第3話 スリと佐々木

「蚊みたいだね」

公園で、佐々木に言われた。

「音もなく近づいて、気付かれないうちに血を吸う。吸われた方は後から気付くんだ」佐々木は分厚い手をパンと叩いて広げる。「財布がない」


パン、という音が大きく、急だったので匠は思わずびくりと体を震わせてしまう。


「あの」それでも匠は口を開いた。舐められないよう表情を引き締める。「さっき見たこと、警察に言いますか?」


つい2時間ほど前、匠はオフィスビルが立ち並ぶ桜並木の下にいた。

暖かい陽射しが降り注ぎ、満開の桜は花びらを遠慮がちにちらほらと舞わせる。


こんな陽気だし、と匠は気が緩んだ。

スリは今日はやめとくか。


しかしすぐに思い直す。

今夜はすたみな太郎でたらふく肉を食いたい。


はたして匠は予定通り、どこで昼食にしようかと浮足立つ新入社員の群れの隙間に歩を進めた。

ランチバッグから体半分飛び出た財布を盗ることは容易かった。

女子社員はお喋りに夢中だった。あの調子なら財布がないことに気付くのは昼食後の会計の時だろう。

時間的な猶予はあるが、さっさとその場を離れたかった。早歩きで桜並木を抜け、地下鉄の入り口から地下に潜った。


自分の財布から切符を買っている時、後ろから肩を叩かれた。バレたのかと心臓が跳ね上がった。勢いのある叩き方だったのでここで気付かない振りをするのは却って不審だろう。

匠は努めて平静を装って振り返った。

しかし背後に立っていた男が、好きなタレントにでも会ったかのような興奮した顔で「さっき見てたよ」と財布を抜き取るジェスチャーを真似て、「すごいな」としみじみ感心した様子で言うので匠は思わず「はぁ」と返事をしてしまう。


「僕は佐々木っていうんだけど、キミがよければ少し話がしたい。いいかな」


男はえびす顔で年は30代前半といったところ、背は匠と同じ170くらいか。しかし匠とは比較にならないくらい体格がいい。

一瞬刑事かもしれないと不安になったが色白の顔に浮かぶ柔和な笑顔に少し気を許した。

一緒に電車に乗り離れた駅で降り、駅からそう遠くない場所にあった公園のベンチで話すことになった。



警察に言いますかという匠の問いかけに佐々木は「警察なんか」と吹き出した。

「警察に何ができるっていうんだよ。キミだってやりたくてスリやってるわけじゃないだろ?大変な思いしたんじゃない?」


てっきり説教でもされるのかと思っていたのに、こちらを慮る言葉が出てきたので匠は呆然としてしまう。


「キミに必要なのは警察じゃないよ。仮に捕まったとしてキミはどうなるか知ってる?」


「刑務所ですか」


「キミは19って言ったよね。まずは警察官の取り調べ。もっと捜査が必要な場合は留置所か鑑別所で留置。検察官が色々調べるんだ。そのあと家裁に送られて今度は調査官が学校や家庭に聞き取り調査」


家庭と聞いて養護施設が過った。施設長は沈痛な面持ちで項垂れ、副施設長は〝でも良い子なんです〟と声を震わせることだろう。想像しただけで胸が潰れそうだ。


「調査官の判断次第ではすんなり元の生活に戻れる。だが少年審判までもつれ込んで更正が難しいと判断されれば少年院だな。

でも知っておいた方がいいのはこんな形式上の流れじゃない。その中身だ。

第三者の、キミとはこれまで一切関わってこなかった人間たちがいきなりわんさか出てきてキミについて無遠慮に調べまわった挙句、自分たちに都合のいいストーリーを組み立てる。キミの事実なんか一切反映されていないストーリーが裁判に提出されるってことだ。

ストーリーにある程度の整合性が確認できれば大人たちは満足して早々にファイルを閉じる。こんなもので本当に更正できると思うか。そもそもキミを置いてけぼりにした社会だ。そんな社会の歯車たちにキミを助けられると思う?」


正直、司法制度もそれを扱う大人もそこまで悪いものではないんじゃないかと匠は淡い期待を抱いていた。

事情を汲んでくれるアツイ刑事なんかがいて、腹が減ったろと出前を頼んでくれる。そしてまだやり直せるぞと肩を叩いてくれるのだ。


けれど目の前の男は実際に見てきたかのように内情に詳しかった。怪訝に思っているのを見透かしたように佐々木が言う。


「僕はマエがあるんだ。前科」


前科。和やかな笑みに前科を感じさせる獰猛さは微塵もない。職業は寺の住職ですとでも言った方が信用されそうだ。


「色々あってね」と俯いた表情は変わらず笑みを浮かべてはいたが眉尻が下がりどこか寂寥感が漂っている。この人はこの人で辛い人生だったのだろう、匠はそう察した。




つづく


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