むしょくのにーちゃん、海を見ておみくじを引く
今僕は、海に来ていた。
これは僕の昔からの習慣で、困ったときはとりあえず自然に触れてみるという、一度はどこかで聞いたことのあるようなことをしている。
それがなぜかと聞かれると、正直答えるのは難しい。少なくとも僕は自然が好きで、なんとなく自然に触れると落ち着くのだ。
普段は自分ひとりで自然に触れようと歩いたりするのだが、今回は自発的な行動ではない。
母親は僕の習慣をもちろん知っていた。
午前中、知りたくもない真実を知って、呆然とする僕を母親が家から連れ出してくれたのだ。確かに家にいるだけで何かが好転するとは思えない。だから真実を知って落ち込む僕に気を使っているのだろう。昔から母は優しい人だった。
そして僕は今、海を眺めている。
浜辺はコンクリートで舗装されており、階段のようになっている。
ところどころ、海風の影響で砂に埋まっているが、それでも座るのには十分だろう。何度か来たことのあるこの海を、今日も眺めている。
来る途中、僕が記憶を失うようになってから、海に来るのは何度目か、一応母に聞いてみた。母はこうして海に来るのは今日が初めてだと言っていた。どうも普段はどこかに誘っても、それを断って一人でどこかに歩いて行ってしまうといっていた。
だが一人になりたいと思ういつしかの僕の気持ちもわからなくはない。
僕は今こうして一人で海を眺めている。海まで連れてきてくれた母親には別行動をしてもらっていた。
一人にしてもらえたのは、僕にとっては好都合だった。
海を眺めている間に、いつの間にか僕の瞳には涙がたまっていた。
受け止めきれない感情の全てが、まるで波に溶け込むように瞳から溢れる。それがなぜかは分からない。辛い過去を思い出そうとすれば、そうして涙だけが返事をした。
別に嗚咽するわけでもない、ただ自然に瞳から涙が零れる。
それだけだった。
こうして海に来ている人たちから見れば、一人で泣いている僕が不自然に見えただろう。それともこうして泣きに海に来る人は多いのか、少なくとも僕に声をかける人はない。
僕はそうしてしばらく過ごした後、涙をぬぐい、立ち上がって歩いた。
この海の側には水族館がある。
なんとなくそれを見たくなった。
水族館までつくと、入場料を払い、中に入った。
そこには海辺の景色と同じように日常が流れていた。僕が失ったそれが、ただそこに流れている。
水族館にデートをしに来た若いカップル、子供の経験と遊びのために来る親子、孫の笑顔を親に変わり作る老夫婦、そしてそんな中でも業務を全うする従業員、遠足に来ている子供たち、それを連れる教員。
誰かが誰かに手を引かれ、純粋な笑顔で、非日常を楽しんでいた。
だがその中で僕だけが笑顔を失っていた。
普通だったら数時間は余裕で過ごせるであろう水族館を、僕は一時間もかからずに歩き終わっていた。
もしかすると魚よりも、水族館で笑顔を浮かべる人々を眺めていた時間の方が長かったかもしれない。
そして今の僕にとって、水族館に流れる雰囲気は明るすぎたのだ。
僕はそのまま水族館を出て、この近くに大きな神社があったことを思い出す。
その神社は山にある。一番上というほどではないが、それなりの道を上ることになる。そこへはサンダルで向かったから、少しだけ足が痛かった。
道中には山を囲むように出店があり、人々がそこに集まっている。
そんな光景を見つつ、僕は山にある神社へと向かった。
神社までたどり着くには、石造りの階段を上らなくてはならない。記憶を失ってからの僕は運動から離れていたのか、階段を上るのに少しだけ苦労した。
足は重く、夏場ということもあり汗が顎へと流れていく。
それを白いタオルでふきながら、僕は神社へとたどり着いた。
そして神社までたどり着くと、僕はあることに気が付いてしまった。
もしも僕が神社でお祈りをしたとして、明日の僕はそれを知らない。つまりお祈りなんかしても、きっとそれは意味を持たなくて、ただ今日の僕の自己満足で終わってしまう。
もちろんお祈りをただの自己満足と考える人もいるだろう、だが少なくとも僕はそういうタイプの人間ではなかった。
そんな僕でも、今日はお祈りをするのをやめておいた。
代わりといっては何だが、神社にはおみくじを引ける場所があった。
例えば僕が今日おみくじで大凶を引いても、明日の僕は覚えていないから、だから僕はおみくじを適当な気持ちで引くことにした。
なんとなくで選んだ適当なおみくじを、少しだけ期待を込めて開く。
この瞬間の気持ちが好きだ。
おみくじは大吉だった。
僕の覚えている範囲の記憶が正しければ、ここ数年おみくじで大吉を引いたことはなかったはずだ。
だから驚いた。そんな幸運が、急にこんな状態の僕に舞い込んだことを。
だが、すぐに僕は現実に引き戻される。
そう、例えば今大吉を引いた気持ちも、大吉を引いたという事実も、いいことしか書いてないこのおみくじの内容も、今日が終わればその事実はなくなる。
明日の僕は、それを知らないのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます