたのが嬉しかった。


 僕たちはそれから三十分もしないうちに家を出た。


 山まではおよそ一時間ほどでついた。そこまで遠くはない。


 だが僕たちから一番近くにあるこの山、この山はお散歩感覚で登れるレベルの者ではなかった。上級者向けとまでは言えないものの、少なくとも初心者向けではなない山だった。


 僕はリュックを背負い、それは友人も同じだった。だけど友人はかなりの軽装だった。正直僕から見ると、山に来るような服装ではなかった。


 それでも僕らは山を登り始めた。


 山道は舗装されており、急斜面には階段ができていた。危険なことはさほどする必要がなく、ただ決められた道を上るだけだ。


 問題があった。それは僕の体力面だ。


 僕が働いていた先は運動をするようなところではなかった。いくら山道が舗装されていたとはいえ、まるで無限にあるかとも思えるような階段を、ずっと上り続けるのはかなりの重労働だった。


 ただ自然はとても綺麗で、まるでアニメや映画の世界の中にいるようだった。


 もちろんアニメや映画がこれをもとに出来上がっているけど、僕からすればアニメや映画の方が、こうした圧倒的な自然よりも身近だった。


 だからこそ自然は雄大で、深呼吸するだけでそれを感じることができた。


 田舎とも表現できるような場所に住んでいるけど、深呼吸だけでこれほどリラックスすることはできなかった。


 こうして自然に助けられながらも、僕は何とか山を登り続けた。


 まだ山頂ではないけれど、神社があった。


 僕たちはお祈りをしなかった。でも神社にしか続かない階段を登って、その上から景色を眺めた。


 そこから見下ろす景色はとても綺麗で、僕の人生経験でも一番の景色だった。


「ここで写真とろう」


 普段は写真を撮らない友人ですかこういってきた。彼も彼で僕と同じことを考えているのだろう。


 本当はここで下山することもできたけど、僕たちは山頂を目指すことにした。正直この時点で僕の体力は限界だった。


 でもなんとなく登りたくなった。景色を見たいという単純な理由だけではなかった。根拠を付けるのは難しいけれど、途中で投げ出したくはなかったのだ。


 そうして僕たちは山頂までたどり着いた。もうこの時点で体は限界を超えていた。 


 でも友達は元気だった。


 途中僕の背負っているリュックを代わりに持ってくれたり、僕にペースを合わせてくれたり、全力でサポートしてくれた。


 友達は頂上までたどり着くと、先ほどよりもさらに雄大な景色に見とれていた。


 その景色はとても素晴らしく、山の上だというのに水平線まで見えた。


 どこまでも続くこの景色は、まるで地球が小さくなったかのようだった。


 友達はまた僕に写真を依頼した。


 正直気力はなかったが、それでも僕は友達を撮影した。


 そこから下山するのは、登るよりもさらに大変だった。あまりにも大変で、何度もくじけそうになった。


 でも僕は最後までやり遂げた。体の全てが限界を超えても、あきらめるのが嫌だったのだ。その理由は僕にも分からない。


 登山を終えた後、体の疲労が限界を超えていた僕を気遣い、友達が家まで送ってくれた。


 家につくと、母が料理を作って持っていた。友達一緒に食卓に座る。


 僕にとっての昨日までの当たり前の光景がそこには広がっていた。


 だが僕はもうすぐ記憶を失う、今日のことを僕だけが覚えていることはできないのだ。何をやっても無駄だという喪失感が、夕食を口に運ぶ僕の中に巡る。


 気が沈み、それでも夕食を食べ終わると、友人が小さな手帳のようなものを手に取り、それを書いていた。


 僕は思わずそれについて質問してしまった。


「・・・それは?」


「・・・見てみるか?」


 友人はその小さな手帳を僕の方へと差し出した。


 最初のページには小さく『他人日記』と書かれていた。これが何を意味するのか、僕にはよくわからなかった。


 だがこれが何なのか、中を見ればすぐに理解することができた。


 これは僕の日記だ。


 僕の書いていない、僕の知らない、僕のための日記だった。

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