むしょくのにーちゃん、日記を貰う
少女に飴を貰ってからは一週間が経過しようとしていた。
もちろん彼にはその記憶が一切ない。
そしてまた、昨日までを失った彼は、新しい今日へと目を覚ます。
アラームが鳴った。朝のアラームは音を鳴らすことはなく、バイブレーションが持つ独特な低い音と、振動が彼だけが彼を起こす。
彼は眼を覚ますと、ゆっくりと上体を起こした。
まだ目ははっきりと開かず、瞼を眠たげにこする。カーテンからは朝日が差し込んだ。彼はそれに違和感を覚え、ゆっくりとカーテンを開けた。
「・・・あれ?昨日まではこんなに朝は日が差さなかったと思うけど」
彼は彼にとっての昨日までと同じように、会社へと向かおうとする。
だが彼は自室の扉の前で立ち止まった。
「・・・何だよこれ。嘘・・・だよな」
扉には大きなホワイトボードが置いてある。
そこには彼の字で、彼の知らない事実が書いてあった。
「俺はこんなこと書いてない。でもこれは・・・俺の字だ。」
彼はそのままベッドへと戻り、倒れるように座り込んだ。
もしもホワイトボードに書いてあることが真実であるならば、彼が今覚えている昨日の明日、つまり今日は少なくとも現実の時系列とは食い違っていることになる。
それを確認するために彼は、携帯を再度手に取った。そしてもう一度ホーム画面を起動する。
だがそこに書いてある日付は、信じたくなかったホワイトボードを彼に事実だと伝えるだけだった。
彼は右手に頭を寄りかからせ、しばらくの間ベッドの上に座ったままだった。
だが少し経つと、まるで先ほどまでの自分を繰り返すようにもう一度立ち上がった。
自室の扉を開け、彼は一階へと降りて行った。
リビングに行くと、母親が料理を作っていた。朝食の準備をしているのだろう。
彼が下りてくると、母親は一度手を止め、彼の方へと目線を向ける。
もう何度母親は彼のこの表情を見ただろうか。彼のこの表情は、幾度となく母の精神を痛めつけた。だがそれ以上の苦痛を味わっているだろう彼の前で、自分がこれ以上表情に出すわけにはいかない。
母親はすぐに冷静さを取り戻すと、そのまま彼の方へと歩いていく。
「母さん・・・僕は」
母親はそのまま彼のことを優しく見つめる。
「そうなの。でも大丈夫だから、今はしっかりと休みましょう」
母親はそれ以上話すことをせず、すぐにキッチンへと戻った。そして朝食を机に並べる。そうすると、彼はまるでそれが合図だったかのように、机へと座った。
「とりあえず、朝食を食べましょう」
彼はまだ事実を受け入れることができずにいた。それでも朝食を口に運んでしまう。繰り返し続けてきた日常というものは、急には取り除けないものだ。
朝食を食べ終わると、彼はまたゆっくりと口を開いた。
「僕が・・・記憶を失い始めてから、もう一年以上たっているんだね」
「ええ、そうよ」
彼は母親の方を見つめる。それでも母親は、なるべく平然を装う。
「でも大丈夫だから。お医者さんも今の状態がずっと続くわけじゃないって言っているの」
「・・・そう」
彼は机の上を見下ろす。そんな彼を、母親はもう何度も見てきた。
そして今日も昨日までのやり取りを繰り返す。
「それでなんだけど」
母親は机の上に不自然に置いてあったノートを彼に渡す。
「日記をつけてみない?お医者さんが、これも効果があるって言っていたの」
彼は母親が差し出したノートを見返す。そのまま少しの間考えるようにしていた。
「これを何度か見た僕はなんていったの?」
「ずっと断られているわ。でもあなたのためになるはずだから」
「不思議だ。今僕に起きていることが全部事実だったとすれば、昨日までの僕は僕じゃないかもしれないのに。結局同じ返事をすることになりそうだよ」
「やっぱり、日記は書いてくれないのね?」
「ごめん」
彼は母親のお願いは素直に聞くタイプだった。別に理不尽に断ったりするタイプではないはずだった。だがこの日記だけは書く気がしなかった。
「僕にとって昨日までの僕は僕じゃなくて、他人みたいに思えるんだ。だって昨日の僕が何をしていたか今日の僕はなにも知らない。それを日記っていう形で突きつけられるのが、耐えられないんだ。・・・怖いんだよ」
彼はまた机の上に視線を落とした。
「そう、わかったわ。無理して欲しいわけじゃないの。だから安心して」
このやり取りも何度も繰り返していた。
彼は昨日までの自分も自分なのに、その記憶が全くないせいで、その矛盾を恐れてしまっているのだ。そしてそんな日をループ再生しなくてはいけない。それがどんな地獄なのか、母親には想像することすら難しかった。
だからこそこうして無理強いすることはできなかった。
特に彼の記憶障害の原因は、過剰なストレスによるものだった。
おそらく職場におけるストレスが原因だと思われるが、職場はそれに関しては一切黙秘している。彼が記憶を失い始めると同時に、その職場での記憶も失ってしまったようなのだ。
だから彼に何が起きたのか、彼自身ですら知ることができず、だからこそ母親もそれを知ることもできなかった。
母親は仮にそれを知ることができても、彼に辛い思いをさせるだけなので、今はもうそれを知ろうとは思わなかった。
もちろんすぐにそう思えたわけではない、当初は必死に企業を問い詰めたりもした。だがあれから一年がたち、それでも記憶障害が治らない彼に、今は時間を尽くしていた。
母親といくらか会話を交わすと、彼はまた自室へと戻った。
そして自分の部屋を眺める。
彼にとっての昨日と、何も変わらない自室を、ただボーっと眺めた。
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