むしょくのにーちゃん、飴を貰う
彼が迷子の少女を助けて一日が経過した。
彼はいつも通りに、少女が迷子になっていた場所の近くにある公園に向かっていた。昔から彼はこの公園が好きだった。だからこうして今でも気付くと、そこへ歩いている。
彼が公園のベンチでまどろんでいると、公園の入り口に親子が歩いてきた。
母親と少女だ。
母親と少女は彼を見つけると、迷うことなく彼の元へと歩いていく。
彼はその様子をそのままただじっと見つめていた。
特に声をかけたりだとか、そういうことは一切ない。
彼の側まで母親が来ると、不安そうに口を開けた。
「あの・・・昨日はお礼も言わずに帰ってしまってごめんなさい。この公園にたまにいたのは知っていたんです。でもその・・・平日の昼間にもいたから。なんとなく避けてしまっていました」
母親は彼に対して深く御辞儀をする。
それに倣うように少女も彼に御辞儀をした。
だがそれでも彼が親子に反応することはない。むしろ彼は疑問気に親子の方を眺めるだけだった。
その様子に心配になった母親はダメ押しのように付け足す。もしかすると彼は怒っているのかもしれないと思ったのだ。
「娘が飴をもらっていたようで、娘をすぐに見つけられたのはあなたのおかげだったのに、私ったら」
そうするとようやく彼は親子に対して返事をする。
「なるほど、なんとなくわかった気がします」
すると彼はベンチの自分の隣に親子を手招きして座らせる。
何か違和感を覚えるも、親子はそれに従うことにした。彼が昨日したことを考えれば、悪いことではないと思った。
「すみませんが、昨日僕が何をしたか伺ってもいいですか?」
「・・・え?」
母親は彼の質問に違和感を深め、彼の方を見返す。だが彼は普通に笑顔を浮かべている。母親はこの会話が日常会話以上の意味を持っているとは思えなかった。
「その・・・昨日娘が迷子になってしまって・・・娘をあなたが交番に連れて行ってくれたんです。そのおかげで娘とすぐに会えたんです。でも警察の方にあなたが無職であることと、犯罪の可能性もあると聞かされて。それでお礼も言わずに私たちは帰ったんです」
「・・・そうですか。誤解が解けたようでよかったです」
母親が説明を終えると、それだけ返事をして、公園に生える立派な木々を眺め始める。
それ以上何かいう訳でもなかったので、母親はまた口を開いた。
「あの・・・どうして、昨日のことをもう一度?怒っているわけでもなさそうですし。その・・・どうしても気になってしまって」
彼は木々から母親の方へと視線をゆっくりと戻した。彼は何かを覚悟するように口を開いた。
「僕は・・・記憶障害者らしいんです。ある日を境に、一日でその日に行ったことの記憶が消えるようになってしまったらしいんですよ」
母親は唖然として彼の方を見つめる。幼い少女には彼の言っている意味の全部は、理解できなかった。
「あの・・・そうだったんですか。だからもう一度聞いたんですね」
「えぇ。身に覚えがないことだったので。僕からすればそれはもう他人がやったことのようにしか思えません」
母親は彼の状態の深刻さを理解し、それ以上口を開くことはできないでいた。
「・・・すみません。こんな話を急にしても困らせるだけですよね」
彼はベンチからゆっくりと起き上がった。動作の一つ一つにメリハリはなく、おっとりというよりはマイペースな印象を受ける。
「それじゃ僕はもう行きます。迷子の件は僕のように忘れてください。本人が覚えていないのに、あなたが覚えていても仕方がないですから」
彼はそのまま立ち去ろうとする。
すると彼の方へと少女が走っていく。そのまま彼のTシャツの裾を掴んだ。
彼は急に後ろから引っ張れる感覚がして振り返る。
「むしょくのにーちゃん、これありがとう」
少女はそういうと彼の方へと飴を差し出した。
その飴は棒付きで、平たく、子供がよく舐めているようなものだ。
「・・・ありがとう。貰っておくよ」
昨日のことは、少女の母親から説明を受けたが、なんとなく違和感はある。それでも飴を笑顔で受け取った。少女の純粋な善意を無駄にすることは、良くないと感じたからだ。
飴をくれた少女の頭を軽く撫でると、彼はまた歩き出した。一日で記憶を失ってしまう以上、これ以上自分と関わっていても不毛なだけだと思える。だからこそ何か話すこともない。
彼は受け取った飴をなめながら、帰り道を歩いた。
親子の方へは、あえて振り返ることをせずに。
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